僕の17の冬から美里が消えてから8年が経った。
僕は大学進学のタイミングで実家を出て上京した。大学を出て新卒入社をした会社はとても良いところで、大手企業の営業。新卒の頃から残業は多いし大変だったけれど、先輩もいい人だし同期とも既に打ち解けられていて、今も関係は良好。でもどこか本腰が入らない。僕は美里の背中を見送ってから今日まで、なんとなく生きている感が否めなかった。
あれから栞は美里に話を聞いたのか、咲人に話を聞いたのか、美里が引っ越した週末、一人で飛行機に乗り突然帰国した。その時の栞は何かに焦っているようだった。咲人と話す姿も妙に親しげで、僕だけ何も知らない邪魔者のような感覚になった。僕は何度も美里の事を二人に尋ねたが、結局真実を聞くことはできなかった。
「私たちだけでは碧に話せない」
そう突き放された。あまりに二人が何も話してくれなかったからか、僕も徐々に二人と距離を置いた。今思うとそれはただの嫉妬で、美里の事なのに自分より知っている人がいるという事実にむかついていたんだと思う。
とは言っても自分から動くこともできなかった。それは美里との連絡手段はなかったからだ。携帯も変えたみたいで繋がらず、栞も新しい番号は知らないと言っていた。完全に僕の人生から美里は消えた。裏掲示板でも書き込みも、美里が引っ越してからは段々となくなっていき、卒業を迎える頃にはすっかりなくなっていた。あんなに騒ぎ立てていた人たちも、「今何してんだろうね〜」と軽い気持ちで呟くだけで、そこまで興味がなさそうだった。
大学に進学しそこでもやはり僕は何かと人気者だった。でも好きになる人はおらず、同じ大学に進学した春樹に
「いいなと思った子と付き合っちゃえよ、人生なんでも経験あるのみって言うだろ?」
と、前に言われていたように念を押され、告白してくれた子と数回付き合った。でもどれも長くは続かず、「そっけない」「私のこと好きなの?」と、どの人にもそう言われた。そんな大学生活は男友達といる方が楽しくて楽だった。栞とも相変わらず親戚付き合いが続いていたものの、互いに気を遣っていたのか月日が流れていく程、美里の話をするこはなくなっていった。
そして僕は思い切ってフットサルのサークルに入った。体を動かしているときは何も考えなくていいから楽だった。サークルで柏木徹という少し変わった奴と仲良くなった。彼は自由奔放で、考えていることが行動と言動に全て出てしまう感情型。このタイプの人間は一緒にいて楽でいい。相手が何を考えて、何を思っているのかいちいち読み取らなくて済む。僕は大学のほとんどを徹と過ごした。
華金と呼ばれる金曜日。徹から店の名前と地図が送られてきた。いきなりの誘いに呆れたが、僕も今日は飲みたい気分だったから仕方なく、『行く』とだけ返事をした。
夏の暑さが21時になってもまだ街に残り、蒸し暑かった。仕事を早く終わらせる予定だったのに、やはり今日も残業だった。徹との約束から一時間も遅れてお店についた。居酒屋とイタリアンという正反対のお店が並んでいる。当たり前のように居酒屋の前で徹に連絡をしようとしたら、隣のお店から聞き覚えのある声が聞こえた。
「碧!こっち」
声の主は徹だった。
「は?待て、お前と二人でこんな店とか俺無理なんだけど」
そういう僕に対して徹は笑いながら応えた。
「バカか、それはこっちも願い下げだ。いいからまあ来いよ」
そして肩を組まれ店に連れ込まれた。僕を向かい入れたのは二人の女性だった。一人は徹の二年前から付き合っている彼女だ。学年は一つ上だが、僕とも大学が一緒で面識がある。でももう一人は誰だ。華奢な体に淡い配色のノースリーブのワンピースが体のラインを嫌でも伝えてくる。茶色い髪にまんまるな目、背筋を伸ばし真っ直ぐ佇む姿からいかにも育ちがいい匂いがした。
「この子、私の友人の速水咲良」
「あ…どうも…」
僕は徹の腕を引っ張り、睨みつけた。帰ろうとする僕の腕を引っ張り
「だってお前どんだけ彼女いねーんだよ、ちょっとは恋愛をしろ」
と、徹は小声で言った。
「余計なお世話だよ」
そう言いながら僕はとりあえず席に座った。
いくら前を向こうとしても、僕の中にいる美里という存在があの頃に何度も引き戻す。そうならないように、美里はあの別れ方を選んだのだろうけれど、僕にとっては難しいことだった。忘れたいと思うよりも、同じように美里も自分を思い出してほしいと願った。そして、美里が思い出す自分は、ちゃんと美里のことを守れていますようにと願っていた。
ふと気がつくと、咲良が僕にサラダを取り分けてくれていた。
「ありがとうございます」
「いえ、とんでもないです」
ぎこちない距離感の二人は、お互いの目を見ずに初めての会話をした。それから、主に徹とその彼女が場を盛り上げてくれた。話していくと、咲良は速水建設という大手建設会社の娘と言うことが分かった。どおりでいかにも育ちがいい雰囲気を感じたものだと僕は最初に抱いた印象に納得した。どうせ親は優しくて、欲しいものはなんでも手に入って、恵まれていたんだろうなと思った。
「何か飲まれますか?」
僕のグラスが空いたことに気が付き、咲良が気を利かせて聞いてくれた。
「あ、じゃあハイボールで」
了解ですと話す咲良はよく出来た世話係みたいだった。お互いのことを話していくうちに、年齢は一個上で、育ちは東京、徹の彼女とは高校の友達だということがわかった。女子校に通っていたらしく、僕や徹が知らない女子校の話をたくさん聞いた。なかなか面白かった。
「碧くんはどんな学生だったの?」
いきなり話を振られて驚いた。どんな学生だったかなんて、僕にはこれと言って答えられるものはなかった。
「どんなって、普通でしたよ」
「恋とかしてた?」
いきなりタメ口になったし、会話の内容も少し距離が近い感じがした。
「まあ、人並みにですかね」
そう言った僕に徹がすかさず突っ込んだ。
「こいつ、全然恋愛興味ないの、なんとかしてやってよ咲良ちゃん」
その言葉でくすくすと笑っていた咲良の顔は、意外にも昔の美里の笑顔に少し似ていた。
終電が近づき、店を出て、駅まで歩いた。僕は隣を歩く咲良に少しだけ緊張していた。
「そういえば、速水さんは恋してたんですか?」
気まずい空気から脱却するべく、僕から話しかけた。
「名前で呼んで欲しいな」
「あ、じゃあ咲良さんって呼びますね」
「敬語もやめて欲しいな〜ほら、徹くんもタメ口だし」
「わかりました。あ、わかった」
僕の質問は結局流されてそのままになった。
それから連絡先の交換をした二人は、一週間後一緒に出かけることになった。とは言っても、これは徹が無理矢理作ったダブルデート。待ち合わせ場所に行くと、咲良だけが待っていて、あのバカップルはいなかった。
「二人は二人でデートするみたい」
少し照れ臭そうに咲良は僕の目を上目遣いでじっと見つめた。くそ。徹の奴…次会ったら…と頭で思っていると、咲良に袖を引っ張られた。
「ねえ、行こ?」
「あ、うん」
咲良の行動はあざといとはこういうことなんだろうと、思わざるを得ない。大丈夫、こんなのに引っかかったりしない。そう心で思った。
二人で映画館に行き、流行りの映画を見た。映画の中の二人のリアルな恋愛模様が描かれていた。少し頼りなさそうなのに現実を見つめていて、いつの間にか「じゃあ」が口癖になってしまった男の子と、小さな体で精一杯理想を求めて例え違う道に進むことになったとしてもそれを選択できる芯の強い女の子。とても素敵な二人だった。一粒のお米を沢山集めておにぎりを作るように、二人の隙間も少しずつ大きくなっていき、それはもう取り返しのつかないくらい大きかった。大きすぎていた。
僕と美里の間に出来た隙間は、この映画のように大きすぎてしまったのだろうか。この映画みたいに時間をかけてじっくりとできた隙間ではなかったけど、あの時にできた隙間は、あまりにも大きすぎたのだろうか。
それからと言うもの、映画が終わってご飯を食べに行っても、夜道を二人で歩いていても、触れる距離にいる咲良ではなく、僕の頭の中はどこに居るかもわからない、美里が支配していた。
二人で映画を見に行った半年後、僕らは付き合うことになった。告白は咲良がしてくれた。三回遊びに行っても何もなかった僕らは、このまま友達になっていくんだろうと思っていたところで、四回目のデートで咲良から付き合おうという言葉が出た。笑った顔が似ていると言う理由で、咲良にあの頃の美里を重ねていて、告白を受けたのも、正直それが決め手になってしまっていた。失礼なことをしていると分かっていたけど、それでも咲良のことは僕の中で「好き」というか、特別にはなっていた。
時間とか新しい誰かの存在というものは、自然と過去を楽にしてくれる。咲良と過ごしていくうちに、間違いなく美里との時間は過去の出来事になっていき、完全には忘れることはできなくても、少なくとも僕をあの頃に縛り付ける存在ではなくなっていった。