「――どこにいくの」
「ごめんなさい――しばらく時間をちょうだい」

 アイガは背を向けた。パニーはひりつくような痛みが走ったが、廊下の向こうに消えていくアイガの姿を見つめることしか、彼女にはできなかった。その背中が完全に視界から消えると、ヌプトスは深い溜息を漏らした。

「パニー、本当に、本当に――今まですまなかった。護るために制定されたこの掟――それを秘匿することもまた、私たちにとって、パニーを、子どもたちを守るはずだった――いや、これは言い訳に過ぎないな――これほどまでに君を苦しめていたとはね――ただ謝ることしかできないが――今まで、本当にすまなかったね」

 彼の瞳から、重責と後悔が、じんわりと滲み出ていた。

「もう一度、もう一度私にも時間をくれないか。今度こそ、必ず真実を話す準備をしておくよ――そうだな、ペオの誕生日まででいい。猶予をくれないか――それまで、アイガにも――時間をあげてほしい」

 ヌプトスの心の底から滲み出る切実な訴えは、長年の葛藤を超えた決意の表れだった。


「パニー! いるー?」

 唐突なノックとリアの元気な声に、二人は見交わした。

「――リアだね。私が出るよ」
「――うん。絶対目腫れてるー」

 パニーは鏡の前へと足を運び、自分の姿をそっと見つめた。瞼は赤く腫れ、瞳は涙に染まった跡が残っている。彼女はそっと手をかざし、指先から冷気を漂わせると、まぶたに当てた。冷たさが腫れを沈めていく。ひんやりとした冷気が広がるたび、心も少しずつ落ち着いていくようだ。

「――パニー、大丈夫かい?」
「うん、もう大丈夫そう。――リアはなんて?」
「森に来てほしいそうだよ。行けるかい?」
「――森? うーん、わかった!ありがとう」



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 パニーが小舟に乗り込み、出発の支度を整えていると、水面からさざ波の音がした。顔を上げると、海の中からサリーが現れ、澄んだ瞳でこちらを見つめていた。

「サリー? どうし――うん、心配してくれてありがとう――でも、もう大丈夫よ。喧嘩しちゃったけど、気持ちは伝わったし。それにね? いいこともあったの」

 サリーは頭を少し傾けるように小舟に寄り、パニーを見つめる瞳には、どこか深遠な愛情が滲んでいた。


「――そうね、うん。じゃぁ、泳いでいこうかな」

 パニーは小舟の縁に腰をかけ、軽く身をひねって冷たい海へと滑り込むように飛び込んだ。水が全身を包み、体が水の一部と化す心地良さが広がる。すぐにサリーも続き、波にさざ波を描きながら並んで泳ぎ始めた。

「――どうしたの?」

 視界に緑が揺らめき始める頃、パニーは速度を上げようとするが、サリーがそっと寄り添ってくる。パニーはその意図を探るように動きを止め、少し考え込んだ後、その滑らかな体を撫でた。

 やがて冷気を手のひらに凝らすと、彼女の周りの海面がじわじわと氷の膜に変わり始める。薄氷が形成され、パニーはその上に腰を下ろした。足元を揺らめく水に浸したまま、まるで海とひとつに揺蕩っているようだった。サリーは歓喜に満ちたようにくるくると回り、繊細な波紋が水面に次々と広がる。

「――まだ、心配? でも、もう大丈夫なの――ほんとだよ?サリーは優しいね。ありがとう」

 パニーは微笑みながら、サリーの頭に手を置いた。サリーは嬉しそうにまどろむような目で彼女を見上げ、また勢いよく回り始めた。小さな波が煌めきを増し、光の粒がきらきらと踊るたび、パニーの心にも暖かさが浸透していった。



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「あっ!パニー!」
「リア!お待たせー」

 サリーに促されるように、パニーは森の奥に視線を向けた。木々の隙間から、リア、エイディ、そしてケイの姿が見えている。最初にパニーを見つけたリアが、大きく手を振って、弾んだ声で呼びかけてきた。
「もーう!やっと来た!何してた――どうしたの?!ねぇ、パニー大丈夫!?」

 その明るい表情がふと曇り、遠目にパニーの赤く腫れた目を見つけたリアが、憂いを含んだ顔で近寄ってくる。リアに続いて、エイディとケイも歩み寄ってきた。

「あー、わかっちゃう?結構引いたと思ったんだけど――実はね、さっきまでおばあちゃんたちと、その、喧嘩しちゃってて――」

 パニーは小さく笑みを浮かべて照れくさそうにしつつ、リアたちを安心させるように、柔らかく微笑み返した。

「パニー、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ――ところで、どうしたの?」

 パニーの態度にほっとしつつ、リアとケイは一瞬顔を見合わせ、やがて好奇心を抑えきれない様子で、リアが口火を切った。

「本当に?――その、パニーとエイディがね、村を出るって聞いて、私――それもしばらく帰ってこないって聞いて――私、どうしても話聞きたくて。でも、パニーが辛そうだから、今日はもう帰る? 話は聞きたいけど、今日じゃなくてもいいの」
「あーパニーごめんな――俺が準備してるところ見られちまってて」
「すっごくびっくりした!」
「あー、うん。そっかぁ――驚かせて、ごめんね?」
「パニー――今日は帰る?」
「ううん、大丈夫! もう平気なの!」
「本当?大丈夫? なら、――教えてくれる?」

 リアの問いかけに、パニーはためらいの表情を浮かべた。

「行く理由なら話せるけど――行った後のことはまだ全然決まってないんだよねー」
「じゃぁ、行く理由が知りたい! 教えて!」
「うーん、理由がたくさんあって、正直上手く伝えられる自信ないけど――」
「それでもいいの!」
「なら、えっーと。きっかけは――」


 それは、幼き日の記憶だった。平穏な日々が、突如怒声と嗚咽で満ち、空気が張り詰めていた。

 パニーと妹のロロは、階段の隙間から、大人たちの苛烈な言い争いを息をひそめて見つめていた。父は怒りに燃え、母は怯え、身を小さくして沈黙している。外では、見知らぬ大人たちも混じり、怒号と悲鳴が飛び交い、村全体が慌ただしい渦に飲まれていた。その光景に、パニーは言いようのない恐怖を覚え、隣で小さくすすり泣くロロを抱き寄せた。妹の震える体を感じたとき、パニーの瞳にも自然と涙が浮かんだ。

 二人は互いに寄り添い、息を殺し、恐怖と混乱が収まるのをひたすら待った。エム姉とロディの行方はわからず、不安だけが膨らんでいった。

 そして時が流れた。両親たちは外界へ旅立ち、その後、姿を消した。代わりに、チャソタパスと土の民、サイデンフィルと空の民がこの地に新たな定住者として加わり、共に暮らすようになった。

 やがて、ある日、海・土・空の民の代表で構成された遠征隊が――彼女の両親もその一員だった――帰らぬ人となったとの知らせが届く。以来、残った大人たちは沈黙を守り、何があったのか語ろうとはしなかった。かつての面影は消え、重々しい沈黙が満ちていった。外界への扉は厳しく閉ざされ、内にこもるように生活を続けていた。

 幼い心に悲しみと不安を抱えながらも、パニーはエム姉やリンディとともに、幼い子どもたちを守り、励まし続けた。両親を恋しがって涙する子どもたちに、『きっと帰ってくる』『一緒に探しに行こう』と語りかけた。繰り返すうち、その言葉はいつしか彼女の中で決意へと変わっていった。

 ときに、彼女は外界での愉しい思い出を語り、子どもたちの不安を和らげた。その語る冒険談や微笑ましいエピソードは、子どもたちに希望の光を灯し、彼らの心を一時でも明るく照らしていた。

 さらに時は流れ、子どもたちは成長したが、大人たちは依然として沈黙を貫いたままだった。その沈黙に、パニーは次第に苛立ちを覚え、心の中で決意を固める。大人たちが答えを語らないのであれば、自らその真相を探しに行くほかないと。

 そして今、パニーは、幻贖の民の子どもはたった十七人であることの深刻さに気づいてしまった。スコットリスやチャソタパス、サイデンフィルたちが共に生き抜いていく未来は、どうしても見えてこないのだった。

「――そっか」

 パニーの話を聞き入っていたリアが、不意に大きく身を引き、驚く間もなく彼女に飛び込んだ。パニーは目を見張り、身構えようとするも、その反応を見越してか、リアの力が強く、彼女の肩をすっぽりと抱き込んでいた。続けてケイも飛び込んできて、全力でパニーに突進するように抱きつくと、彼女は笑いながらもバランスを崩した。

 その隙を見逃さないエイディが最後の勢いで飛び込んだ。パニーたちの立っていた氷がぎしりと音を立て、割れ、四人はもろともに水中に飲み込まれた。

 彼らは水中で目を合わせ、笑いがこみ上げるのを止められない。泡があちこちから噴き出し、彼らの笑顔がひとつの塊になり浮かび上がっていく。リアの明るい笑い声が水面で弾け、ケイも息が切れるほど笑い、パニーも冷たい水の中で、心の底から笑っていた。

「あれ?エイディは?」
「あれ?」

 その時、サリーが背中にエイディを乗せて現れた。サリーの背から降り立ったエイディが、穏やかな微笑を浮かべて言った。

「俺、覚えてるよ。パニーがいつも慰めてくれたこと」
「うん!僕も! 僕も覚えてる!」
「私ももっちろん覚えてるよ。パニーはずーっと優しかった。今もずっーと!」

 視線が合わさり、懐かしさと信頼を瞳に灯し合う。サリーも彼らのそばで寄り添い包み込む。

「最初はねー?連れてってほしいなーって思ってたの! でも、もしそれがデートだったら遠慮しよーって、考えてたんだけど」
「――え? デート?」

 パニーが首を傾げ、少し驚いた顔で見返す。その表情を見たリアは、いたずらっぽく笑みを浮かべた。

「ううん、気にしないで。こっちの話」

 リアの微笑にはどこか含みがあり、視線をエイディにちらっと送る。エイディはむっと顔をしかめ、リアがさらに楽しげになるのを見て、パニーは首を傾げた。

「今の話を聞いてね、思ったの。もう一回真剣に考えてみる」

 リアはそう言うと、そっとパニーの頬に手を伸ばし、目の端に残る涙の跡を指先で拭った。

「涙が出るほどだもんね。――大切にしてくれてありがとう」