詩織との日曜の朝の交流が始まったキッカケも、やっぱりアボカドの種だった。例のごとく私がベランダで土や種のお世話をしていた時だ。
春の温かい日差しを浴びながら、前日に取り出して茶色の皮を剥いた種を横に置き、私は腐葉土に赤玉を混ぜ込む作業をしていた。私はついつい水をやり過ぎてしまうので、出来るだけ水はけの良い配合にと赤玉多めに足していたところ、ベランダ用に履いていたサンダルの踵が種の一つに当たってしまったのだ。
あっという間に勢いよくコロコロ転がり始めた種は、303号室のベランダとを隔てている白色のパーテーションの下を潜り抜けて行った。
「あ……!」
どこに転がってったかを確認しようと、私はベランダのコンクリートの床に膝をついてパーテーションの下からお隣を覗いた。種は手を伸ばしても届きそうもないくらい、結構離れたところまで転がってしまっていた。
「どうしよ……」
どうせ元々はただのゴミなのだからと諦めるか、それとも玄関に回ってお隣さんにお詫びして取って貰うようお願いするべきか。コンクリートの床に這いつくばりながら悶々と私が悩んでいると、お隣のベランダに住民が洗濯カゴを抱えて外に出てきた足下が見えた。
私が「あっ」と思ったのとほぼ同時に、隣人は床に転がっている丸い物体に気付き、足を止める。拾い上げようと一旦は屈み込んだみたいだったが、得体のしれない物に触れる勇気は無かったらしく、しばらく硬直していた。皮が付いた状態なら栗やどんぐりか何かに見えたかもしれないが、剥き終わった後の種は初見ではよく分からなくて当然だ。
私は慌てて、パーテーション越しに303号室のベランダに顔を出してから声を掛けた。お隣の部屋のベランダは物干し竿以外は何も無く、ガランとしていた。
「すみませんっ、種がそちらへ転がってしまって……」
「種、ですか?」
「はい、アボカドの種です」
「アボ……アボカドって、あのアボカド?」
朝のゴミ出しでたまに顔を合わせる程度だった隣人と、「おはようございます」以外の言葉を交わしたのは初めてだったかもしれない。
転がっていたものの正体が分かったら平気になったらしく、詩織はすぐに拾い上げて種をパーテーション越しに手渡してくれた。
「食べる度に育ててるんです。結構、簡単に芽が出るのが楽しくて」
「へー」
こちらのベランダを覗き込んできた詩織に、私は土に植え替えて大きく育った1年半物の苗木を得意げに見せた。
「種から育てたのも実はなるんですか?」
「なるみたいですけど、地植えでも10年くらいかかるみたいですね。だからほぼ観賞用です」
「家に緑があるのは素敵ですね」
羨ましそうにそう言いながら、詩織はプランターを置いていた一角を眺めていた。
その一件以来、タイミングが合えばベランダでどちらからともなく声を掛け合うという関係が続いている。お互いに年齢も近いし一人暮らしということもあり、防犯や有事の際に助け合うという意味で、合鍵を持ち合うくらいに親しくなってからは半年くらいだろうか。
私が週末にアボカドサラダを作るようになったのは、何を隠そう会社の先輩の影響が大きい。新人時代の私の教育係で、すらりとした長身美人の飯野さんは会社の向かいのビルに入っている総菜屋さんのアボカドサラダがお気に入りだった。二日に一度は買いに行くほどの、完全な常連だ。既婚者で兼業主婦でもある彼女にとってそのサラダは「仕事のある日の楽しみ」なんだと言っていた。
産休と育休を取った後に職場復帰するはずだった先輩は、産後の体調不良が続いたせいで結局そのまま退職してしまったけれど、私にとって彼女は今でも憧れの存在だ。彼女を真似してアボカドサラダを食べたところで何かが変わるとも思えないけれど、何となく思い出してスーパーの野菜売り場でアボカドを手に取ったのが始まりだった。
深い緑というよりは黒に近い濃い色の皮。お尻でっかちな何とも形容しがたいフォルムのそれは、野菜なのか果物なのか?
レシピサイトを見ながら作ってみたサラダはそこそこ美味しくできた。食べながら何となくアボカドについて検索していると、ゴミとして捨てるつもりでいた種が意外と簡単に栽培できることを知った。生ゴミをまとめていた袋から慌てて種を拾い上げ、私は水を張ったお皿の上にそれを置き、窓際の棚の上に乗せた。
けれど、すぐにそのことは頭から忘れ去った。確か、入社3か月の後輩が二人、揃って出勤してこなくなった時期だ。多分、前日に二人で飲みにでも行って、ノリと勢いで一緒に辞めることにしたのだろう。うちの部署は軽いパニック状態になった。今でも思い出す度に、怒りが収まらなくなる。
仕事が何とか落ち着きを取り戻し、帰宅後に部屋の中を見回せる余裕が出て初めて、私は棚の上に置きっ放しになっていたお皿の上で、いつぞやの種が白い根と緑の芽を生やしていることに気付いた。
「ハァ?!」
水に浸けていただけで伸び伸びと成長している種の生命力に、短い驚きの声が出た。その力強い姿に、ちょっと笑えてきた。何だか、ここ最近のがんばりが評価され、ご褒美をもらった気分になった。
春の温かい日差しを浴びながら、前日に取り出して茶色の皮を剥いた種を横に置き、私は腐葉土に赤玉を混ぜ込む作業をしていた。私はついつい水をやり過ぎてしまうので、出来るだけ水はけの良い配合にと赤玉多めに足していたところ、ベランダ用に履いていたサンダルの踵が種の一つに当たってしまったのだ。
あっという間に勢いよくコロコロ転がり始めた種は、303号室のベランダとを隔てている白色のパーテーションの下を潜り抜けて行った。
「あ……!」
どこに転がってったかを確認しようと、私はベランダのコンクリートの床に膝をついてパーテーションの下からお隣を覗いた。種は手を伸ばしても届きそうもないくらい、結構離れたところまで転がってしまっていた。
「どうしよ……」
どうせ元々はただのゴミなのだからと諦めるか、それとも玄関に回ってお隣さんにお詫びして取って貰うようお願いするべきか。コンクリートの床に這いつくばりながら悶々と私が悩んでいると、お隣のベランダに住民が洗濯カゴを抱えて外に出てきた足下が見えた。
私が「あっ」と思ったのとほぼ同時に、隣人は床に転がっている丸い物体に気付き、足を止める。拾い上げようと一旦は屈み込んだみたいだったが、得体のしれない物に触れる勇気は無かったらしく、しばらく硬直していた。皮が付いた状態なら栗やどんぐりか何かに見えたかもしれないが、剥き終わった後の種は初見ではよく分からなくて当然だ。
私は慌てて、パーテーション越しに303号室のベランダに顔を出してから声を掛けた。お隣の部屋のベランダは物干し竿以外は何も無く、ガランとしていた。
「すみませんっ、種がそちらへ転がってしまって……」
「種、ですか?」
「はい、アボカドの種です」
「アボ……アボカドって、あのアボカド?」
朝のゴミ出しでたまに顔を合わせる程度だった隣人と、「おはようございます」以外の言葉を交わしたのは初めてだったかもしれない。
転がっていたものの正体が分かったら平気になったらしく、詩織はすぐに拾い上げて種をパーテーション越しに手渡してくれた。
「食べる度に育ててるんです。結構、簡単に芽が出るのが楽しくて」
「へー」
こちらのベランダを覗き込んできた詩織に、私は土に植え替えて大きく育った1年半物の苗木を得意げに見せた。
「種から育てたのも実はなるんですか?」
「なるみたいですけど、地植えでも10年くらいかかるみたいですね。だからほぼ観賞用です」
「家に緑があるのは素敵ですね」
羨ましそうにそう言いながら、詩織はプランターを置いていた一角を眺めていた。
その一件以来、タイミングが合えばベランダでどちらからともなく声を掛け合うという関係が続いている。お互いに年齢も近いし一人暮らしということもあり、防犯や有事の際に助け合うという意味で、合鍵を持ち合うくらいに親しくなってからは半年くらいだろうか。
私が週末にアボカドサラダを作るようになったのは、何を隠そう会社の先輩の影響が大きい。新人時代の私の教育係で、すらりとした長身美人の飯野さんは会社の向かいのビルに入っている総菜屋さんのアボカドサラダがお気に入りだった。二日に一度は買いに行くほどの、完全な常連だ。既婚者で兼業主婦でもある彼女にとってそのサラダは「仕事のある日の楽しみ」なんだと言っていた。
産休と育休を取った後に職場復帰するはずだった先輩は、産後の体調不良が続いたせいで結局そのまま退職してしまったけれど、私にとって彼女は今でも憧れの存在だ。彼女を真似してアボカドサラダを食べたところで何かが変わるとも思えないけれど、何となく思い出してスーパーの野菜売り場でアボカドを手に取ったのが始まりだった。
深い緑というよりは黒に近い濃い色の皮。お尻でっかちな何とも形容しがたいフォルムのそれは、野菜なのか果物なのか?
レシピサイトを見ながら作ってみたサラダはそこそこ美味しくできた。食べながら何となくアボカドについて検索していると、ゴミとして捨てるつもりでいた種が意外と簡単に栽培できることを知った。生ゴミをまとめていた袋から慌てて種を拾い上げ、私は水を張ったお皿の上にそれを置き、窓際の棚の上に乗せた。
けれど、すぐにそのことは頭から忘れ去った。確か、入社3か月の後輩が二人、揃って出勤してこなくなった時期だ。多分、前日に二人で飲みにでも行って、ノリと勢いで一緒に辞めることにしたのだろう。うちの部署は軽いパニック状態になった。今でも思い出す度に、怒りが収まらなくなる。
仕事が何とか落ち着きを取り戻し、帰宅後に部屋の中を見回せる余裕が出て初めて、私は棚の上に置きっ放しになっていたお皿の上で、いつぞやの種が白い根と緑の芽を生やしていることに気付いた。
「ハァ?!」
水に浸けていただけで伸び伸びと成長している種の生命力に、短い驚きの声が出た。その力強い姿に、ちょっと笑えてきた。何だか、ここ最近のがんばりが評価され、ご褒美をもらった気分になった。