――星光地区へ行ってくる。
勇悟はそう言って、家を出ていった。そんなふうに軽く言葉にした彼だが、星光地区まで行くには、車で半日かかる。大きく三つの地区に分かれており、それぞれの地区がそれなりの広さを有している。
その中でも日光地区が一番広いものの、面積の約八割は森林であるため、移動に時間がかかるのだ。
だから、同じ日光地区内であっても、端から端まで行こうとすれば、車で一日かかる距離なのだ。たいてい、他地区への移動には鉄道を使う。それであっても、日帰りは難しいだろう。
勇悟のいない夜。ここぞとばかりに桃子と柚流が寝室へとやってきた。
「勇悟さんがいなくて寂しい?」
花梨が尋ねると「ぜんぜん」と答える桃子だが、その瞳はどこか不安げに揺れている。
夏の夜であっても、子どもの体温はどこか心地よい。
「パパがいなくなったのも、夏だった」
ぎゅっと花梨にしがみついたまま、桃子は眠ってしまった。
桃子が勇悟に生意気な態度を取るのは、付き合い方を模索しているからだろう。どこまで許容してくれる人なのか。
そして花梨には、ここから逃げ出さないようにと、怯えながら甘えてくる。
柚流はそんな駆け引きができないから、ただ純粋に花梨を慕ってくれているはず。そうであると願いたい。
そんな二人の子どもたちと距離が近づいたのは、素直に嬉しい。だけど、その間には薄い膜があって、その膜が花梨と子どもたちを隔てているようにも思えるのだ。
別に母親でなくたってかまわない。なによりも桃子とは一回りしか年が離れていない。母というよりは、姉という感覚に近いのかもしれない。
ぽんぽんとやさしく桃子の背をなでてやると、苦しそうに眉間にしわを寄せながら眠っていた彼女の表情が、やわらいだ。
学校が夏休みに入ってしまえば、桃子だって学校に行く必要はない。だたプール開放日があり、その日は行っても行かなくてもいい。そんな感じらしい。
夏の日差しは肌を刺すかのよう。だから、日課としていた柚流との散歩は、朝食の前と日差しのやわらぐ夕方の二階。それ以外は、涼しい室内で本を読んだり絵を描いたりおもちゃで遊んだりしている。その側で、桃子が夏休みの課題をやる。
「勇悟さんが帰ってきたら、どこかにお出かけできないか聞いてみましょうか? せっかくの夏休みですから」
夕方の散歩の時間、しっとりと汗ばむ手は柚流と桃子とそれぞれに塞がれている。
花梨は日焼けしないようにと、つばの大きな帽子をかぶり、肌の露出も極力控えていた。
結婚式を秋に控えているため「日焼けなんてもってのほか」「シミになったらどうするの!」と、マリが目をつり上げながら言っていたからだ。
「桃子さんはどこか行きたい場所がありますか?」
そう問うてはみたものの、みんなでどこかにお出かけしたいというのは、花梨の願望なのかもしれない。
幼いころの憧れを、ここで満たそうとしている。
桃子は即答できないのか、「う~ん」と考え込み始めた。
お出かけはどこにしようかと考えるのも楽しい時間の一つ。だから花梨は、あえてどこどこに行こうとは口にしなかった。
庭の花は、ベコニアやサルビアへと変わっていた。庭師が丹誠こめて世話をしている、火宮家自慢の庭園である。
「あぃね~」
柚流の発語にも、少しずつ成長がみられるようになった。まだ、意味のある単語は口にしないものの、それでも発語の種類が増えている。
「熱いですね。お風呂からあがったら、アイスを食べましょう」
アイスという言葉を聞いただけで、子どもたちは大興奮だ。
風がひゅぅっと頬をなでた。
「風が気持ちいいですね」
花梨の言葉に、桃子がきつく手を握り返す。
「桃子さん?」
「お母様。侵入者です」
「侵入者?」
「誰かが火宮家の屋敷に入り込み、結界を張りました。わたしたちは今、結界内に閉じ込められてしまったようです」
「結界? つまり、誰かが妖魔討伐を?」
勇悟らと初めて出会ったとき、彼は妖魔討伐のために結界を張り、他の人間たちを巻き込まないようにと配慮していた。
「う~ん。それとも少し違うようです。妖魔の気配が感じられません」
妖魔がいないのに、結界を張った。それはどういう状況なのだろう。
「つまりですね。誰かが意図的に、わたしたちを閉じ込めたということになります」
まるで花梨が心で呟いた疑問を読み取ったかのような、桃子の答え。
「閉じ込めた? どうして?」
「どうして……あっ。もしかして、狙いはユズ……?」
「柚流さん? どうして?」
「どうしてって。ユズは、先代当主の子です。だから、ユウゴの次の当主はユズになります」
それは勇悟も言っていた。柚流がいるから、勇悟は自身の子を望まないと。
「だから、ユズがいなくなったら?」
世襲の場合、当主直系の近い者から選ばれる。勇悟には子どもがいないし、他の兄弟もいない。となれば、前の世代に遡り、そこから木の枝のように伸びる血縁者の中から選ばれる。
「ですが、火宮の親戚筋の方ですよね?」
「だからこそ、当主の座が欲しいって思う人もいるのでは? ユズよりも自分のほうがふさわしいって。ユズ、喋らないし、おむつも外れてないし。それを悪く言う人もいるの、わたしは知ってるから」
桃子がぱっと手を離す。
「お母様。ユズをお願いします」
「桃子さん?」
「やっぱり、これは妖魔を倒すための結界ではなく、わたしたちが妖魔に襲われるための結界でした」
すかさず桃子が印を組む。
バシュッと、かまいたちが発生する。
力も何ももたない花梨にはこの場でできることなど何もない。勇悟がいないときにかぎって、どうしてこのようなことに。
いや、勇悟がいないから狙われたのだ。柚流を力強く抱きしめ、桃子の言葉を反芻していた。
次の当主の座を狙うため、柚流を亡き者にする。幼い子に対して、酷い仕打ちだ。
そんな怒りだけが込み上げてくるものの、そこではたと気づく。
(だけど……勇悟さんに子どもができたら……?)
柚流よりも、その子のほうが継承権は優位になる。となれば、次期当主の座を狙うのであれば、柚流よりも勇悟を直接狙ったほうがいい。
勇悟亡きあと柚流が当主の座についたとしても、まだ二歳。となれば、後ろ盾となる大人が必要となるだろう。そこのポジションを狙ったほうが、後々優位になるのではないだろうか。
(てことは、狙いは柚流さんではない……?)
「あっ、あっ、あ~~~」
腕の中に閉じ込めていた柚流が暴れている。
「柚流さん、どうしました?」
腕をゆるめて解放した途端「あぁあああああ」と、柚流が叫ぶ。
ひゅっと強い風が吹き、見せかけの花が一斉に同じ方向に倒れた。
「ちっ。うるさいガキんちょね。いっちょ前に力を使いやがって」
聞き慣れた声。いつも花梨を虐げていた声。
「な、七菜香……?」
「はっ。あんたに名前すら呼ばれたくないんだけど」
振り返った先には、目をつり上げた七菜香の姿があった。学校帰りのような制服姿。
「どうして?」
「どうして? そんなの、あんたに死んでもらうために決まってるじゃない。あんたが死ねば、当主の妻はわたくしのものよ!」
違う。そうじゃない。
花梨の疑問は、どうして七菜香が結界と呼ばれるこちら側にいるのかということ。
さらに彼女の手には、刀のような片刃の刃物が握られている。それには怪しい光がもわもわっとまとわりついていた。
怪しげな刀を、七菜香は勢いよく振り上げた。となれば、次はそれを花梨に向かって振り下ろしてくる。
近くにいた柚流を抱き寄せたまま、その切っ先から逃げるように、身体をごろんと回転させた。服に泥がつこうが、気にしない。今は、柚流たちを守るだけ。
「お母様」
桃子の声ですぐに立ち上がる。
「こっちに来てください」
「は、はい」
桃子に案内されるようにして、広い園内を走り出す。
「待ちなさいよ! 逃げるなんて許さない。許さない。許さないんだから!」
この状況で、待てと言われて待てるほど、花梨もお人好しではない。まして相手は、長年、自分を虐げていた妹。
いっときは、血のつながりのある妹だからという感情もあり、目を瞑っていたときもあった。
だけど、それも限界だ。
花梨だけであるのであればまだよかった。花梨が一人でいるときに、襲ってくれるならまだしも。
だけど七菜香は、桃子と柚流を巻き込んだ。年端もいかぬような幼い子を、危険な場所へと誘い込んだのだ。
「お母様。ここです。ここで、こうやって、手を上から下におろしてください」
まるで手刀を切るような仕草を、桃子がやってのけた。だから、花梨が真似をする。
びゅっと激しい風が、花梨を遅う。
「花梨! 桃子も柚流も。無事か?」
いきなり目の前に勇悟が現れた。少し呼吸を乱し、スーツも着崩れしている。慌ててこちらやってきたのが、見てわかる。
「は、はい。いったい、何が……?」
「あとは、俺たちにまかせろ。佐伯、準備はいいな?」
「御意」
花梨たちの周囲を、使用人らが取り囲む。
「お母様。ユウゴはもちろんですが、火宮の使用人も氏人なのです。だから、もう安心です」
桃子がにっと笑ったのを見て、目頭が痛くなった。
勇悟はそう言って、家を出ていった。そんなふうに軽く言葉にした彼だが、星光地区まで行くには、車で半日かかる。大きく三つの地区に分かれており、それぞれの地区がそれなりの広さを有している。
その中でも日光地区が一番広いものの、面積の約八割は森林であるため、移動に時間がかかるのだ。
だから、同じ日光地区内であっても、端から端まで行こうとすれば、車で一日かかる距離なのだ。たいてい、他地区への移動には鉄道を使う。それであっても、日帰りは難しいだろう。
勇悟のいない夜。ここぞとばかりに桃子と柚流が寝室へとやってきた。
「勇悟さんがいなくて寂しい?」
花梨が尋ねると「ぜんぜん」と答える桃子だが、その瞳はどこか不安げに揺れている。
夏の夜であっても、子どもの体温はどこか心地よい。
「パパがいなくなったのも、夏だった」
ぎゅっと花梨にしがみついたまま、桃子は眠ってしまった。
桃子が勇悟に生意気な態度を取るのは、付き合い方を模索しているからだろう。どこまで許容してくれる人なのか。
そして花梨には、ここから逃げ出さないようにと、怯えながら甘えてくる。
柚流はそんな駆け引きができないから、ただ純粋に花梨を慕ってくれているはず。そうであると願いたい。
そんな二人の子どもたちと距離が近づいたのは、素直に嬉しい。だけど、その間には薄い膜があって、その膜が花梨と子どもたちを隔てているようにも思えるのだ。
別に母親でなくたってかまわない。なによりも桃子とは一回りしか年が離れていない。母というよりは、姉という感覚に近いのかもしれない。
ぽんぽんとやさしく桃子の背をなでてやると、苦しそうに眉間にしわを寄せながら眠っていた彼女の表情が、やわらいだ。
学校が夏休みに入ってしまえば、桃子だって学校に行く必要はない。だたプール開放日があり、その日は行っても行かなくてもいい。そんな感じらしい。
夏の日差しは肌を刺すかのよう。だから、日課としていた柚流との散歩は、朝食の前と日差しのやわらぐ夕方の二階。それ以外は、涼しい室内で本を読んだり絵を描いたりおもちゃで遊んだりしている。その側で、桃子が夏休みの課題をやる。
「勇悟さんが帰ってきたら、どこかにお出かけできないか聞いてみましょうか? せっかくの夏休みですから」
夕方の散歩の時間、しっとりと汗ばむ手は柚流と桃子とそれぞれに塞がれている。
花梨は日焼けしないようにと、つばの大きな帽子をかぶり、肌の露出も極力控えていた。
結婚式を秋に控えているため「日焼けなんてもってのほか」「シミになったらどうするの!」と、マリが目をつり上げながら言っていたからだ。
「桃子さんはどこか行きたい場所がありますか?」
そう問うてはみたものの、みんなでどこかにお出かけしたいというのは、花梨の願望なのかもしれない。
幼いころの憧れを、ここで満たそうとしている。
桃子は即答できないのか、「う~ん」と考え込み始めた。
お出かけはどこにしようかと考えるのも楽しい時間の一つ。だから花梨は、あえてどこどこに行こうとは口にしなかった。
庭の花は、ベコニアやサルビアへと変わっていた。庭師が丹誠こめて世話をしている、火宮家自慢の庭園である。
「あぃね~」
柚流の発語にも、少しずつ成長がみられるようになった。まだ、意味のある単語は口にしないものの、それでも発語の種類が増えている。
「熱いですね。お風呂からあがったら、アイスを食べましょう」
アイスという言葉を聞いただけで、子どもたちは大興奮だ。
風がひゅぅっと頬をなでた。
「風が気持ちいいですね」
花梨の言葉に、桃子がきつく手を握り返す。
「桃子さん?」
「お母様。侵入者です」
「侵入者?」
「誰かが火宮家の屋敷に入り込み、結界を張りました。わたしたちは今、結界内に閉じ込められてしまったようです」
「結界? つまり、誰かが妖魔討伐を?」
勇悟らと初めて出会ったとき、彼は妖魔討伐のために結界を張り、他の人間たちを巻き込まないようにと配慮していた。
「う~ん。それとも少し違うようです。妖魔の気配が感じられません」
妖魔がいないのに、結界を張った。それはどういう状況なのだろう。
「つまりですね。誰かが意図的に、わたしたちを閉じ込めたということになります」
まるで花梨が心で呟いた疑問を読み取ったかのような、桃子の答え。
「閉じ込めた? どうして?」
「どうして……あっ。もしかして、狙いはユズ……?」
「柚流さん? どうして?」
「どうしてって。ユズは、先代当主の子です。だから、ユウゴの次の当主はユズになります」
それは勇悟も言っていた。柚流がいるから、勇悟は自身の子を望まないと。
「だから、ユズがいなくなったら?」
世襲の場合、当主直系の近い者から選ばれる。勇悟には子どもがいないし、他の兄弟もいない。となれば、前の世代に遡り、そこから木の枝のように伸びる血縁者の中から選ばれる。
「ですが、火宮の親戚筋の方ですよね?」
「だからこそ、当主の座が欲しいって思う人もいるのでは? ユズよりも自分のほうがふさわしいって。ユズ、喋らないし、おむつも外れてないし。それを悪く言う人もいるの、わたしは知ってるから」
桃子がぱっと手を離す。
「お母様。ユズをお願いします」
「桃子さん?」
「やっぱり、これは妖魔を倒すための結界ではなく、わたしたちが妖魔に襲われるための結界でした」
すかさず桃子が印を組む。
バシュッと、かまいたちが発生する。
力も何ももたない花梨にはこの場でできることなど何もない。勇悟がいないときにかぎって、どうしてこのようなことに。
いや、勇悟がいないから狙われたのだ。柚流を力強く抱きしめ、桃子の言葉を反芻していた。
次の当主の座を狙うため、柚流を亡き者にする。幼い子に対して、酷い仕打ちだ。
そんな怒りだけが込み上げてくるものの、そこではたと気づく。
(だけど……勇悟さんに子どもができたら……?)
柚流よりも、その子のほうが継承権は優位になる。となれば、次期当主の座を狙うのであれば、柚流よりも勇悟を直接狙ったほうがいい。
勇悟亡きあと柚流が当主の座についたとしても、まだ二歳。となれば、後ろ盾となる大人が必要となるだろう。そこのポジションを狙ったほうが、後々優位になるのではないだろうか。
(てことは、狙いは柚流さんではない……?)
「あっ、あっ、あ~~~」
腕の中に閉じ込めていた柚流が暴れている。
「柚流さん、どうしました?」
腕をゆるめて解放した途端「あぁあああああ」と、柚流が叫ぶ。
ひゅっと強い風が吹き、見せかけの花が一斉に同じ方向に倒れた。
「ちっ。うるさいガキんちょね。いっちょ前に力を使いやがって」
聞き慣れた声。いつも花梨を虐げていた声。
「な、七菜香……?」
「はっ。あんたに名前すら呼ばれたくないんだけど」
振り返った先には、目をつり上げた七菜香の姿があった。学校帰りのような制服姿。
「どうして?」
「どうして? そんなの、あんたに死んでもらうために決まってるじゃない。あんたが死ねば、当主の妻はわたくしのものよ!」
違う。そうじゃない。
花梨の疑問は、どうして七菜香が結界と呼ばれるこちら側にいるのかということ。
さらに彼女の手には、刀のような片刃の刃物が握られている。それには怪しい光がもわもわっとまとわりついていた。
怪しげな刀を、七菜香は勢いよく振り上げた。となれば、次はそれを花梨に向かって振り下ろしてくる。
近くにいた柚流を抱き寄せたまま、その切っ先から逃げるように、身体をごろんと回転させた。服に泥がつこうが、気にしない。今は、柚流たちを守るだけ。
「お母様」
桃子の声ですぐに立ち上がる。
「こっちに来てください」
「は、はい」
桃子に案内されるようにして、広い園内を走り出す。
「待ちなさいよ! 逃げるなんて許さない。許さない。許さないんだから!」
この状況で、待てと言われて待てるほど、花梨もお人好しではない。まして相手は、長年、自分を虐げていた妹。
いっときは、血のつながりのある妹だからという感情もあり、目を瞑っていたときもあった。
だけど、それも限界だ。
花梨だけであるのであればまだよかった。花梨が一人でいるときに、襲ってくれるならまだしも。
だけど七菜香は、桃子と柚流を巻き込んだ。年端もいかぬような幼い子を、危険な場所へと誘い込んだのだ。
「お母様。ここです。ここで、こうやって、手を上から下におろしてください」
まるで手刀を切るような仕草を、桃子がやってのけた。だから、花梨が真似をする。
びゅっと激しい風が、花梨を遅う。
「花梨! 桃子も柚流も。無事か?」
いきなり目の前に勇悟が現れた。少し呼吸を乱し、スーツも着崩れしている。慌ててこちらやってきたのが、見てわかる。
「は、はい。いったい、何が……?」
「あとは、俺たちにまかせろ。佐伯、準備はいいな?」
「御意」
花梨たちの周囲を、使用人らが取り囲む。
「お母様。ユウゴはもちろんですが、火宮の使用人も氏人なのです。だから、もう安心です」
桃子がにっと笑ったのを見て、目頭が痛くなった。