星と海の町と書いて、星海町(せいかいちょう)。なんにもない田舎にはふさわしくないほど、いい響きの名前だ。
 星海町とは名ばかりで、この町は内陸部に存在しているから海は見えない。海が見たいなら、電車で二時間かけて沿岸部まで出る必要がある。
 星は……まあ、見える。田舎特有のすくなすぎる街灯のおかげで、そこそこ綺麗に見える。しかし、キャンプ場で見る星より綺麗かと言われたら、普通だ。街灯の多い都会より、はっきり見えるというだけの話。
 星と海の町と名づけられたこの町で、一番綺麗なのは意外にも夕日だった。建物を飲み込むほど大きく赤い夕日が、ゆっくりと山並みに消えていく(さま)は、町外からわざわざ写真家がやってきて写真に撮るのもうなずけるほど美しい。たぶん、どこかのカレンダー写真にでも使われていると思う。都会からやってきた美術の先生も言っていた。星海町が一番誇るべきは夕日の美しさだ、と。

 夕日とは程遠い強烈な朝日を浴びながら、僕は駅から高校へと続く道をダラダラと歩いていた。
 同じ電車に乗ってきた生徒の大半が友達と談笑しながら歩いているなか、僕は一人きりで話す相手もなく、黙々と歩いている。足元だけを見つめて、身を焼く四月の眩しい日光から目を背ける。
 まだ起きてから二時間も経っていないというのに、身体は疲れ切って重たい。一歩踏み出すごとに、寿命が削れていくようだ。

 もちろん、僕が朝から死にかけているのには理由がある。母親のことだ。
 僕の母親は、()()()()()()()()を患っている。一体いつから病院通いをしているのか、正確なところは覚えていない。僕が小学校へ上がる頃には、すでに母親は薬とともに生活していたように思う。

 ――瑞希(みずき)にはね、弟が産まれる予定だったのよ。

 母はことあるごとに、この世に生を受ける予定だった弟のことを話した。目の前にいて息をしている僕よりも、産まれてくることができなかった弟のことのほうが大切なようだった。
 流産で心身の調子を崩した母親を放って、父親は不倫に走った。夫婦で一緒に背負うはずの痛みを、父は母に押しつけたのだ。なにもかもを押しつけられた母が崩壊しないはずがなかった。家族や家庭なんてものが、いとも容易く消し飛ぶことを僕は小学生にして悟った。

 今日もいつもと変わらず母より先に起きて二人分の朝食を用意し、母が朝の薬をきちんと飲んだか確認した。確認しなければ、母は飲んだふりをして薬を溜め込む。睡眠薬や安定剤を一気に多量服用すればどうなるか、言わなくてもわかるだろう。
 そうして薬を飲んだ母は、毎日きっかり三十分かけて僕がきちんと決められた時間に帰って来るよう懇願する。父親が家に寄りつかなくなった今、母親にとって僕は最後の砦みたいなものなんだろう。自分の子どもにまで捨てられたら、母はいよいよその命を捨てるかもしれない。

 ゆるやかな坂を登りきると、ようやく植え込みの間から高校が見えてきた。星海町立星海高校。この町にひとつしかない高校だ。田舎といえど、いちおう幼稚園から高校まで揃っている。高校と同じく、それぞれひとつずつしかないけど。
 田舎の高校と聞けば、地元の子どもが通うと思われがちだが、そんなことはない。星海高校に通っている生徒の八割は、電車で一時間かけて大都会の幌川市(ほろかわし)から通ってきている。
 なにを隠そう、星海高校は地域内でもトップレベルに頭の悪い高校だ。入試はいつも定員割れが当たり前、自分の名前を書けたら入学できるとまで言われている。
 そんな評判が「勉強嫌いだけど、とりあえず高校までは出なきゃやばい」と思っている人間を呼び寄せ、ますます低レベルに拍車がかかる。授業のレベルは一般的な全日制の高校と変わらない(と思う)が、その分テストの平均点はすごい。二十五点を超えた日には先生が泣いて喜ぶ。

 自分で言うのもあれだけど、僕は別にそこまで頭が悪いわけではない。中学の頃はもっといい高校に行けるから考え直せと担任に説得されまくった。
 それでも僕が星海高校を選んだ理由はひとつだけ。家から近く、母から入学許可を得られた高校が星海高校しかなかったからだ。僕が都会の高校へ行くことを、母は極端に嫌がった。たかが電車で一時間の距離であっても、母は僕が家から離れることを許さなかった。まるで僕が一度都会に行ったら、もう二度と家に戻って来ないと信じているみたいに。

 そんな不本意な入学をした高校で、僕は二年生に進級した。一週間前に進級に伴うクラス替えがあり、一年かけて築き上げてきた人間関係は瓦解した。すなわち、数少ない友達とは誰一人として同じクラスにならなかったということだ。
 下駄箱の前でのろのろと上履きに履き替え、玄関から一番近い階段を登る。まだ慣れない二年三組の教室へ滑り込む頃には、どっと疲れが吹き出していた。
 八時二十分を回ろうかというところ、クラスの九割方は席に着いている。残りの何人かが遅刻の常習犯であることを、クラス替えから一週間で知った。

 始業式の日から学校内全体が浮き足立っていたような一週間だったが、それも昨日で終わり。進級オリエンテーションや教科書の配布などが済んで、今日からいよいよ新学期の授業がスタートする。
 どうか授業中に騒ぎ立てる奴がいませんように。
 先生に突っかかって授業を妨害するような奴がいませんように。
 学校にいる時くらい、平穏に過ごしたい。

 それが僕の、高校生活におけるたったひとつの願いだ。