榊さんの目的地は屋上へ続く階段だった。屋上はずっと施錠されているため、屋上に続く階段を利用する人はいない。まったく人気(ひとけ)がなく、薄暗い階段に榊さんが腰を下ろす。僕はすこし迷ってから、榊さんより二段ほど下のほうへ座った。
 遠くから昼休みの喧騒が伝わってくるが、あいかわらず階段付近には人の気配がない。まるでここだけ学校から切り離されているんじゃないかと思うほど静かで、時間の流れがゆったりと感じられる。

「食べる?」

 蛍光灯の明かりも届かない薄闇のなかで榊さんが取り出したのは、ラップに包まれたなにかだった。なにか? よく目をこらすと、赤っぽい色に染まった米粒と豆みたいなものの寄せ集めに見える。一体、どこにこんなものを隠し持っていたのだろう。
 断るのもなんだか失礼に思えて、手を伸ばしてラップに包まれた米の塊を受け取る。持ってみると意外と重い。散々食べ物じゃないみたいな言い方をしたが、なんてことはない。ラップを剥がすとただの雑穀米のおにぎりだった。

「いつもここで昼ご飯食べてるの?」
「悪い?」
「悪いとは言ってないよ……」

 なんで最初から喧嘩腰なんだ、という疑問を飲み込んで、僕はもらったおにぎりにかじりついた。米の塩気と麦のプチプチとした食感、豆の甘みが一緒くたになって押し寄せてくる。朝握ったものをそのまま持ってきたのか絶妙に冷えていて、なんというか……健康によさそうな味だ。まだ二口しか食べていないのに、無性に白米が恋しい。
 しばらく会話らしい会話もなく、黙々とおにぎりを咀嚼する。榊さんがなにを考えているのか、さっぱりわからない。おにぎりをわけてくれる優しさはあるのに、返答は不機嫌そうだし、顔も能面のように感情のゆらぎが見えず、人形と食事をしているような気分になる。
 もそもそと口のなかにまとわりつく雑穀米をなんとか飲み下し、僕は座る向きを変えて、階段の壁に背中を預けた。ちょうど頭のすぐ上に手すりが設置されていて、微妙に邪魔だ。
 榊さんもおにぎりを食べ終えて、くしゃくしゃになったラップを手の中で転がしている。お互い、なにをどう切り出せばいいのか様子を窺うことしかできない。
 僕が口を開きかけた時、榊さんがふっと顔を上げた。

「家族の付き添い?」
「なんでわかったの?」
「バッグ。隣に置いてあって、人を待ってるみたいだったから」

 よく見てるな、と素直に感心する。僕の横を通り過ぎたあの一瞬で、全部見ていたのか。
 今日の榊さんは制服のワイシャツに指定のブレザーを合わせていた。胸元で結ばれた、赤く細いリボンが榊さんの動きに合わせて揺れる。肩からこぼれ落ちた黒髪を鬱陶しそうに払い、彼女の目が僕の顔をまじまじと見つめる。僕もそれとなく視線を合わせようとしたが、やめた。榊さんの綺麗に整った顔を見ていると、言葉が喉元で詰まる。
 そもそも女の子と二人きりで話す機会なんてめったにない。緊張を押し隠すように下を向き、手の中で丸まったラップを眺める。

「四年くらい前から、母親の付き添いでよく行ってるんだ」
「長いね」
「もう慣れたよ」
「お母さんに従うことに?」

 僕は思わず視線を上げ、榊さんの顔を凝視した。いきなり突っ込んでくるじゃん。榊さんは最初から変わらない無表情で僕を見ている。僕のテリトリーに土足で踏み込んだことなど、彼女はまるで気にしていない。感情の読めない顔から視線を逸らす。

「榊さんには、関係ないでしょ」
「どうかな」

 榊さんは僕をあしらうようにくすりと笑った。はじめて見る、彼女のささやかな笑み。いつも笑顔だったら、めちゃくちゃモテそうだな。榊さんくらい美人だったら、もうすでに彼氏の一人や二人くらいいるかもしれない。
 邪念が支配しかけた頭を振って、話題を戻す。

「榊さんはいつからあそこに通ってるの?」
「七歳の時から」

 またしても僕は、ぎょっとして彼女のほうを向いてしまった。てっきり答えてくれないと思っていた。僕に母親のことを指摘してきた、ほんの意趣返しのつもりだったのに。榊さんが嘘をついているようには見えないが、また本当のことを言っているのかどうかもよくわからない。それでも、もう何百回と人に説明してきたような慣れた感じがある。
 どこかの窓が開いているのか、すこし寒いくらいの風が階段を通り抜けていった。

「君は――えっと、名前」
「森岡瑞希」
「森岡くん」

 榊さんは手すりを掴んで、「よいしょ」と気合いを入れながら立ち上がった。彼女が屈んだ拍子にやわらかな毛先が僕の顔の前を通っていって、シャンプーのいい匂いがする。大きく伸びをしてからスカートについた(ほこり)を手で払うその仕草がどことなくおばさんくさくて、急に都会の洗練された近寄りがたい女子高生から、田舎の道の駅で週末に観光大使をやってそうなご当地アイドルくらいの親近感になる。
 榊さんは手すりを掴んだまま身を屈めて、座り込む僕に顔を近づけた。

「森岡くんは、わたしと同じ匂いがする」

 明かりの乏しい暗い階段の上で、彼女の茶色の瞳がきらめく。さらさらと揺れる髪の毛から絶えずいい匂いがして、心臓がバクバクと暴れ出す。彼女の勝手な同類認定を、僕はこれといった感慨もなく聞いた。
 意識は彼女の口からこぼれる言葉よりも、いい匂いのする髪や、肌荒れの一切ないなめらかな白い頬に向けられていた。
 遠くで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
 僕は彼女が去った後も、しばらく階段から立ち上がることができなかった。