——誰?
 ぼんやりと見える、自分の周りを囲んで何か言っている人たち。
 声は徐々に大きくなる。
「嘘つき」
「最低」
「遊びだったんでしょ」
 顔には(もや)がかかっていて、声も忘れてしまったが、その責め立てるような口ぶりで誰だか見当はついた。違うと叫んだつもりが、どうしてか口が開かない。触れると唇が縫われているようだった。
 するとポニーテールの一人が言った。
「ねえ。そういえば一度も、私を見てはくれなかったね」
 違う、それは違うと叫んだけれど、届かずに自分の内でこだまする。
 黙ったままの竜胆に女の子は続けた。
「私を好きって言いながら、いっつもどこ見てたの?」
 君を見てたよ。そう言いたいのに、唇がぴったりとくっついて喋れない。
 次にショートカットの子が言う。
「あんた、嘘ついてたよね」
 ——え?
「みんな言ってたよ。竜胆って、ゲイだよね、って」
 途端に、床が抜けて身体が堕ちた。みんな縮んでいって、ゴマみたいになって消えたかと思うと大きな青い球体になった。右も左も真っ暗で、自分以外には誰もいない。次第に青い球体も見えなくなって、あとはひたすら、堕ちていった。
 堕ちて、堕ちて、堕ちて……岩にでもぶつかれば終わるのに、後ろを見ても何もない。そこには、永遠の闇があるだけだった。
「おいっ」声が降ってきて、ぐわんと肩が揺れた。
 今度は視界が真っ白で眩しい。左上には眉をひそめた柊一がいた。
 頭を傾けると、同時に何かが頬を垂れていき、(こす)ると少し濡れていた。
「……先生、呼んでくる」
 あ、ひとりにしないで——。
 言う前に、柊一は行ってしまった。先生というのは黒木ではなく、きっと医務の人だろう。独特な匂いから、ここは医務室であるとわかる。
 白い天井を見つめながら、竜胆は先ほどの夢を思い返す。あれは脳みそのゴミが作り出した幻想であって、誰かに言われたわけじゃない。自分で自分に言っただけ。だから大丈夫。自分はちゃんとここにいて、ちゃんと普通だ。
 声がして、頭を動かすと職員カードを首から下げた女性がこちらを覗き込んでいた。
「具合はどうかしら。お尻、痛むかな」
 ——お尻?
「あなた、臀部(でんぶ)を少し打ってるのよ」
 職員が言い、その後ろでバツが悪そうに立っている柊一と目が合った。
「軽い打撲だけど、今日はこのまま湿布を貼って安静にね。十八時には閉まるけど、それまでここにいてもらっても構わないわ」
 口の両端に浮かんだえくぼに見とれていると、職員はそれじゃあと言って出て行った。
「かわい」
 呟くと、柊一が目を細めた。
「……お叱りはあとにしてよ。俺、頭痛いんだから」
「頭じゃなくてケツな」
「あ、それ。たしか頭に降ってきたと思うんだけど——」
「それよりおまえ、出禁にされても知らないから」
 えっと飛び上がり、尾てい骨あたりに電流が走った。尻を打ったというのは本当らしい。
 すると見下ろしたままの柊一が言った。
「あれは全部で、百万はする」
「え、うそだ」
「うそ」
 柊一は顔色も変えず、平然と言った。
 ちくり、と針が胸に刺さる。ふんと笑うのを見て、また一本、太いのが刺さった。
「……帰って」
 (こぼ)れた言葉はすぐに消えた。布団を被り、大きく言い直す。
「もう帰っていいよ」
 なのに柊一は黙ったまま、そこにいる。
「なに。まだなんか説教?」
 暗闇の中、竜胆はなぜか無性にいらついた。
「おまえ、研究室でなんか、言おうとしたろ」
 瞬間、胸に刺さった二本の針が、ぐにゃぐにゃっと曲がった。
 ——なんで今だよ。
 いつもは秒でシャッターを閉じるくせに。今じゃないのに。
 竜胆は布団の端を握り締めた。
 嬉しかった。
 でもそれ以上にむかついた。だから貴重な気まぐれをつい、跳ね除けてしまった。
「別に。もう忘れた」
 沈黙。布団の中に潜ったせいか、ひどく息苦しかった。
 はやく行け、はやく行けと布団の裾を握り締めていると、数秒も経たないうちに扉が閉まる音がした。追い出しておきながら、この世に一人取り残されたような、すべてに見捨てられたような孤独感に襲われる。
 幼いころ、寂しいときや悔しいときはこうしてよくダンゴムシになった。母親に見つけられることもあれば、夕飯どきになるまで気づかれないこともあった。妹が小学生になってからやらなくなったが、今でもたまに、部屋で一人丸くなる。
 そろそろ死にそうになり、布団の端をめくった。
「——っぷは!」
 平泳ぎのように破裂じみた息継ぎは、自分が酸素を必要とするヒトであることを自覚させる。そうして安心する。嫌いなくせに、そのヒトである自分に。
 この布団遊びは竜胆にとって一種の自慰(じい)であり、ときには、それ以上の快感と安心をもたらす子宮にもなった。
 あのとき、自分は柊一に何を訊こうとしたのだろう。なんでもよかった気もするし、ひとつに決めていた気もする。それくらい、どうでもよかった。重要なのはその問いを通して、柊一が自分と同じであることを確かめることだった。
 けれど、おまえにその権利はないぞと言われて目が覚めた。どんなに世間に馴染んだとしても、誰かとわかり合える日は来ない。それどころか傷つけるばかりだ。
 好きな人にさよならと言われるのはつらい。だからいつも向こうから言ってくれるのを待った。別れ際には「最低」「ひどい」となじられ、大ビンタをお見舞いされることもあった。痛いけれど、当然だと思った。
 好きだった気持ちに嘘はない。でも一緒にいると、ちょっとずつしんどくなって、だんだん自分がわからなくなって、不安になって鏡の前に立つと、ああ、やっぱりと落胆する。
 きみはひとりぼっちで、ぼくもひとりぼっちだと、ぴこ が言うのだ。ぴこ を独りにしてはいけない。
 それにもう()()りだった。これ以上誰かを傷つけたくない……いや、傷つけた誰かに、自分を傷つけられるのが怖い。傷つけられて、皮がめくれて本当の自分を見破られるのが、たまらなく怖い。
 日が暮れたころ、戸締りに来た職員に起こされ、家に帰った。
 湿布を剥ぎ、鏡の前で身体を捻ってみると怪我のところが少し青みがかっていた。そういえば生まれたての妹がこんな尻をしていた。自分もそうだったのだろうかと考えてみたが、赤ん坊の姿を見たのは冬樹と写っていたあの一枚だけだった。