一人は怖くない。

 元来、人に合わせることが苦手な性格であるから『孤独』を「寂しい」と思ったことはないが、確かに不安を感じることは多々あった。けれどそれでも大勢に囲まれているよりは気楽だったのだ。

 だからこんな人気のない路地は逆に居心地が良い。古い町家が建ち並ぶ一角を彷徨いていると、妙なデジャブに見舞われた。

 それはただの思念か、それとも────……?

「⋯⋯さく⋯⋯⋯⋯ら⋯⋯?」

 全国的には、北の方を除いて花の見頃はもうとっくに終わったはず。それどころか、前後左右広く見渡してみても、この通りには桜の木は一本も見当たらなかった。

 途端に酷い目眩に襲われる。

 いつの間にか変貌を遂げていた辺りの景色に、自身の心音と息遣いだけがやけに耳障りで。うっすら霧がかかったよう霞むそこは、多くの人々が行き交う大通りとなっていた。

 されども皆、無言。

 喧騒も何も聞こえず、視界ばかりが煩く感じる無音の世界だったのだ。

 私はまるで、桜吹雪の中の幽霊。

 誰とも目が合わず、こちらがどれだけ見つめても気にも止める者はいない。

「何なの⋯⋯?」

 無意識にこぼれ落ちた言葉に、桜の花びら運ぶ風が静かに止んだ。

 目が合ったのだ────誰かと。

 確かに視線が重なった。⋯⋯そんな気がして。

 顔の輪郭以外が全てぼやけていて性別さえよく分からなかったが、確かに感じたのは表現し難い懐かしさ。同時に、どこからともなく聞こえた甲高い音。タイヤのスキール音に似たその雑音に意識を揺さぶられたかと思うと、全てが思い過ごしだったかのよう風景は元通りとなっていた。

 やけに生々しかった幻影に(うつつ)が色褪せる。

『白昼夢』────その言葉が頭をよぎった。

 あれは一体⋯⋯?

 悲しいような切ないようなそんな感覚に、込み上げてくる不安と相反する興味。戸惑う感情に俯き悩むようその場に立ち尽くしていると、今度は路地から勢いよく飛び出してきた自転車と見事鉢合わせ。互いはそのままの勢いで激突してしまっていた。

 どちらが悪いのかと問われれば、路地の側で立往生していた私にも大いに非はあるが、相手が自転車ともなれば受けた被害はこちらの方が大きくなる。たかがチャリンコだと侮ってはいけない。突き飛ばされたというのは少々大げさではあるが、それにも近しい状況にこちらも無傷というわけにはいかなかった。

 側溝の穴に見事ハマったローヒール。それが折れた拍子に捻ったか挫いたかで、足に走る痛みはそれなりの激痛だったのだ。半額セール品のお値打ち価格では、この図太い足首も支えられなかったようで。時すでに遅しと擦りむいた手の平から滲む赤黒い血に、気分はまたも急降下していった。

「うわっ、すいません!! 大丈夫ですか!?」

 自転車を投げ捨て駆け寄り、こちらを窺う声に頷きながら見上げた顔を思わず二度見。聞こえた声は明らかに男性のものなのに、「やっば⋯⋯」と目が合ったその人の容姿はまるで────女の子。

 高く結い上げた栗色の髪に、揺れる藤色のさがり簪。赤い矢絣(やがすり)小袖(こそで)と袴姿でしゃがむ彼か? 彼女だかは、取り敢えず左手の平の傷を気にかけながら、「立てます?」と大層心配そうで。多分軽い捻挫であろうが、安物とは言えパンプスのヒールが折れるほどの衝撃だったのだ。朝から散々だと、近くの壁に持たれ軽く頷き立ち上がった。

「痛ぁ⋯⋯っ」

 右足に体重をかければ激痛が走り、自然と重心は左側に。歪む表情にしきりに「病院へ」と急かされはしたが、それには及ばないと断る。ならばせめて手当てをと支えられ連れていかれたのは近くにあった小料理屋だった。

「女将さん、救急箱あります?」

 暖簾を潜るなり声を上げるその人に、「あら、久遠さん? どうしたの?」と私たちを見て驚く着物姿の女性。「救急箱なら奥に」と答え、その女性は室内の暖簾の奥に消えた。その間に肩を貸してくれていた『彼女』は、意外や意外の腕力で決して軽くはないこの身を軽々と抱き抱えてくれる。細身ながらもがっしりとした身体つきはまるで男性の如く抜群の安定感で、そのまま座敷まで運んでくれた。

「それにしても、何があったんです?」

「自転車に乗ってた彼女⋯⋯? とぶつかっちゃって」

 私を気遣いながら尋ねる年配の綺麗な女性にそう答えながら、何か心に引っかかっていることに気がつく。

「俺が悪いんですよ。よく見ないで路地から飛び出したりしたから。悪かったな⋯⋯⋯⋯市松」

「⋯⋯⋯⋯────へっ?」

 マヌケな顔にマヌケな反応。添えた感嘆符の後に続く言葉もないまま顔を上げれば、自身を指差し自分は『男』だと訂正する。彼女────基、彼は、私の名前を知っていた。

 驚きその顔を凝視。思えば耳に馴染む聞き覚えのある相手の名前に、こんなに可愛い男の子の知り合いなんていたっけ? と首を傾げていた。そんな私の反応が余程おかしかったのだろう、一瞬目を丸くした女将さんが声を殺して笑っていた。

「間違うのも無理は無いけど、この子は女性じゃないのよ」

「いや⋯⋯だって、どっからどうみても⋯⋯」

「おい、幼馴染みの顔忘れたのかよ」

「幼馴染み⋯⋯⋯⋯────」

 呟いてその大きなぱっちり二重と視線が合った瞬間、「あっ⋯⋯」と口を開けたまま固まっていた。

 深く考えずとも浮かび上がってくる思い出は、高校の卒業式以来か? そこには自身の記憶の中にある端正な顔した青年の面影が、目の前の綺麗な顔と完全に重なっていた。

「うっそ⋯⋯⋯⋯まさか⋯⋯久遠って⋯⋯庚久遠(かのえくおん)!?」

「よっ」と言う軽すぎる挨拶には絶句。

 それはとてもじゃないが、五年前には想像もできなかった信じられない光景だった。

 物心ついた時からいつも一緒に遊んでいた近所の悪ガキ。高校時代には女友達よりも親しかった幼馴染みが、今────「女の格好してる」と心の声がダダ漏れ。

 やはり体つきは女にしてはガッシリしているし、「久しぶり」というその声も図太い男の人のもの。しかしながら可愛らしく化粧をした外見は、本当にどっからどうみても女の子だった。

「聞きたいことは山ほどあるんだけど……まず、その格好⋯⋯⋯⋯趣味?」

「五年ぶりの再会で、一番に聞くことがそれ?」

「他に何があんのよ? ってかまぁ、似合ってるっていうのもまた⋯⋯」

「お前の方こそ、相変わらず成長してねぇな」

 まるで子供扱いするよう私の頭を撫でるその手首をおもいっきり掴み、「やめて」と制止する。

「いつ花洛に帰ってきたんだよ?」

 突然の再会ともなれば、そんな会話になるのは当たり前。それに対し「二週間くらい前」と簡潔に答える私に、彼は近所なんだから声くらいかけてくれてもよかったじゃないのかと、手の平の傷の手当てを始める。傷口に染み入る消毒液に顔を歪ませる私の側で、女将さんが「後はお二人でごゆっくり」と、暖簾の奥に姿を消した。

「そんなこと言ったって⋯⋯」

「気ィ⋯⋯使ってくれてたんだろ?」

 何が? と問わなかったのは、彼の言わんとすることが分かっていたから。

 五年前の当時、久遠の家の家庭内事情は少しばかり複雑だった。故に気軽に連絡を取れる状況ではなくその後音信不通に。

「親の離婚なんて、差程珍しくもないけどさ。高校卒業目前ってのがタチ悪いよな⋯⋯うちの親も」

 そう当時を振り返る彼は「心配かけたな」と小さく笑う。それでも顔くらいは見せて欲しかったと少し不貞腐れた風を装う幼馴染みの、変わらないその人懐っこさが嬉しかったのは事実。たまに母から入る噂程度の情報では、元気にやっていると聞いていたから安心してはいたのだ。