――小学校も中学校も行ってないってPTAで噂になったことあるの。児相の人が来ていたって話もあるし……。

 あの話が母の妄想だとは思えない。母は榊さんの名字を聞いただけで、下の名前を当てたのだ。榊さんは僕が知らなかっただけで、親同士の間では話題の人物だったということになる。ただし、星海高校二年三組の榊ゆらと、線路裏の変な三角形アパートに住んでいる万年不登校だった榊ゆらが本当に同一人物であるかはまだわからない。世の中には同姓同名もいるからだ。なぜだか僕は、高校の榊さんとは別人であればいいなと思っている。母が児童相談所なんてワードを出したせいかもしれないけど。
 彼女の家、線路裏に建つ三角形のアパートを思い出す。児童相談所の人間が家にやってきたことまで筒抜けになるのだ。田舎ほどプライバシーが死んでいる環境はない。家の前にパトカーが停まれば次の日には近所中からなにかあったのかと聞かれるし、隣に住むおばさんはことあるごとに「お父さんの車、最近見ないね? 家に帰ってないの?」と聞いてくる。余計なお世話。森岡家はとっくに父親が出て行った家として町内で認定されている。
 きっと僕以上に、母はその無意識の悪意に晒されているのだろう。いっそ離婚して、誰も僕たちを知らないところへ引っ越したほうが幸せになれるだろうな、なんて適当なことを考える。

『森岡さん、二番診察室へどうぞ』

 スピーカーから流れるゆったりとした男性の声で、おもむろに思考が断ち切られた。僕は辺りを見回し、そういえば母の付き添いで病院に来ているのだったと思い出す。
 隣では母が、膝の上からバッグを下ろして立ち上がるところだった。

「荷物、お願いね」

 母はそう言い残して、診察室に消えていく。新学期早々に学校を休むのは気が進まなかったが、母は僕の付き添いなしには病院へ通うこともできないのだから仕方がない。壁や床、ソファまでが白で統一され、抑えたボリュームでオルゴールのBGMが流れる待合室に一人残される。
 精神科の待合室というのは、何度来ても慣れない。見渡す限り白で埋められた景色はむしろ不安を増幅させるのではないかと思うし、受付の窓には分厚いアクリル板がはめ込まれていて物々しさを感じさせる。一人で待っている時は特に落ち着かない。待合室には長いソファがいくつも並んでいるのに、座っているのは自分一人だけ。真っ白すぎる光景と、ゆるやかに流れ続けるオルゴールが一瞬ここは天国だったっけと錯覚させてくる。
 僕は自分の体温で温まった合成皮革のソファの上で、もぞもぞとお尻を動かした。自販機まで行って飲み物でも買ってこようかと思ったが、そのためには母の荷物も一緒に持っていかなければいけない。万が一、母が戻ってきて待合室に置き去りにされた荷物を見たら「中身が盗まれたかもしれない」という強迫観念に三時間は付き合わされることになる。バッグの中身がなにひとつ手をつけられていなかったとしても、だ。

 どうしようかな、と迷っているうちに出入口の自動ドアが音もなく開いた。じろじろ見るのもまずいと思って慌ててソファに座り直し、手元に目を落とす。受付のほうから、ぼそぼそと看護師の話す声が聞こえてくる。
 足音が僕の横を通り過ぎ、ソファの軋む音がした。母親はまだ診察室から出てこない。そっと顔を上げると、ソファの背もたれからはみ出す小さな肩と丸い頭が見えた。髪はまっすぐ、さらさらとした黒髪で、肩甲骨のあたりまで下りている。黒いパーカーの首元から、白いワイシャツの襟が覗いていた。
 珍しい、学校の制服みたいだ。母に付き添って病院へ来るようになってもう四年は経つが、親に付き添われた私服姿の中学生らしき子を見たことは何度かあっても、制服姿の人を見たのははじめてだった。
 僕と同じ歳くらい、高校生だろうか? 学校は? 休みなのか、休んだのか。制服を見てどこの高校か当てようと思ったけれど、ワイシャツの襟だけではなにもわからない。せめて前から見られたら、校章とかリボンとかもっと情報が増えるはずだけど――。

『榊さん、三番診察室へどうぞ』

 軽やかな女性の声が天井のスピーカーから流れた。三番診察室の主は女医さんらしい。
 待て。今、なんて言った?
 制服姿の人影が立ち上がって三番診察室へ向かう。入れ替わりになるように、二番診察室から母親が出てくる。僕は母を見るふりをして、その奥へ首を伸ばした。右脚を引きずるような、すこし歪な歩き方。すらりと鼻筋の通った綺麗な横顔。その顔がなにかを察したかのように振り返り、奥二重に縁取られた目が僕を見やる。

 間違いない、そこにいたのは同じクラスの榊さんだった。

 動揺を悟られないよう、自然なふうを装って視線を逸らす。
 なぜ、彼女がここに? いや、診察を受けるためだろう。ここは病院だ。でもここ、精神科だぞ?

「どうしたの、急にそわそわして」
「あ、いや……」

 バッグを取り上げ、僕の隣に腰を下ろした母が顔を覗き込んでくる。「なんでもない」と言いたいところだが、今の僕はどう見たって挙動不審だろう。変に誤魔化して母に機嫌を損ねられても困る。

「さっき三番に入っていった人、知り合い? かもしれないんだ」

 結局、あえて濁すような言い方をしてしまう。彼女はどこからどう見ても榊さんだったのだけれど、なんとなく「榊ゆらさんを精神科で目撃した」という事実を認めるのに躊躇した。まさかこんなところで同じ学校の人と会うことになるなんて思ってもみなかったし、僕が学校を休んで母に付き添っていることをクラスメイトに知られるのも嫌だった。彼女も精神科にいるところを僕に見られるなんて想定外だっただろう。安心してほしい、学校で言いふらすようなことは絶対にしない。
 母は僕の答えをさほど期待していなかったのか、あっさりと興味を失い、やってきた看護師から処方箋の説明を受けていた。
 榊さんが診察室から出てくる前にさっさと退散したい。僕はまだ半ば母親を引き立てるような形で精神科のフロアを抜け出した。