中学卒業の日、豪華な夕食を目の前に母親が他人であることを知った。冬樹は竜胆が五歳のときに実母と別れ、今の母親と再婚したらしい。つまり妹とは腹違いの兄妹。あなたとは血が繋がっていないと言われて、竜胆はなぜかほっとした。この人は自分の母ではない。
蝋燭が刺さった馴染みのショートケーキも、頷いているように見えた。ショートケーキはこの食卓にいる他の誰よりも自分の味方であり、母のことを知っているように思えた。
「早く言ってくれればよかったのに」
竜胆はいちごのヘタをむしりながら笑った。そのけろりとした様子に、下がっていた母親の口角が定位置に戻っていく。眉は相変わらず垂れていたが、いつものことだった。気を遣ったのか、母親はそれから卒業生一同の合唱について感想を述べ始め、「指揮が力強くてよかった」とか「でもやっぱりリンちゃんが一番かっこよかった」とか、並べられたのは世の中の親がよく言う言葉だった。
その間、箸を手にしたままテーブルの中央を睨みつけている冬樹を、竜胆は視界の端でじっと見張っていた。わかりやすい。母親に語らせ、自分は口を滑らせないよう黙っているのだ。
冬樹はまだ何かを隠していた。
それは決定的で、残酷で、親子の糸を断ち切ってしまうような何か。
そしてその危うい糸が切れぬよう、固く握りしめているのもまた、冬樹だった。
多分、それが何であるかを打ち明けられたら、もっと嫌いになる。
でもその何かを背負ったまま死なれたなら、もっともっと嫌いになる。
いずれにせよ今以上に冬樹を嫌う未来が見え、だから言わないのだと気がついた。息子に縁を切られてしまっては人生設計が狂うのだ。平穏な家庭、優秀な息子という条件は冬樹にとって絶対だった。
いつだったか、自分のおやつまで食べてしまった妹を責め、泣かせたことがあった。妹はもう幼稚園の年長でおしゃべりもできたのに、ずっと泣くだけだった。言い訳したことを母親が告げ口したらしく、夜遅くに帰ってきた冬樹は眠っていた竜胆を起こし、
「おまえは男だろう。自分より妹を守ることを考えろ」
と、両肩を握り締めてきた。その手は微かに震えていて、冬樹の爪が肉に食い込んできて痛かったのを覚えている。なんでだよ——なんて言いたくても言えない。「はい」と言うまで、きっと冬樹は手を離さなかっただろう。
男だから妹を守る。
兄だからじゃなくて?
おやつを食べられたのはぼくだ。
意味がわからなくて、悔しくて。隣で眠る冬樹にバレないよう、息苦しい布団の中で静かに泣いた。そのときはまだ、おねしょをしてしまうような年ごろだった。
——嘘をつかず誠実に。正しい男に。
どうしても甘えたくなったときには、これをよく思い出した。小学校受験の帰り道、冬樹の背中に誓ったものだ。知らないオッサンが名付け親だとしても、心のどこかでは『誠実』の言葉を信じていた。
あとは甘いものを食べれば完璧で、お気に入りは山吹屋のショートケーキだった。竜胆が喜ぶのを知っていて、母親はお祝い事があるたびに必ず買ってくれた。
ただ、その味はいつも決まって寂しい。みんな笑っていて、自分も嬉しいのに、口に運べば運ぶほど泣きたい気持ちになった。ふわふわで柔らかいはずのスポンジと、ほんのり甘いはずの生クリームはするりと喉を通り過ぎて消える。代わりに虚しさだけが腹に溜まった。
そしてカスが張り付いた銀紙を見て思う。
——どこに行ったの?
それが大好物を食べ終わったときの、いつもの感想だった。
食べてしまったというよりも、置いていかれたという感覚のほうが近い。竜胆にとってショートケーキを口にした数は、自分が独りであることを思い知らされてきた数なのだ。
でも欲しがってはいけない。泣いてはいけない。ぼくは男だから。
自分は『誠実』のもとに生まれた自慢の息子だと信じていた。信じようとして、クラスメイトの前でも嘘をつかずに答えたのだ。
しかし竜胆にも、墓場まで持っていかなければならない嘘が一つある。
高二のクラス替えの日、「あいつ女みたいじゃね」と言われていた身体の大きな男子がいた。体格に反して話し方がやわらかく、仕草も少し女子っぽかった。ちょっかいをかけたのは前の席の武田で、わざわざ弁当に夢中になっていたのに「なあ?」と話を振られ、竜胆は「そうだな」と笑った。武田はしばらくいじりを続けていたが、飽きてしまったのか、こちらに身体を向けると竜胆の顔を覗き込んで言った。
「顔かわいーな、おまえ」
その夜、竜胆は激しく自分を責めた。女みたいと言われていたあいつを庇うことで、空気の読めないヤツとして仲間外れにされるのが怖くて笑ったんじゃない。武田のようなクズに動揺した自分、一瞬でもどきりとした自分——それがどうしようもなく気持ち悪かった。思い出せば喉が酸っぱくなって、トイレで黄色い泡を吹いた。
自分は誠実で正しい男。
一人だけ髪や瞳の色が違っても、それでもずっと家族で、自慢の息子でいたかった。
だから笑った。笑ったからには笑った側の人間として生きるのが筋だ。武田の共犯になった瞬間から竜胆は生まれ変わった。みんなと同じように女子を好きになって、デートをしてつきあって、三十を超えるころには結婚をして両親に孫の顔を見せる。そうやって「パパ大好き」と言われるような誠実な男になるのが、人として正しい生き方なのだ。
かつて冬樹に買い与えられた絵本は、高校生の竜胆にとって、いい教科書になった。
蝋燭が刺さった馴染みのショートケーキも、頷いているように見えた。ショートケーキはこの食卓にいる他の誰よりも自分の味方であり、母のことを知っているように思えた。
「早く言ってくれればよかったのに」
竜胆はいちごのヘタをむしりながら笑った。そのけろりとした様子に、下がっていた母親の口角が定位置に戻っていく。眉は相変わらず垂れていたが、いつものことだった。気を遣ったのか、母親はそれから卒業生一同の合唱について感想を述べ始め、「指揮が力強くてよかった」とか「でもやっぱりリンちゃんが一番かっこよかった」とか、並べられたのは世の中の親がよく言う言葉だった。
その間、箸を手にしたままテーブルの中央を睨みつけている冬樹を、竜胆は視界の端でじっと見張っていた。わかりやすい。母親に語らせ、自分は口を滑らせないよう黙っているのだ。
冬樹はまだ何かを隠していた。
それは決定的で、残酷で、親子の糸を断ち切ってしまうような何か。
そしてその危うい糸が切れぬよう、固く握りしめているのもまた、冬樹だった。
多分、それが何であるかを打ち明けられたら、もっと嫌いになる。
でもその何かを背負ったまま死なれたなら、もっともっと嫌いになる。
いずれにせよ今以上に冬樹を嫌う未来が見え、だから言わないのだと気がついた。息子に縁を切られてしまっては人生設計が狂うのだ。平穏な家庭、優秀な息子という条件は冬樹にとって絶対だった。
いつだったか、自分のおやつまで食べてしまった妹を責め、泣かせたことがあった。妹はもう幼稚園の年長でおしゃべりもできたのに、ずっと泣くだけだった。言い訳したことを母親が告げ口したらしく、夜遅くに帰ってきた冬樹は眠っていた竜胆を起こし、
「おまえは男だろう。自分より妹を守ることを考えろ」
と、両肩を握り締めてきた。その手は微かに震えていて、冬樹の爪が肉に食い込んできて痛かったのを覚えている。なんでだよ——なんて言いたくても言えない。「はい」と言うまで、きっと冬樹は手を離さなかっただろう。
男だから妹を守る。
兄だからじゃなくて?
おやつを食べられたのはぼくだ。
意味がわからなくて、悔しくて。隣で眠る冬樹にバレないよう、息苦しい布団の中で静かに泣いた。そのときはまだ、おねしょをしてしまうような年ごろだった。
——嘘をつかず誠実に。正しい男に。
どうしても甘えたくなったときには、これをよく思い出した。小学校受験の帰り道、冬樹の背中に誓ったものだ。知らないオッサンが名付け親だとしても、心のどこかでは『誠実』の言葉を信じていた。
あとは甘いものを食べれば完璧で、お気に入りは山吹屋のショートケーキだった。竜胆が喜ぶのを知っていて、母親はお祝い事があるたびに必ず買ってくれた。
ただ、その味はいつも決まって寂しい。みんな笑っていて、自分も嬉しいのに、口に運べば運ぶほど泣きたい気持ちになった。ふわふわで柔らかいはずのスポンジと、ほんのり甘いはずの生クリームはするりと喉を通り過ぎて消える。代わりに虚しさだけが腹に溜まった。
そしてカスが張り付いた銀紙を見て思う。
——どこに行ったの?
それが大好物を食べ終わったときの、いつもの感想だった。
食べてしまったというよりも、置いていかれたという感覚のほうが近い。竜胆にとってショートケーキを口にした数は、自分が独りであることを思い知らされてきた数なのだ。
でも欲しがってはいけない。泣いてはいけない。ぼくは男だから。
自分は『誠実』のもとに生まれた自慢の息子だと信じていた。信じようとして、クラスメイトの前でも嘘をつかずに答えたのだ。
しかし竜胆にも、墓場まで持っていかなければならない嘘が一つある。
高二のクラス替えの日、「あいつ女みたいじゃね」と言われていた身体の大きな男子がいた。体格に反して話し方がやわらかく、仕草も少し女子っぽかった。ちょっかいをかけたのは前の席の武田で、わざわざ弁当に夢中になっていたのに「なあ?」と話を振られ、竜胆は「そうだな」と笑った。武田はしばらくいじりを続けていたが、飽きてしまったのか、こちらに身体を向けると竜胆の顔を覗き込んで言った。
「顔かわいーな、おまえ」
その夜、竜胆は激しく自分を責めた。女みたいと言われていたあいつを庇うことで、空気の読めないヤツとして仲間外れにされるのが怖くて笑ったんじゃない。武田のようなクズに動揺した自分、一瞬でもどきりとした自分——それがどうしようもなく気持ち悪かった。思い出せば喉が酸っぱくなって、トイレで黄色い泡を吹いた。
自分は誠実で正しい男。
一人だけ髪や瞳の色が違っても、それでもずっと家族で、自慢の息子でいたかった。
だから笑った。笑ったからには笑った側の人間として生きるのが筋だ。武田の共犯になった瞬間から竜胆は生まれ変わった。みんなと同じように女子を好きになって、デートをしてつきあって、三十を超えるころには結婚をして両親に孫の顔を見せる。そうやって「パパ大好き」と言われるような誠実な男になるのが、人として正しい生き方なのだ。
かつて冬樹に買い与えられた絵本は、高校生の竜胆にとって、いい教科書になった。