「何がそんなに不満?」

────それは突然聞こえた声。

 驚き跳ねる肩に目を見開いたまま、声が聞こえた左側を見遣る。少し離れた場所に同じよう座る青年らしき横顔が、「こんなにいい天気なのに」と正面を向いたまま水面に声を投げていた。

 それは新緑の隙間から覗く木漏れ日のような暖かな声色で、耳に心地よく響く中低音は優しく柔らか。変わり映えのないこの風景に華を添えるようなその存在感がどこか懐かしくて、勝手に親近感。

 何だか可笑しくて思わず笑みが零れる。

「笑えるんだな、一応。心配して損した」

「そんなに落ち込んでるように見えた?」

「何か思い詰めてるのかな? って。不安とか⋯⋯迷いがあるとか。まぁ、俺には関係のないことなんだけど」

 聞こえた言葉にやっと視線が重なったかと思えば、明朗な口調で愛想ない一言をお見舞される。そよ風に煽られ目元を覆う前髪を人差し指で払いながら、口許にはうっすら笑みを浮かべていた。

「俺もよく来るんだ、ここ」

「そう⋯⋯。私は久しぶり」

 穏やかな流れに、微かに波打つ水面。彼を通り越した左側の風景には大きな橋が架かり、たくさんの人々がその上を行き交っていた。

 五月のゴールデンウィークをひとつの区切りと決め、帰郷を果たして数日。早朝の川岸で土手に足を放り投げて座り、目の前をゆったりと流れる川を無心で眺める。かれこれ一時間弱、何をするでもなくただぼんやりと過ごしていた。

「久しぶりってことは、地元の人?」

「そう。最近帰ってきた」

「なるほど」

 彼との距離は大凡、二、三メートル。

 互いの間に空いた隙間と呼ぶには少々広すぎるその空間を、そよそよと絹のようなそよ風が吹き抜けていった。

「なかなか見つからなくて⋯⋯⋯⋯自分の居場所⋯⋯」

 その言葉は無意識。

 例えば、人生の目標は何か? と問われたとして、明確に答えられないのが今の自分。少し前まではそれなりの理想があった気もするが、気づけばそれさえも忘れてただ迷子。何の達成感も得られず、今や挫折感と虚無感しか残せていない惨めな人間となっていた。

「夢中になれるものが欲しくて⋯⋯なんて、それこそ今更か⋯⋯」

 成人して間もなく、早三年。自分はもう大人だと息巻いていた人間が、今更何をボヤいているのか。物事を上手く消化出来ないのは、小さい頃から何も変わっていない。短所ばかりが目立つ自分に今一番ピッタリの言葉は「中途半端」────その一言に尽きると思った。

 思い通りにならないのが世の常だ。それを成功まで導くプロセスが人生の醍醐味なのだろうけれど、何も成し遂げられず心折れてばかりの人間は、何を支えに日々を頑張ればいいのか。

 私には何もない────虚しさの塊だと自嘲気味に笑えば、「卑屈になったところで何も変わりはしない」と彼はその場で立ち上がった。

「出来ないヤツほど、愚痴が多いもんだけど⋯⋯君はどう?」

 痛いところを付かれ、見透かされているような気分になる。恥ずかしさと的を得ている言葉に、込み上げてくるものは僅かな苛立ち。

「しんどいとか苦しいとか、生きてれば楽しいことより辛いことの方が多いように感じるけど、苦しいのは前に進んでる証拠だよ。抜け出せなくなる時は誰にでもある。けど、そういう時間も人生には必要なんじゃない?」

「そうかもしれないけど⋯⋯」

「変化っていうのはさ、時には辛いし確かにめんどくさいよな。けど『嫌だ』『出来ない』って愚痴ってる暇があんだったら何かすればいい。何でもいいから、とにかく動けばいいんだよ。立ち止まってウダウダやってても埒が明かないだろ。自分自身の力で乗り越えないと、何も見つからない」

 初対面のクセにズケズケと言ってくれると、イライラが顔に出る。しかもそれが的外れどころか、その通りなものだから余計に釈然としなくて。かと言って性格上、顔には出ても思ったことを口には出来なかった。

「『ムカつく』って顔だな。牽制してんの? それとも顔に出るタイプ?」

 いちいち癪に障る男だと、下唇を噛み視線を逸らす。

「説教臭くて悪ィな。そう言う俺も、偉そうなことは言えないんだった」

 鼻から抜ける笑い声が彼自身を嘲笑っているようにも思えて。もしかすると彼も自分と同じよう、『今』に『迷い』を持っているのではないかと、影差す綺麗な横顔にそう感じていた。

「ま、大丈夫だよ」という何気ない一言は、今までの話の流れを断ち切るよう晴れやかで。その声質からか? 説得力に拭われた心の不安に、どこか肩の荷が降りたような気分になっていたのだ────きっと。

 上手く説明できない懐かしさが、言葉にできない涙を呼んでいた。

 全く見知らぬ赤の他人の、それも何気ない使い古された一言に、何故こんなにも救われたような気持ちになるのか?

 止めどなく流れる涙を素手で受け止めるには事足りず、尚も滴り落ちる雫にそっと差し出された木綿の感触がこの涙を拭ってくれていた。

 彼は何も言わず、ただ側にいてくれたのだ。

 何も言わず、何も聞かず。

 伝う涙は止まったが、残るその跡がハンカチに。冷静になった所で、さてこれをどうしようかと悩む。

「やるよ、ソレ」

 私の心が読めたのか? 簡潔な彼の言葉で全ては解決。

 草木染めのような温かな風合いを醸し出す生成のハンカチ。涙で汚してしまったことを申し訳なく感じては、その場で遠慮することもできず。その僅かな行為に甘えることにした。

 どことなく漂う大人の色香の中、少年のような無邪気さが見え隠れする様がその青年の魅力。「何か、ごめんなさい」と伝えるのがやっとの私にクールな笑みを浮かべ、「それじゃあ」と言って後腐れなく立ち去って行く。

 段々と遠くなるその背中をじっと見つめながら、どこか名残惜しささえ感じてしまっていた。

 ふと手元に視線を落とせば、例のハンカチのその隅に『狭山堂』と茶色の糸で刺繍された落款(らっかん)を見つける。

「『さやま⋯⋯どう』?」

 それはどこか聞き覚えのある名前だった。

 この記憶の片隅に見え隠れする思い出の影────か? 

 しかし考えても考えても一向に見えない答えに、とりあえずは俯いたままだった顔を上げる。するとふわりと微笑むような風が、彼の後を追うかのよう側を通り過ぎる。差し込む朝日に照らされ、まだ日陰だった場所にも太陽の光が届いていた。

 無意識に見上げた空をぐるりと見渡せば、軽く霞がかった青い空を少し足早に横切る雲が通り過ぎて行く。

 こんな朝も悪くないと思えた。

「出会い」と「別れ」────常に交差するその二つは、時に人の人生を大きく変えることもある。

 そろそろ仕事だと、ようやく立ち上がる気になったその重い腰。再び歩き始めた私の背中を、若葉揺らすそよ風がそっと掠めていった。