小学生のころは、学校から帰ってくると適当に宿題を済ませ、一目散に外へ遊びに出ていた。けれど雨の日は誰も遊んでくれない。都内でも高級住宅街と呼ばれるここら辺の友達はみな、風邪を引いては困るからと両親に大切に育てられた子たちなのだ。雨の日は頭も痛くなるから、六月は好きではない。梅雨の時期は仕方がないので、生まれたばかりの妹を世話する母親の側でよく絵本を読んだ。一人で遊べるお兄ちゃん。そう言って自分も頭を撫でてほしかった。
 実際、母親の関心を引くことはできた。胴の長い犬、水色の猫集団、大中小のヤギ。動物の絵本ばかり好む竜胆を見て、母親は「リンちゃんは将来、獣医さんね」と言った。面白いから読んでいただけなのに、竜胆は少し気分が悪かった。
 あるとき母親が紙袋いっぱいの絵本をくれた。「お父さんからよ」と言われ、竜胆は大いに喜んだ。父親の当麻冬樹(とうま ふゆき)華道家(かどうか)で、いろんな業界人と交流があるらしく、当時は会えるのが朝だけだった。母親が絵本のことを言ってくれたのかもしれない。竜胆は嬉しくなって袋の中身を見た。けれど動物の絵本はひとつもなかった。王子さまとお姫さま、彦星と織姫、人魚と青年——どの表紙も、変だった。だから紙袋は本棚の脇に置いて、いつもの一冊を手に取る。
 それは『ぴこ』という昆虫のノミから始まり、助詞の「の」を繰り返し、最後には別のノミである『ぷち』に辿り着くという言葉遊びの絵本だ。竜胆はこれが大好きだった。
 獣医さんでも王子さまでもなく、『ぴこ』になりたい。
 そうしていつか、どこか遠くで(つな)がっている『ぷち』に会いたい。
 そう何度も願っているうちに、竜胆は鏡の中に ぴこ を見るようになった。
 ぴこ を初めて見たのは小一の夏、国語の授業で名前の由来を()いてくるという宿題が出た日だった。その答えはすでに知っていたけれど、もう一度訊いてみたくて、帰りの会が終わると真っ先に家へ帰った。
「お母さん! ぼくの名前の由来ってなに?」
「リンちゃん、おかえり。早かったのね」
 居間の扉を開けると、奥のソファに座っていた母親が背を向けたまま応えた。
 ランドセルを放り、目の前まで駆けて立ち止まる。母親の腕の中では妹が懸命に乳を吸っていた。ふわふわと柔らかそうな髪。触れようと手を伸ばし、弾かれた。
「手洗いうがいは? あと『ただいま』でしょう。帰ってきたらすぐにっていつも——」
 竜胆は口を尖らせ、母親が言い終える前に洗面所へ逃げた。
 鏡に映る三角の唇は、もとの形に加えて余計に曲がっていた。最近は山吹のおじちゃんに富士山と言われる。竜胆は子どもだが、山吹屋(やまぶきや)という洋菓子店の立派な常連で、お気に入りのショートケーキが売り切れていると()ねるのだ。
 しばらく鏡を見つめていると、またあの感覚に襲われた。それは漢字練習帳に何度も同じ漢字を書いていると、途中でわけがわからなくなって、あれ、こんなのだっけ? と怖くなってくるアレに似ている。自分だが、自分でないような気がしてくる。
 家族の中で竜胆だけが髪も瞳も真っ黒だった。しかしマジックで塗りつぶされたような黒目がちな瞳を、山吹のおじちゃんは「子犬みたいでかわいいじゃないか」と言ってくれた。
 宿題の答え合わせは夕食の席で行われた。向かいに座る冬樹の、想定外の言葉にフリーズする。
「……お寺?」
「そうだと言ってるだろう。坊さんに名付けてもらった。縁起がいいんだ」
 ハッキリと言い切られ、竜胆は首を(かし)げた。
 冬樹の顔が味噌汁のお椀で見えない。ずずず、と飲み干したかと思うと、立ち上がって食器をまとめ始めた。
「置いといていいわよ。ありがとう」
「そうか」
 テレビの前で、床に敷かれたタオルケットに転がる妹。側に寄り、その綿飴(わたあめ)のような頭を冬樹がするすると撫でる。妹はおとなしかった。夜泣きもしない良い子だと言って、両親はよくかわいがった。
 尊い親子の(たわむ)れを眺めながら、ああ、そうなんだ、と竜胆は納得した。
 もう一度訊きたいと思ったあの言葉は、嘘だったのだ。その場を乗り切るための、(てい)のいい嘘。
 あれは小学校受験のときだ。面接官だった教頭が華道家の冬樹に萎縮して、母親にばかり質問を投げていた。
「当麻竜胆くん。上も下も珍しいですな。……ではお母さま、名前の由来は?」
「誠実に育ってほしい」冬樹が間髪入れずに答えた。
 教頭はぎょっとしていたが、最も驚いたのは竜胆だった。
「これは失礼。お父さまが名付けられたと。ええっと、誠実……と言いますと?」
「リンドウという青い花には『誠実』という花言葉があり——」
 教頭は「なるほど」と繰り返し、銀色に縁取られた眼鏡の鼻当てを執拗(しつよう)にいじっていた。父さんはその言葉が一番嫌いなのに、と笑いを堪える竜胆は、誇らしい気持ちに浸った。
 帰り道、『誠実』の意味を訊いたとき、冬樹はなぜか恐い顔をした。けれどすぐに「嘘をつかない正しい男ってことだ」と言って、大きな手で頭を撫でてくれた。ほっとして、絡まった髪を()かしながら、竜胆はその広い背中に憧れた。言葉は少ないし、あまり目も合わせてはくれない。でもそれが父さんで、そして自分はその父さんの子なのだと思えた。
 それなのに。あの帰り道の言葉を覚えていたのは、自分だけだったのだ。
 まだ親と世界が同意であった幼い竜胆にとって、夕食での一言は絶望に等しい。お風呂上がり、洗面所の鏡に初めて現れた ぴこ は、とても寂しそうな目をしていた。
 翌日、直前までどちらを宿題の答えにするか悩んだ。まだ発表もしていないのに、クラスメイトは「竜胆はいいな。おれ、お母さんの好きな俳優の名前だった」「竜胆くんは珍しいし、かっこいいよね」などと羨ましがった。クラスで一番期待されているのは自分だ。それは当然のこと。そう鼻を高くしながらも、言われるほどに(みじ)めな思いは増した。
 結局「お坊さんにつけられましたー」とおでこを叩き、おちゃらけてみせた。教室がしんとして、みんなの視線が一斉に刺さる。途端に心臓が収縮していくのを感じた。
 おわった——と思った瞬間、どっと笑いが起こった。
 正解だ。
 そうだ、名前の由来なんて関係なしに、自分は人気者なのだ。
 早く座りなさいと先生に言われ、竜胆は舌を出しながら席についた。クスクスと長引くクラスメイトの笑い声が気持ちよかった。
 そんなことがあっても、当麻竜胆という名前は気に入っていた。今まで同じ名前を見たことはないし、これから先もきっとない。それに名前の由来を訊いてくる人間などいないだろう。たとえ見知らぬオッサンが名付けたのだとしても、見栄えがよければそれでよかった。