どこかしらあどけなさが残るその笑顔に、一瞬にして時が戻ったような気さえする。
やはり地元は良いもんだと思った。
傷口にバイ菌が入らないようにと丁寧に包帯を巻いて手当は終了。巻き残った包帯をその場に置き、今度は足の具合を窺う。少し痛みは残るものの、腫れもなく自分の意思で動かせる足首に、ホッと胸を撫で下ろした。挫いた程度ですんだらしいその足は不幸中の幸い。大事に至らなくて本当に何よりだった。
「それで、どっか行く予定だったのか? 何なら送るよ」
「大丈夫大丈夫。仕事に行く途中だっただけだから」
「職場はどこ?」
「お姉ちゃんのお店」
「あぁね。『椿姫屋』だろ?『花扇』の隣にある呉服屋。そこで働いてんだ?」
「そうそう」
「けどお前、靴⋯⋯片方しかないけど⋯⋯」
「⋯⋯あ」
例のパンプスは事故現場にそのまま。片足だけヒールの女が一人⋯⋯なんてみっともないやら情けないやらで。どうしたものかと考え落とす視線に、久遠ははたと何かに気づき奥にいるはずの女将さんを呼んだ。
「何ですか?」と言いながら現れたその人に、「女将さんの着物貸して」と唐突に告げる。
「俺、今この界隈で着付け師やってんだよ」
だから着付けてやると言う久遠に、女将さんも「それがいいわ」と私たちを手招き。
「着物⋯⋯」
呟き浮かぶ情景に、些か戸惑いが混じっていた。
「行こう」と示される方角への躊躇いが、優柔不断に拍車をかけて。頷くか頷かないかの曖昧さに、なら決まりだと半ば強引に手を引かれていた。
恐らく女将さんの住まいであろう二階にある六畳程の和室で、用意してくれた着物は白と黒のモダンなストライプ柄。どこかで見たことのあるデザインだと思っていたら、見つけたタグには『椿姫屋』の文字。やはり姉の店のものだと思いながら渡された肌着と襦袢に、少しなら自分で出来ると一旦久遠には部屋から退場願った。
襦袢までを何とか着終わり「一応、できたけど⋯⋯」と声をかける。再度室内に入ってきた彼は、ハンガーに掛けられていた着物を下ろし、後ろから肩に掛けてくれる。両袖に腕を通し、掛衿同士の長さ合わせる私の所作に、衣紋を抜き衿を合わせ形を整えながら久遠が言った。
「もしかしてさぁ、着付け⋯⋯自分で出来る?」と。
「まぁ、趣味程度くらいになら」
そう答える私に「そっか」と頷きつつ帯を巻く。
あっという間に終わった着付け。流石というべきか? その姿からは想像し難いが、職人なのは本当らしい。きつくもなく、緩くもなく、相手に合った着付けの仕方で、全てが美しく綺麗に整っていた。
「なんか着慣れてるな」
「そう?」
似合ってると言う久遠の言葉に、恥ずかしくて鏡を見るふりして背を向ける。彼は昔からそういうヤツだ。遠回しな表現が出来ないのか、嘘がつけないのか分からないが、何事に対しても基本的にストレート。そんなだから、高校時代も女子生徒に勘違いされては告白されて⋯⋯なんてことがよくあったのだ。要するに当時は大モテ。
今現在女の子に見紛うほど綺麗な顔をしているのだから、当時のイケメン振りには、自分が幼馴染みであることが恥ずかしかった。
「お着物、お好きですか?」
ぼんやりと鏡を眺めているところへ聞こえた女将さんの声。「もしかして⋯⋯」そう続けるその人は、どうやら私の実家を知っているようだった。
「やっぱり、『九条』の女将さんとこの。通りでお顔に見覚えがあるなって思ってたんですよ。『市松』っていうお名前も、そうはおられないでしょ? さすがは『市さよ』姉さんの娘さん。通りで、お着物にも慣れてらっしゃるんですね。確か姉妹さんでしたよね? お姉さんは⋯⋯確か⋯⋯」
「美咲のことですか?」
「そうそう、美咲さん。この近くで『椿姫屋』っていう呉服屋さんしてる。和服のデザイナーさんですってね?」
「そうです」
「そしたら、市松さんは?」
「あー⋯⋯、一応専門学校卒業したんですけど、定職にもつかないでフラフラしてて⋯⋯⋯⋯それを見兼ねた姉がうちの店で働いたらいいって」
「それで帰って来られたんですね」
「はい」と頷けば、側で女将さんとのやり取りを聞いていた久遠が「何の専門学校?」と割って入ってくる。
「和裁の学校」と答えれば、そこで合点がいったのか「なるどね」と納得していた。
「だから、着付けも出来るわけだ」
「そしたら、美咲さんとこでは和裁士さんとして?」
「いえ⋯⋯それは今休業中⋯⋯みたいな。姉のお店では目下接客担当です」
苦笑いを返しながら腰を下ろすと、脱ぎ散らかしていた衣服を畳み立ち上がる。トートバッグにそれを詰め込むと、女将さんに続いてその部屋を出た。
「でも何で接客なんだよ? 卒業したんなら、資格取ったんだろ?」
「一応、技能士」
「立派なもんじゃないですか!」
「そうでもないですよ、資格取っただけで終わっちゃったんで。続けていく根性もなくて」
いいことも悪いことも、修行中のあの四年間でたくさん経験した。けれど、印象に残っているのは圧倒的に良くない思い出の方で。
だから、止めたのだ。
嫌なことを思い出したくなくて。でも⋯⋯。
「美咲ちゃんには言われなかったのか? 和裁士やらないか? とか」
確かに、姉が私を呼び戻したのは『和裁士』としてだった。けれど、もう少し考えさせて欲しいと答え、それは未だ保留のまま。
「正直、迷ってる。止めようか、もう少し続けてみようかって」
宝の持ち腐れで終わりたくはなかった。とはいえ私の資格は“二級”技能士だから、そこまで自慢出来るものでもなくて。
心は揺らいでいた。
誰かに背中を押して貰いたかったのだ。「あなたなら出来る」「あなたなら大丈夫」だと。自己肯定感が低すぎて「どうせ」が口癖の私はいつも怯えていた。
失敗するのが怖くて。
馬鹿にされるのが嫌で⋯⋯。
早い話が自分に自信がなかったのだ。
ひとり自問自答していると、頭上から聞こえた声が「じゃあ行こうか」とこの腕を引く。当然のことながら、「どこへ?」と彼に問うていた。
「『椿姫屋』だよ。今から仕事なんだろ?」
「いいよ、一人で行けるから。久遠こそ、何か用事があったんじゃないの?」
「俺は大丈夫。急ぎじゃないから。遠慮って、案外時間の無駄なんだぜ」
その言葉と笑顔が、なぜかこの心にスっと入ってきたのだ。
「ほら!」と強引に繋がれた大きな手を、気づけば無意識にそっと握り返していた。
怪我をさせてしまったせめてもの償いだと、意気揚々とその店を出る彼の後に続く。見上げた頭上には優しい青が、広くどこまでも続いていた。
慌てて「お世話になりました」と深々と頭を下げれば「また、いつでもおいでください」と優しく微笑む女将さん。
出会いは一期一会というが、そこから思わぬ繋がりや結びつきが生まれるものだ。
それを人は『縁』と呼ぶのだろう。
やはり地元は良いもんだと思った。
傷口にバイ菌が入らないようにと丁寧に包帯を巻いて手当は終了。巻き残った包帯をその場に置き、今度は足の具合を窺う。少し痛みは残るものの、腫れもなく自分の意思で動かせる足首に、ホッと胸を撫で下ろした。挫いた程度ですんだらしいその足は不幸中の幸い。大事に至らなくて本当に何よりだった。
「それで、どっか行く予定だったのか? 何なら送るよ」
「大丈夫大丈夫。仕事に行く途中だっただけだから」
「職場はどこ?」
「お姉ちゃんのお店」
「あぁね。『椿姫屋』だろ?『花扇』の隣にある呉服屋。そこで働いてんだ?」
「そうそう」
「けどお前、靴⋯⋯片方しかないけど⋯⋯」
「⋯⋯あ」
例のパンプスは事故現場にそのまま。片足だけヒールの女が一人⋯⋯なんてみっともないやら情けないやらで。どうしたものかと考え落とす視線に、久遠ははたと何かに気づき奥にいるはずの女将さんを呼んだ。
「何ですか?」と言いながら現れたその人に、「女将さんの着物貸して」と唐突に告げる。
「俺、今この界隈で着付け師やってんだよ」
だから着付けてやると言う久遠に、女将さんも「それがいいわ」と私たちを手招き。
「着物⋯⋯」
呟き浮かぶ情景に、些か戸惑いが混じっていた。
「行こう」と示される方角への躊躇いが、優柔不断に拍車をかけて。頷くか頷かないかの曖昧さに、なら決まりだと半ば強引に手を引かれていた。
恐らく女将さんの住まいであろう二階にある六畳程の和室で、用意してくれた着物は白と黒のモダンなストライプ柄。どこかで見たことのあるデザインだと思っていたら、見つけたタグには『椿姫屋』の文字。やはり姉の店のものだと思いながら渡された肌着と襦袢に、少しなら自分で出来ると一旦久遠には部屋から退場願った。
襦袢までを何とか着終わり「一応、できたけど⋯⋯」と声をかける。再度室内に入ってきた彼は、ハンガーに掛けられていた着物を下ろし、後ろから肩に掛けてくれる。両袖に腕を通し、掛衿同士の長さ合わせる私の所作に、衣紋を抜き衿を合わせ形を整えながら久遠が言った。
「もしかしてさぁ、着付け⋯⋯自分で出来る?」と。
「まぁ、趣味程度くらいになら」
そう答える私に「そっか」と頷きつつ帯を巻く。
あっという間に終わった着付け。流石というべきか? その姿からは想像し難いが、職人なのは本当らしい。きつくもなく、緩くもなく、相手に合った着付けの仕方で、全てが美しく綺麗に整っていた。
「なんか着慣れてるな」
「そう?」
似合ってると言う久遠の言葉に、恥ずかしくて鏡を見るふりして背を向ける。彼は昔からそういうヤツだ。遠回しな表現が出来ないのか、嘘がつけないのか分からないが、何事に対しても基本的にストレート。そんなだから、高校時代も女子生徒に勘違いされては告白されて⋯⋯なんてことがよくあったのだ。要するに当時は大モテ。
今現在女の子に見紛うほど綺麗な顔をしているのだから、当時のイケメン振りには、自分が幼馴染みであることが恥ずかしかった。
「お着物、お好きですか?」
ぼんやりと鏡を眺めているところへ聞こえた女将さんの声。「もしかして⋯⋯」そう続けるその人は、どうやら私の実家を知っているようだった。
「やっぱり、『九条』の女将さんとこの。通りでお顔に見覚えがあるなって思ってたんですよ。『市松』っていうお名前も、そうはおられないでしょ? さすがは『市さよ』姉さんの娘さん。通りで、お着物にも慣れてらっしゃるんですね。確か姉妹さんでしたよね? お姉さんは⋯⋯確か⋯⋯」
「美咲のことですか?」
「そうそう、美咲さん。この近くで『椿姫屋』っていう呉服屋さんしてる。和服のデザイナーさんですってね?」
「そうです」
「そしたら、市松さんは?」
「あー⋯⋯、一応専門学校卒業したんですけど、定職にもつかないでフラフラしてて⋯⋯⋯⋯それを見兼ねた姉がうちの店で働いたらいいって」
「それで帰って来られたんですね」
「はい」と頷けば、側で女将さんとのやり取りを聞いていた久遠が「何の専門学校?」と割って入ってくる。
「和裁の学校」と答えれば、そこで合点がいったのか「なるどね」と納得していた。
「だから、着付けも出来るわけだ」
「そしたら、美咲さんとこでは和裁士さんとして?」
「いえ⋯⋯それは今休業中⋯⋯みたいな。姉のお店では目下接客担当です」
苦笑いを返しながら腰を下ろすと、脱ぎ散らかしていた衣服を畳み立ち上がる。トートバッグにそれを詰め込むと、女将さんに続いてその部屋を出た。
「でも何で接客なんだよ? 卒業したんなら、資格取ったんだろ?」
「一応、技能士」
「立派なもんじゃないですか!」
「そうでもないですよ、資格取っただけで終わっちゃったんで。続けていく根性もなくて」
いいことも悪いことも、修行中のあの四年間でたくさん経験した。けれど、印象に残っているのは圧倒的に良くない思い出の方で。
だから、止めたのだ。
嫌なことを思い出したくなくて。でも⋯⋯。
「美咲ちゃんには言われなかったのか? 和裁士やらないか? とか」
確かに、姉が私を呼び戻したのは『和裁士』としてだった。けれど、もう少し考えさせて欲しいと答え、それは未だ保留のまま。
「正直、迷ってる。止めようか、もう少し続けてみようかって」
宝の持ち腐れで終わりたくはなかった。とはいえ私の資格は“二級”技能士だから、そこまで自慢出来るものでもなくて。
心は揺らいでいた。
誰かに背中を押して貰いたかったのだ。「あなたなら出来る」「あなたなら大丈夫」だと。自己肯定感が低すぎて「どうせ」が口癖の私はいつも怯えていた。
失敗するのが怖くて。
馬鹿にされるのが嫌で⋯⋯。
早い話が自分に自信がなかったのだ。
ひとり自問自答していると、頭上から聞こえた声が「じゃあ行こうか」とこの腕を引く。当然のことながら、「どこへ?」と彼に問うていた。
「『椿姫屋』だよ。今から仕事なんだろ?」
「いいよ、一人で行けるから。久遠こそ、何か用事があったんじゃないの?」
「俺は大丈夫。急ぎじゃないから。遠慮って、案外時間の無駄なんだぜ」
その言葉と笑顔が、なぜかこの心にスっと入ってきたのだ。
「ほら!」と強引に繋がれた大きな手を、気づけば無意識にそっと握り返していた。
怪我をさせてしまったせめてもの償いだと、意気揚々とその店を出る彼の後に続く。見上げた頭上には優しい青が、広くどこまでも続いていた。
慌てて「お世話になりました」と深々と頭を下げれば「また、いつでもおいでください」と優しく微笑む女将さん。
出会いは一期一会というが、そこから思わぬ繋がりや結びつきが生まれるものだ。
それを人は『縁』と呼ぶのだろう。