「今日、ひさーーーしぶりに康介と話したの」

 その夜、すずなはキッチンに蛍と並んで、いつも通り夕食の用意をしていた。たらこの身をスプーンでほぐしている蛍の手が、一瞬止まったような気がしたけれど、蛍はへぇと呟いただけだった。

「普通に話せたわ」

 良かったね、とだけ言葉少なにいうと、蛍はほぐしたたらこをボウルに入れてバター、生クリーム、マヨネーズ、醤油を適量ずつ加えた。

「……すずなは好きにしていいからね」

「何が?」

 すずなは、鍋の中を泳ぐパスタを菜箸で一本取った。硬さを確かめると、芯がまだしっかり残っていた。

「その……、私との生活にこだわらなくていいってこと」

「分かってるよ。だけど、それは蛍にも言えることだよ。私との生活をやめたかったら、出てけーって蹴飛ばしてくれていい」

「何それ。そんなことしないわよ」


「そんなの分かんないでしょ。未来は神のみぞ知るよ」

「分かるわよ」

「どうして?」

「だって、すずなは私にとって空気みたいだもの」


 空気みたい———その一言に、すずなの胸がざわつき始める。


「……どういうこと?」
 自分の声に生気が無くなっていた。

 要は、いてもいなくても邪魔にならないってこと? もし、そんな風に蛍にまで言われてしまったら……。


 鼻の奥がつんとし始めた。心臓が急速にスピードを上げる。蛍がゆっくりと口を開いた。




「……すずながいてくれるから、私はこの世界で息ができる」



「なにそれぇ」
 情けない声が出た。

「子供の頃から、母が自由過ぎて周りから変な家の子だと思われてた。一人でいる方が楽で、好きなことだけをやってきた。そんな私と一緒にいてくれたのは、すずなだけ。すずながいてくれるから、私は恭子さんと知り合えたり、結愛ちゃんと出会えたりもした。それで最近気がついたの。今まで息苦しいと思っていた世界が、そうでもないなって。これってすずなのおかげだと思う。だから、すずなは私にとっての空気みたいにかけがえのない存在。いつだってそばにいてくれて、ものすごい役割を担っているのにそれを主張しない。ものすごく粋な存在」

 蛍がはにかんだ笑顔を見せた。初めて出会ったときの笑顔と同じだった。

「……もう、決めた! 私が蛍を看取るから老後は安心して」
 すずなは思い切り鼻を啜った。視界はとっくにぼやけている。

「やだ、勝手に先に殺さないでよ。私、この間の健康診断オールAだったんだから」
 たらこや生クリームが混ぜられて出来たピンク色のソースに、蛍が小指を突っ込み舐めた。

「ところで、すずな、パスタどうなってる?」
 蛍が、ぼっこぼっこと泡を生み出している鍋を指差した。

「やだー、のびのびー」

 さっきは芯があったのに、いまじゃどこにもない。脊椎動物が一瞬にして軟体動物になったようだ。

「まぁ、仕方ない。じゃあ、急いで湯切りして。それで、このたらこソースに麺を突っ込んで」

 蛍の指示に従って、すずなは麺をたらこソースが待つボウルにぶちまけた。

「……すずな、あのね。長期の有休って取れたりする?」
 蛍が、麺をトングで手際よく絡めていく。

「結構前に申請すれば取れると思うよ。どうして?」


「もし、半年後にスペインで国際学会があって、私が参加するって言ったらどうする?」

 トングを持つ手を止めて、蛍がすずなの方へ顔を向けた。

「ついていきます!」

 すずなは、蛍に勢いよく抱きついた。

「あーパスタがー」

 幸せな悲鳴がキッチンに響き渡った。

《完》