翌日、歩志道に食堂へ誘われて家を出た。授業もないし、別にものすごく会いたいわけではなかったけれど、一人でいるのが嫌で大学へと走った。こんなとき、近くに住んでいてよかったと思う。
「そういえばリンちゃん、ゼミどこにしたの?」
「ん、黒木ゼミ」
「……ええ、ブラッキー?」
 歩志道が酢豚のパイナップルを避けながら言い、そういえばそんなあだ名だったなと竜胆は思った。
 黒木は四十代後半の男性教員。寡黙でかっこいいと言う渋い女子もいるが、一部の学生からはブラッキーと言われている。目が座っているのだ。それに子ども嫌いという噂もある。
 竜胆にもわからないと思うことはあって、特に柊一との間に感じる妙な信頼感には怪しさを拭いきれないでいた。
 そのあとも歩志道とはいろんな話で盛り上がり、大量の菓子で歓迎されたことやマイケルと馬のフィギュアの話なんかで笑った。歩志道は人と比べてツボがおかしく、笑ったとしても「ヘッヘ」と言うだけなのだが、今日は無駄に明るく笑うので気持ち悪いなと思っていると、何かあったのかと訊かれた。電話越しに元気がないのを察してくれたのかもしれない。
 この男には人に寄り添う心がある。昔は山吹屋におつかいへ行くと、おじちゃんの足元に隠れているような子だったのに。
 いつの間にこんなやさしいゴリラに……と思っていると、歩志道が言った。
「今日、夕飯食べに来てもいいよ。デザート付き」
 まるで息をするように出てくるその決まり文句は、歩志道のさりげない助け舟だ。山吹親子とは竜胆が幼稚園児のころからの付き合いなので信頼は厚い。家に帰りたくないときや冬樹が在宅の日は、勉強会やバイトを理由にしてよく山吹屋に逃げ込んだ。歩志道に母親がいない分、大勢のほうが楽しいと言って、山吹も竜胆のことを歓迎していた。
「大丈夫。家のことじゃないから」と竜胆は笑ってみせたけれど、だったらその辛気臭い顔の理由を教えろという目で返された。
「……いや、まあ大したことじゃないんだけど。昨日俺のこと助けてくれた人にきつく当たっちゃって、自分が面倒くさいなって」
 面倒くさい。本当に。ひとりは嫌いなくせに、近寄られると怒るなんて。
「リンちゃんはそのとき、どんな気持ちだったの?」
「なんか……いらいらしてたっていうか」
 柊一は小さな嘘をついた。自分を笑わせるためで、和ませるために言ったことくらいわかっていた。しかしあのとき夢の中で言われた【嘘つき】という言葉が耳に張り付いて、自分が冬樹と重なってしまった。
 ——嘘をつかず誠実に。正しい男に。
 そう心に刻み、自慢の息子になろうと従ってきた。けれど途中から、それは冬樹みたいにならないように、という反骨精神に変わっていた。あの人は身をもって、ヒトという生き物の醜さを体現してくれたのだ。ある意味では最高の教育法なのかもしれない。
 けれど、それも失敗だったのだろう。
 いくら矯正しても、遺伝子の強固さには勝てない。
「平気で嘘ついて……笑ってほしくなかったかな」
 歩志道は黙って、竜胆を見ている。
「冗談みたいなこと言ったんだ。まあ、俺のただの八つ当たり」
 言葉にして、竜胆はようやく自分の稚拙(ちせつ)さを恥じた。なんだかんだ言って柊一は勉強どころか、みなくていい面倒までみてくれている。それが黒木への忠誠心だったとしても、嬉しかった。そんな相手に「帰れ」と言うのは、間違っている。
「許せるから」
 唐突な歩志道の言葉に、竜胆は首を傾げた。
 この男はいつも言葉が少ない。どういう意味かと訊いて初めて意思疎通ができるので、十数年の仲でもたまに理解できないときがある。
 すると、集めたパイナップルをこっちの皿に移しながら、歩志道が言った。
「心を許せるから、理不尽な気持ちも全部、まとめてぶつける」
「は?」
「俺以外にもいるんだなあ」豚の塊を頬張りながら、歩志道は遠くを見つめた。
 ——心を許せる?
 繰り返しても、わからなかった。
 柊一のことはほとんど知らない。知っているのはカフェイン中毒で星好き、黒木を慕っていて、好きなものは最後にとっておくタイプということくらいだ。あとは男前なことを隠して、地味な眼鏡男子を装っている。
 柊一を知りたいとは思う。
 でも自分が心を許しているつもりはない。
 それに、誰かに自分を明かすなど竜胆にとってはあり得ないことだった。
 他人を信じていないというより自分を信じていない。理解に苦しんでも、こいつならわかってやりたいと思うような人間ではないのだ。
 けれど、歩志道の言うことが間違っているとも思わない。竜胆は茶色いパイナップルをつつきながら「これ俺も嫌いなんだけど」と呟いた。