「えー。じゃあ、すずなさんは大学時代の友人と女性同士で暮らしてるんですか?」
あちこちで乾杯の声が飛び交う中、顔を薄紅色に染めた高桑結愛がファジーネーブルを一口飲んだ。今夜は部署の定例飲み会。すずなは化粧品会社BeBeauの開発部に所属し、基礎化粧品を担当している。
「そうなの。ちょうど一緒に住み始めて半年が過ぎたくらいかな」
酒が弱いすずなは、炭酸がぱちぱちと跳ねるコーラに口をつけた。
「きっかけはなんなんですか?」
結愛が机の上に身を乗り出す。きらきらと輝く瞳の奥に恋バナを期待しているのがありありと透けて見えた。だけどその期待には応えられない。すずなが女友達と同居しているのは、恋人との同棲解消の末———みたいな話ではなく、もっと現実的な理由だ。
「それは、やっぱりうちの会社の福利厚生の問題かな」
「なんですか、それ」
想定していた恋愛話ではなく、結愛の眉間に皺が寄った。
「結愛ちゃんはまだ入社三年目だから全然問題ないけど、独身用の社宅に住めるのって入社から十年までなのよ。それ以降は自分で部屋を借りなきゃいけないの」
「そういえば聞いたことがあります。実家暮らしだったからスルーしちゃってましたけど」
「十年も住むところをお世話してくれるんだから、感謝しないといけないんだけど、うっかりその事実を忘れてたのよね」
あははとその場しのぎの笑顔を作る。
「ちょうど一年前くらいかなぁ。人事から今年度中に出て下さいねって言われてたんだけど、すっかり忘れちゃっててね。それで、家はどうなってますかって改めて聞かれたのが今年の二月。三月には出て行ってもらわないと、新入社員が来ますからって言われて大慌て」
「それでどうなったんですか?」
結愛が枝豆を口に運ぶ。
「もちろん家を探したよ。でも家なんて大事な物をすぐ決められなくて、友達に嘆いたの。それが今、一緒に住んでる友達なんだけど。そしたら、友達がとりあえずうちに住んだらって。ちょうど同居してた姪っ子が大学卒業で出ていくから、家賃を折半してくれたら嬉しいって」
———住むとこないなら、うちに一旦来たら? 今週末に姪の部屋が空くから。
パソコンのモニターから一度も目を離すことなく黒川蛍はそう言った。後ろで一つに束ねられた黒髪、銀縁眼鏡、そしてその下に続くすっとした鼻筋。蛍の横顔は美しく、すずなは女神のように見えたのを思い出した。
「それはすごいタイミングですねー」
結愛が当たり障りのない相槌を打ってくる。
「うん。もうこっちとしては渡りに船って感じで、二つ返事でお願いしますって。それで現在に至ります」
「でも、彼氏とかはどうするんですかー? 自宅でデートできないんですよねー?」
顔にかかった髪を耳にかけながら、結愛が頬杖をついた。リボンの形をあしらったピンクゴールドの指輪が薬指で柔らかい光を放っていた。
生憎そういう心配はお互いないんだよね———と答えるつもりが、すずなの発言権は唐突に課長の佐田に奪われた。
「結愛ちゃーん、そんな酷な質問してあげないでよー。こっちは十年間独身寮で過ごしてきた強者なんだからー。結愛ちゃんみたいに彼氏の心配をするような人だったら、とっくに結婚してるでしょ。会社だって十年くらいの猶予をあげれば、結婚して独身寮を出て行ってくれるでしょっていう算段なんだから。その会社の予想を見事覆したわけよ、こちらの春山すずな嬢、いや春山の局は」
すずなの身体をぐいぐい奥に押し込んで、佐田は割り込んできた。顔がゆでだこのように真っ赤で、ずいぶんと出来上がっている。五十代半ばという年齢もあって、結婚至上主義者。とはいえ時代の流れを汲んで、普段の発言はもう少しオブラートに包んでいる。けれど、今夜は酒と一緒にオブラートを身体の中に流し込んだらしい。
「けどさ、すずなちゃんだって全く何もなかったわけじゃないんだよー。同期の奴と付き合ってたもんね。あれは結局どうなったの」
まさか、康介のことを課長が知っていたとは……。
触れられたくない過去を遠慮なしにむんずと掴まれて、すずなは苦笑いするしかなかった。
「えー、すずなさん、そうなんですか?」
「佐田さん、それは五年も前に終わってますから。もう忘れて下さいよ。結愛ちゃんも聞かなかったことにして。もう何もないから」
再び目を輝かせる結愛を交わしながら、すずなは佐田を牽制した。当時交際を隠していなかった自分たちも悪いが、康介がいまだ同じ会社に在籍している以上、今更なにか発言することは避けたかった。
「しかしねー、女二人で暮らしたとしても、結愛ちゃんが言うように、どっちかに男ができたらそんな同居はいずれうまくいかんと思うねー。結局のところ、友情よりも愛情でしょ。すずなちゃんは今の状況に甘んじてないで、早く自分の住処を探した方が絶対にいいよー」
絶対に———の部分に佐田が力を込めた。
「だって、考えてもみなよ。どんなお伽話だって、最後は王子様と結ばれるだろ? 世の中ってのはそういう風にできてるんだよ。友情よりも愛情。最終的に愛は勝つ。ほら、そんな歌だってあっただろー」
好き放題言ったあと、佐田がげふっとげっぷをした。
「ご忠告ありがとうございます」
反論したいことは山程あったが、酔っ払いと同じ土俵に立つのは格好が悪過ぎて、コーラの力を借りてぐいっと全てを飲み込んだ。
「ところで、結愛ちゃんさ、可愛い指輪してるじゃないのー。それ、どうしたのよ。おじさんに言ってみなさいよー」
佐田がいやらしく口角を上げながら、人差し指を結愛に何度も向けた。
「これですかぁ。彼氏からもらったんですー。この間から同棲を始めたんですけど、その記念にって。もう白馬の王子様って本当にいるんですねー」
ピンク色の頬に手を当てて、結愛が身体をくねらせる。
「へー、結愛ちゃん同棲かー。じゃあ、結婚も直かい?」
「まだ結婚は考えてないんですけど、今はとにかく二人の生活を楽しんでます」
「今風だねー。けど、結婚したかったら悪いところが見えないうちに籍を入れたほうがいいぞー。結婚なんて冷静になったらできないね。あれは勢いあってのもんだと思うよ。長過ぎた春なんてよく言うでしょ。ね、すずなちゃん」
意味ありげな視線を佐田が送ってくるのを、すずなは気づかぬふりをしてやり過ごした。
「佐田さんも勢いだったんですかぁ?」
「うちはお見合いだったからね。お互いが気に入れば割とすぐに結婚するもんだよ」
「そうなんですかぁ。でも、すごいですよねぇ、それで何十年も一緒にいられるなんて」
「まぁねー。ここまできたら情だよ。だって、結愛ちゃんみたいに嫁さんより若くて可愛い子はいっぱいいるんだから。目移りしないわけがないじゃない。可愛い子が俺でもいいって言ってくれるなら、いつでもウェルカムよ」
酔っ払いお化け『ホンネノカタマリ』に変身した佐田がだらしなく目尻を下げた。
気持ち悪い。すずなはそう思ったが、当の結愛は酔いのせいか、全く気に留めていないようだった。それどころか、やだー佐田さんたら、の1フレーズで流してしまうと、自分の幸せ話に持っていくという技を見せた。
「私、今が本当に楽し過ぎちゃって、幸せってこういうことなんだって日々実感してます。ほら、私、ハッピーオーラが出てません?」
「出てる、出てる。ほら、すずなちゃんもお裾分けしてもらいな。浅草寺みたいにこうやってさー。すずなちゃんも結構可愛いんだからさ、まだ間に合うって」
頭を結愛側に倒すと、佐田は両手で空気をかき集める動きをした。結愛は、課長ったらおっかしーとけらけらと機嫌良く笑っている。
地獄絵図———その四文字を頭に浮かべながら、すずなは一刻も早く蛍と暮らす家に帰りたくて仕方なかった。
あちこちで乾杯の声が飛び交う中、顔を薄紅色に染めた高桑結愛がファジーネーブルを一口飲んだ。今夜は部署の定例飲み会。すずなは化粧品会社BeBeauの開発部に所属し、基礎化粧品を担当している。
「そうなの。ちょうど一緒に住み始めて半年が過ぎたくらいかな」
酒が弱いすずなは、炭酸がぱちぱちと跳ねるコーラに口をつけた。
「きっかけはなんなんですか?」
結愛が机の上に身を乗り出す。きらきらと輝く瞳の奥に恋バナを期待しているのがありありと透けて見えた。だけどその期待には応えられない。すずなが女友達と同居しているのは、恋人との同棲解消の末———みたいな話ではなく、もっと現実的な理由だ。
「それは、やっぱりうちの会社の福利厚生の問題かな」
「なんですか、それ」
想定していた恋愛話ではなく、結愛の眉間に皺が寄った。
「結愛ちゃんはまだ入社三年目だから全然問題ないけど、独身用の社宅に住めるのって入社から十年までなのよ。それ以降は自分で部屋を借りなきゃいけないの」
「そういえば聞いたことがあります。実家暮らしだったからスルーしちゃってましたけど」
「十年も住むところをお世話してくれるんだから、感謝しないといけないんだけど、うっかりその事実を忘れてたのよね」
あははとその場しのぎの笑顔を作る。
「ちょうど一年前くらいかなぁ。人事から今年度中に出て下さいねって言われてたんだけど、すっかり忘れちゃっててね。それで、家はどうなってますかって改めて聞かれたのが今年の二月。三月には出て行ってもらわないと、新入社員が来ますからって言われて大慌て」
「それでどうなったんですか?」
結愛が枝豆を口に運ぶ。
「もちろん家を探したよ。でも家なんて大事な物をすぐ決められなくて、友達に嘆いたの。それが今、一緒に住んでる友達なんだけど。そしたら、友達がとりあえずうちに住んだらって。ちょうど同居してた姪っ子が大学卒業で出ていくから、家賃を折半してくれたら嬉しいって」
———住むとこないなら、うちに一旦来たら? 今週末に姪の部屋が空くから。
パソコンのモニターから一度も目を離すことなく黒川蛍はそう言った。後ろで一つに束ねられた黒髪、銀縁眼鏡、そしてその下に続くすっとした鼻筋。蛍の横顔は美しく、すずなは女神のように見えたのを思い出した。
「それはすごいタイミングですねー」
結愛が当たり障りのない相槌を打ってくる。
「うん。もうこっちとしては渡りに船って感じで、二つ返事でお願いしますって。それで現在に至ります」
「でも、彼氏とかはどうするんですかー? 自宅でデートできないんですよねー?」
顔にかかった髪を耳にかけながら、結愛が頬杖をついた。リボンの形をあしらったピンクゴールドの指輪が薬指で柔らかい光を放っていた。
生憎そういう心配はお互いないんだよね———と答えるつもりが、すずなの発言権は唐突に課長の佐田に奪われた。
「結愛ちゃーん、そんな酷な質問してあげないでよー。こっちは十年間独身寮で過ごしてきた強者なんだからー。結愛ちゃんみたいに彼氏の心配をするような人だったら、とっくに結婚してるでしょ。会社だって十年くらいの猶予をあげれば、結婚して独身寮を出て行ってくれるでしょっていう算段なんだから。その会社の予想を見事覆したわけよ、こちらの春山すずな嬢、いや春山の局は」
すずなの身体をぐいぐい奥に押し込んで、佐田は割り込んできた。顔がゆでだこのように真っ赤で、ずいぶんと出来上がっている。五十代半ばという年齢もあって、結婚至上主義者。とはいえ時代の流れを汲んで、普段の発言はもう少しオブラートに包んでいる。けれど、今夜は酒と一緒にオブラートを身体の中に流し込んだらしい。
「けどさ、すずなちゃんだって全く何もなかったわけじゃないんだよー。同期の奴と付き合ってたもんね。あれは結局どうなったの」
まさか、康介のことを課長が知っていたとは……。
触れられたくない過去を遠慮なしにむんずと掴まれて、すずなは苦笑いするしかなかった。
「えー、すずなさん、そうなんですか?」
「佐田さん、それは五年も前に終わってますから。もう忘れて下さいよ。結愛ちゃんも聞かなかったことにして。もう何もないから」
再び目を輝かせる結愛を交わしながら、すずなは佐田を牽制した。当時交際を隠していなかった自分たちも悪いが、康介がいまだ同じ会社に在籍している以上、今更なにか発言することは避けたかった。
「しかしねー、女二人で暮らしたとしても、結愛ちゃんが言うように、どっちかに男ができたらそんな同居はいずれうまくいかんと思うねー。結局のところ、友情よりも愛情でしょ。すずなちゃんは今の状況に甘んじてないで、早く自分の住処を探した方が絶対にいいよー」
絶対に———の部分に佐田が力を込めた。
「だって、考えてもみなよ。どんなお伽話だって、最後は王子様と結ばれるだろ? 世の中ってのはそういう風にできてるんだよ。友情よりも愛情。最終的に愛は勝つ。ほら、そんな歌だってあっただろー」
好き放題言ったあと、佐田がげふっとげっぷをした。
「ご忠告ありがとうございます」
反論したいことは山程あったが、酔っ払いと同じ土俵に立つのは格好が悪過ぎて、コーラの力を借りてぐいっと全てを飲み込んだ。
「ところで、結愛ちゃんさ、可愛い指輪してるじゃないのー。それ、どうしたのよ。おじさんに言ってみなさいよー」
佐田がいやらしく口角を上げながら、人差し指を結愛に何度も向けた。
「これですかぁ。彼氏からもらったんですー。この間から同棲を始めたんですけど、その記念にって。もう白馬の王子様って本当にいるんですねー」
ピンク色の頬に手を当てて、結愛が身体をくねらせる。
「へー、結愛ちゃん同棲かー。じゃあ、結婚も直かい?」
「まだ結婚は考えてないんですけど、今はとにかく二人の生活を楽しんでます」
「今風だねー。けど、結婚したかったら悪いところが見えないうちに籍を入れたほうがいいぞー。結婚なんて冷静になったらできないね。あれは勢いあってのもんだと思うよ。長過ぎた春なんてよく言うでしょ。ね、すずなちゃん」
意味ありげな視線を佐田が送ってくるのを、すずなは気づかぬふりをしてやり過ごした。
「佐田さんも勢いだったんですかぁ?」
「うちはお見合いだったからね。お互いが気に入れば割とすぐに結婚するもんだよ」
「そうなんですかぁ。でも、すごいですよねぇ、それで何十年も一緒にいられるなんて」
「まぁねー。ここまできたら情だよ。だって、結愛ちゃんみたいに嫁さんより若くて可愛い子はいっぱいいるんだから。目移りしないわけがないじゃない。可愛い子が俺でもいいって言ってくれるなら、いつでもウェルカムよ」
酔っ払いお化け『ホンネノカタマリ』に変身した佐田がだらしなく目尻を下げた。
気持ち悪い。すずなはそう思ったが、当の結愛は酔いのせいか、全く気に留めていないようだった。それどころか、やだー佐田さんたら、の1フレーズで流してしまうと、自分の幸せ話に持っていくという技を見せた。
「私、今が本当に楽し過ぎちゃって、幸せってこういうことなんだって日々実感してます。ほら、私、ハッピーオーラが出てません?」
「出てる、出てる。ほら、すずなちゃんもお裾分けしてもらいな。浅草寺みたいにこうやってさー。すずなちゃんも結構可愛いんだからさ、まだ間に合うって」
頭を結愛側に倒すと、佐田は両手で空気をかき集める動きをした。結愛は、課長ったらおっかしーとけらけらと機嫌良く笑っている。
地獄絵図———その四文字を頭に浮かべながら、すずなは一刻も早く蛍と暮らす家に帰りたくて仕方なかった。