梅雨真っ只中に垣間見えた青空は、夕方になると再び雨だと天気予報。にも関わらず忘れた傘に、帰りはどうしようと白い雲泳ぐ空に手をかざしていた。

 背中に斜め掛けしている黄色く細長い袋には商売道具であるかけ針を付けたくけ台(着物を縫う時に生地がたるまないように引っ張る道具)が入っており、片方の手には大きめの赤い風呂敷包みを提げている。それだけでも結構な荷物に見えるのだが、空いているもう片方の手には、裁縫道具と大小併せて2キロ以上の重しの入った袋まで手にしているのだ。

 それが重いのなんの。

 これで和裁ゴテまで持たされていたら、目的地に着くまでにやる気は完全に失っていたところだ。

 とにかく手荷物を下ろしたいがために足早に進むこの歩みに合わせて、背中のかけ針がカチャカチャとうるさいくらいの音を立てていた。

 やって来たのは、とある豪華な一流ホテル。

 洗練された広いエントランスの足元は大理石で埋め尽くされ、吹き抜けになっている高い天井からはバカラのシャンデリアが吊るされている。目が眩むほどの輝きにため息をもらしつつ、赤、白、黒の縦縞に大輪の薔薇が描かれた、お世辞にも控えめとは言えない自身の浴衣姿が如何にも場違いすぎて。ここまで自分が浮いているなど思いもせず、高級感溢れるそのロビーを指定され会場まで駆け足で素通りした。

 今日このホテルにやってきた目的は着物の展示会。姉にとっても初めて大きな会場で開く自身の催しに気合いも入っていた。しかし気合いを入れすぎたのか、大事な初日に体調を崩しダウン。当初の企画では展示会のスタッフにすら入っていなかった私が、急遽ピンチヒッターとして雇われた次第だ。

「────それで、美咲ちゃんの代わりがお前?」

 大丈夫か? と人の気苦労を楽しんでいる風のそいつに、「黙れ」と手にしていた霧吹きをかけてやる。

「シミになるだろ!」と懐から出したハンカチで軽く水気を払う人物は、紫色の矢絣(やがすり)の小袖に臙脂(えんじ)の袴姿。髪に挿したつまみ簪を気にしながら俯いていた顔を上げると、うっすらと化粧までもを施している。可愛らしいその容姿からしてどっからどう見ても女にしか見えないが、彼は正真正銘の男。身も心も健全な男子であった。

「ところでさぁ、もういい加減どっか行ってくんない?」

 仕事にならないと、目の前に鎮座する彼にもれるため息。会場の片隅でお客さんに愛想を振りながら、私は黙々と仕立てをこなしていた。

 疎らではあるが人の出入りはそれなりに切れることはなく、予想よりも広く感じたこの会場に接客係は私ひとり。どちらも片手間にはこなせないと呼んだ助っ人だったのだが、暇だからと快諾してくれたものの、相手が若い女の子でなければ必要以上に近寄ろうとしない様にほとほと呆れていた。

 私の本業はお針子。そして今急ぎの仕立てが入っている。だから例え一日でも接客だけで貴重な時間が潰れるのはとても惜しく、展示会場での仕立てを条件にこの場にいるのだ。後日しっかり埋め合わせしてもらおうと胴接ぎにまち針を打ち立ち上がると、それをクロームメッキの着物スタンドに掛けた。

 袖付けも終わり大体の形が整ったならば、次は表と裏の釣り合いを見なければならない。全体を確認すべく引き上げたスライド棒に、畳から上げられる着物の裾が微かな衣擦れの音をたてていた。

「でもさぁ、どっか行けって言われてもなぁ⋯⋯」と、会場内をぐるりと見回しため息を吐く久遠。展示されている着物を眺めたり、並べてある反物を手に物色するマダムな方々に、気が乗らないと文句タラタラ。

「お前、可愛い子呼んで来いよ」

 左横から飛んで来る無責任なその言葉に、「あのね⋯⋯」と項垂れる。かと思えば鬱陶しいほどの距離感で離れてくれない彼に、「私は数には入ってないでしょ?」とその肩を押し退けた。軽く仰け反るも「そんなことないよ」とわざとらしくこの腰に回された意外と逞しい腕が、彼の本職を思い出させる。

 庚久遠────彼は一般的には珍しい、着付けを専門に行う男性の着付け師だ。見かけは全くの女だが、その技術は確か。普段は主にレンタル着物店で着付けを行っているが、夕方頃になるとあちこちの置屋を回る『男衆(おとこし)』としても活躍している。手広くやっているなと感心すれば、お姐さん方に可愛がられるのが嬉しいのだと鼻の下を伸ばしていた。

「そんな冗談いいから、ふざけてないで自分の仕事してよ。ボランティアじゃないんでしょ? だったらお給料分は働いて下さい」

「そんなに俺を追い払いたいわけ?」

「うるさくて集中出来ないの!」

 振り返れば、ワザとらしいションボリ顔でこちらを見つめる彼と目が合う。そんな顔しても可愛くないと、今度は湿布布を投げつけてやった。

「お前も酷い女だよな」

「そりゃあ失礼しました」

 謝罪は棒読み、気持ちはゼロ。そんなだから「可愛くねぇな」と言われる。可愛くなければ「可愛さ」なんて求めちゃいけない気がしていたが、やはり女は「女」なのだ。

 自覚があるうちはまだマシかと、少し縮めすぎた(おくみ)裏に頭を悩ます。胴接ぎなら縫い直してもどうってことないのだが、衽裏は糸を解かなければならない箇所が増えるから尚のこと面倒。あわよくばコテで直ればと、あて布に霧吹きをかけた。

 今度は慎重に具合を見ながら微調整をしていると、久遠が小さく「あっ⋯⋯」と呟く。その声に思わず顔を上げ視線を泳がせると、目が合った一人の若い男性がこちらに近づいて来ているのが分かった。

「どれも素敵なデザインですね。鮮やかで個性的なものも含めて、どれも魅力的です」

『斬新』だと言う言葉は、聞きようによっては皮肉に聞こえなくもなく。濃紺のスーツをピシッと着こなし一礼するその人は、「狭山瑞保(さやまみずほ)」と名乗った。とりあえず「ありがとうございます」と答える私の隣で「お久しぶりです」と返す久遠は、目の前の紳士と顔見知りの模様。

「九条美咲さん⋯⋯ではない……ですね?」

「はい、申し訳ございません。九条美咲は本日体調崩しまして、今日だけお休みを頂いております」

 そう居住まいを正し会釈をする。明日にはこの場に顔を出すであろうことを伝えると、後日改めて出直すと綺麗な笑顔で答えてくれた。

「美咲さんのご家族の方ですか?」

「あー⋯⋯妹です」

「なるほど」

 今この場にいるのが『私』だということに合点がいったらしいその人は、「和裁士さんなんですね」とこの手元を覗き込むよう腰を折り、まじまじと⋯⋯といった感じで眺めてくる。「はい」と言いつつ添える『一応』の一言に、弱気な自分が見え隠れしていた。

 折り曲げていた上半身を起こしその場に膝を着くその人は、徐に自身のジャケットの内ポケットから何かを取り出す。突然目の前に差し出されたものは彼の肩書きと、ある呉服店の名前が連ねられた名刺だった。

「『狭山堂(さやまどう)』⋯⋯さん?」

 どこかで聞いたような? 見たような? 老舗呉服店という他にもう一つ何かあったような、と記憶を手繰る。思い出せそうで思い出せなくて、それが何とも歯痒くかった。

「せっかくですから、あなたのお名前も教えて頂けませんか?」

 不意をつくような問いかけに、思わず「あー……」と品のない間抜けな声。慌てて居住まいを正し、「市松⋯⋯です。九条市松と申します」と軽く会釈を返した。

 俯くと垂れてくる前髪を左耳にかけ直し顔を上げると、結い上げた髪に挿した手製の藤下がりの簪が少し揺れる。

「珍しいお名前ですね」と予想通りの反応。「よく言われます」と、私にとっては毎回お馴染みのやり取りと笑顔が『さよなら』の代わりとなった。

「久遠、あの人と知り合いなの?」

 去っていく紳士の後ろ姿を見送りながらそう問えば、「あー、まぁ⋯⋯一応」と歯切れの悪い返事。別に私に隠すようなことか? と訝しげに見つめながら、幼なじみを問い詰めてやろうとしたその時、何やら騒がしくなる会場の外に意識が向いた。

「何かあったのかな?」

「さぁ⋯⋯トラブル?」

 気になったのか? 様子を窺いに会場を出て行った久遠だったがものの数秒でカムバック。「花嫁が逃げたらしい」と話すその向こう側では「いた?」「いない」のやり取りが幾つも聞こえ、なかなかの大事だと知った。

「今、スタッフ総出で探してるらしいんだけど、全然見つかんないって」

「だとしたら、もうここにはいないんじゃない? 他に心当たりとかないのかな?」

「あったらもう見つかってんだろ。いくら探してもいないとなると⋯⋯もう完全にバックレてんな。十五分もありゃ、逃げるには余裕だろ。他の人はさぁ、よくあるマリッジブルーっていうの? だと思ってそっとしておいたらしいんだけど────」

「人生考えすぎちゃったのかな?」

 結婚はその人の人生において、大きなイベントの一つであろう。この先の生き方を大きく左右されることになる、ある種の分岐点だ。どんな事情があったにせよ、式当日にドタキャンともなれば一大事。一流ホテルで結婚式なんて、花嫁に憧れる人にとっては羨ましい限りだろうに。逃げ出したいほどの大きな迷いが生じてしまったのか? 本当のところは花嫁本人にしか分からない。

 別に私には関係のないことなのだが、自然と身体が動いていた。手にしていたコテを釜に戻し、協力を仰がれたという久遠の後を追う。見つかるかどうかはハッキリ言って望み薄だが、会場に来てくれていたお客さんにすぐ戻ると声を掛け、私も彼と共にホテルを出た。

 各々が散らばりあちこちを確かめる。久遠とは反対方向へ走りながら、車と人が行き交う大通りを広く見渡し先へと進んだ。

 その時、前方を見ていたこの視界を、白い何かがスっと横切っていく。慌てて振り返りそれを目で追えば、車道を挟んで向かい側の歩道を、人混みに紛れ白いベールらしきものがひらひらと靡きながら小さく遠ざかって行くのが見えた。

 その姿に確信を得た瞬間、この身体は反射的に動いていた。

 花嫁を見失ってはいけないと、その姿を追うことに一生懸命に。集中しすぎると周りが見えなくなってしまうこの性格は、横断歩道の信号の変化にまで気を回すことができなかったのだ。道路上に踏み出した時にはもう信号は赤に変わり、身体は車道のド真ん中。遠ざかる花嫁の後ろ姿と、クラクションを鳴らしながら迫り来る黒い鉄の塊に、頭は瞬時にパニック状態に陥っていた。

 硬い岩のよう硬直する私を、周囲の人たちも唖然としながら見ている。その様子をまるでスローモーションのように、私自身も俯瞰で見ている感覚だった。

 逃げることもできず「終わった」と目を閉じたその時────立ち尽くす私の腕を強い力が思いっきり引っ張る。

 見上げた先に眩しく光るのは太陽。逆光となりボヤける視界にその表情を窺い知ることはできず、輪郭さえ暗く影を落としている。唯一はっきりと見えたのは、細い三日月とそれと同じ柄を模した風に揺れる花丸紋柄の黒い袖の振り────⋯⋯。

 真っ昼間に三日月────?

 どこか現実味に欠けるそれは、またもやの白昼夢か? それともただの幻⋯⋯?

 ギリギリのところで車をかわすことができたこの身体は、気づけば誰かの腕の中にあった。

 我に返り背中を支える温もりに見えたものは、見覚えある黒髪。長く伸びた前髪に色白な肌を持つ、あの青年の姿だった。

「大丈夫か?」と気遣うセリフに無事だと答えるかわりに浅く頷く。助かったと深く息を吐き絞り出した「ありがとう」に、言葉少なく「あぁ」と答えるだけの相手。そんな彼の背後、少し離れた場所から「行くわよ」という女性の声が呼んでいた。

 スマートで流れるような仕草に不覚にもカッコイイと見入ってしまっていた私に、ゆっくりと押し寄せる記憶の波。見覚えあるのも当然のことながら、こんな所で会うことになろうとは思いもしなかったその後ろ姿に、初めて会ったあの川岸の土手で交わした会話を思い出す。

 ようやく思い出した『狭山堂』に繋がる記憶に、せっかく見つけた花嫁の姿を完全に見失ってしまっていた。