夏休み。栞が家族と一緒に一時帰国をした。


 「碧久々〜!」


 元気に抱きついてくる栞は昔のままだった。


 「おう、元気そうで安心したわ!」
 「元気元気〜でもちょっと太ったかも。向こう美味しいもんばっかだからさ!」
 「…」


 僕は栞の全身を見た。


 「うわ!そこはそうでもないよ、とか、逆に痩せて見えるよとか言うんだよ。ばか碧!」
 「ごめんって。嘘。何も変わってないよ」


 久しぶりに会ってもいつも通りだった。親戚だからか、やはりどこか栞には安心する。元から背が低く、人より華奢な体は相変わらずだった。色づいた唇を見て、僕は美里を思い出した。


 「七瀬美里、会う?」
 「…大丈夫!こっちのタイミングで会いたいから」
 「そ?じゃあ連絡先送るわ。知らないだろ?」
 「…そっか連絡先。教えてもらわないと知らないから送れないや、あはは」
 「栞お前、馬鹿になった?」
 「はーうるさいな。向こうでは英語で話してるんだからね!碧よりは頭いいもん」
 「はいはい、じゃ今送るねー」


 栞は相変わらず妹みたいだ。それがどこか心地よく、いつも一緒にいた日々が懐かしく思える。僕はまた三人でたわいない話をしたり、笑い合ったり出来たらいいなとあの頃の日々を思い浮かべていた。正直、元に戻れるなんて理想を描いていたかもしれない。この時栞がどう思っていて、美里がどう思っているかなんて、少しも気にしていなかった。


 「碧、ちょっと買い物行ってきてくれない?」


 母親から頼まれ、文句を一言二言放ち渋々蒸し暑い中家を出た。もう夏休みも終盤。僕は毎日宿題に追われていた。勉強はできない方ではない。むしろ好きな方ではある。でも碧は書き写すとか、ただやるだけという作業が苦手で、どうしても後回しにしてしまっていた。預かったお金でアイスを買ってやろうとか、そんなことを考えて歩いていたら、懐かしい光景が視界に入ってきた。
 栞と美里が公園で何か話している。二人はあまり良い雰囲気ではなさそうだった。僕が知っている栞らしくない緊迫した表情を浮かべている。美里も昔みたいな調子で栞と話せていないようだった。


 「だからダメだって!」


 栞が声を荒げた。栞の表情に僕は驚いた。僕にいつも怒っている時とは違う表情。どこか切なそうで苦しそうで、今すぐにも泣き出しそうだった。


 「二人共どうしたんだよ」


 僕は声をかけずにはいられなかった。そんな僕に酷く驚いた表情を見せたのは栞ではなく美里だった。


 「和泉くん…今の聞いてた?」


 声が少し震えて聞こえた。


 「いや、栞のでかい声しか聞こえてないよ」
 「そっか」 


 重たい空気が流れる。ここにいてはいけないような感覚。僕は邪魔だと言われているような気がした。栞も妙に顔を背けてこっちを見ようとしない。


 「なんか、あったか?」


 そう聞くと返事をしたのは美里だった。


 「ううん。大丈夫。ちょっと久しぶりに会って噛み合わなかっただけだから」


 美里がそう話すと、さっきまで顔を背けていた栞が口を開いた。


 「そーだよ。女同士の話だから碧入ってこないで〜」
 「なんだよその言い方。心配したのに。じゃあ俺はお邪魔なようなんで帰りますよ〜」
 「帰れ帰れ〜」


 栞が追い払うように手を振り、僕が二人に背を向けた時、


 「和泉くん」


 美里が僕を引き止めた。 


 「ちょっと、」


 栞が焦った声で言う。振り向くと美里は真っ直ぐ体を僕の方に向けていた。


 「またちゃんと話すから。…和泉くんにはちゃんとしたいから」


 ちゃんとしたいと言う言葉の意味がその時の僕には分からなかった。栞はその美里を見て、ため息をついている。「意味がわかんない」と喉まで出てきた言葉は、美里の表情を見ると口に出せなかった。


 「わかった」


 それだけ言ってその場を後にした。スーパーに行き家に帰る。


 「あれ、ちゃんとお金余ってる。アイスとか買ってくると思ったのに〜碧?」
 「あ、そうだアイス…」


 母親に言われて、アイスを買ってくるのを忘れていたことに気がついた。僕の頭はちゃんとしたいと言った美里のことで埋め尽くされていて、あの時の彼女の顔が忘れられなかった。


 「和泉くんにはちゃんとしたいから」そう言われてもう既に一ヶ月が経っていた。栞は夏休みが終わり日本を離れた。あれから、「何があったんだ」と栞に聞いても、「私から話すことはない」そればかりで何も話してくれなかった。緊迫した感じで伝えてきた美里も、あれから何度も会っているのに至っていつも通り。くだらない話もするし、笑顔だって見せてくれる。クラスでいる時はとてもクールで静かだし、ヘッドホンをつけて周りと関わらないようにしているのも相変わらずだった。


 ただ、最近僕以外の男とよく話している姿を見る。そいつの名前は相田咲人。僕と小学校の頃から一緒で、でも特別話した覚えはない。美里も栞も知っているが、二人が親しくしている所を見た覚えはない。休み時間フラッと教室からいなくなる美里は、多目的ルームで咲人と何か話している。それも休み時間だけ。別に廊下ですれ違って手を振っているとか、ニコッと笑っていたりとか、そういう関わり方ではない。休み時間のたった十分だけ話して終わるという妙な関係性だった。
 相田咲人ははっきり言って変な子だった。昆虫とかそう言うのが好きで、今で言う「陰キャ」と言う存在。小学校の頃なんて、勿論特定の仲良い子はいなさそうだったし、いつも一人だった。でも思い返すと、みんなと仲が良い栞は廊下ですれ違った時に彼にも声をかけていた気がする。だがそれも、栞はみんなにしていたことでそこまで気に留めていなかった。彼との接点といえばそれくらいだ。どうして今になってそれも美里に近づいてきたんだろう。僕の頭はそればかりだった。


 「相田と仲良いの?」


 放課後の美術室で僕は美里に聞いた。すると美里は答えた。


 「仲良いというか、咲人くんとはちょっと話すことがあるだけだよ」


 「咲人くん」と名前で呼んでいることが気に障った。僕は昔から「和泉くん」で、「碧くん」と呼ばれたことは一度もない。下の名前で呼ぶほど仲が良いと言うことなのか。なんだか胸の奥が痛い。変な気持ちだった。


 「あっそ」


 何に対しての反発心なのか、そっけない返事をした。


 「そういえば、あのちゃんとしたいって話、何?」


 僕のその言葉を聞き、美里はスラスラ書いていた絵の手を止めた。


 「それは、もう少し待ってて」
 「…わかった、けどあれから結構気になってるよ」


 そう言うと、美里は小さい声で、「うん、ごめん」と言った。この時の僕の考えはかなり浅かったと思う。もしかしたら告白されるかもなんて思ってもいた。ちゃんとしたいって男が結婚を決断する時みたいな言い方だし、もしかしたら、ちゃんと気持ち言いたいってことかもしれないと、微かに思っていた。美里は僕にしか見せない顔があったしし、二人の時間はとても楽しそうだった。美里も自分を好いてくれているのではいかと思うのも無理はなかった。周りには興味がないとあしらっている僕でも、好きな子に対しては別だった。触れたいとも思うし、春樹が言っていた、「色んなことしたい」と言う感情も、美里に対しては持ち合わせていた。彼女に再会して、彼女に会うまでに少しも抱いていなかった不純な感情も芽生えていた。だからこそ、咲人と話す姿が気に食わない。自分とだけ話していればいいと思う感情。自分で重たい感情だと気がついたのは「ちゃんとしたい」彼女にそう言われた頃くらいだった気がする。

 それから数日が経った朝、美里から『放課後屋上に来てほしい』とメールが入った。教室で「何かあんの?」と聞いても、「後でね」としか言われなかった。
 夕陽のオレンジ色が校舎を照り付けている放課後、屋上へ向かうと美里はもう既に僕を待っていた。


 「ごめん、待たせた」


 そう言うと美里は振り向き微笑んだ。妙な感じだった。そして言った。


 「ここからの景色、あの山からの景色とはちょっと違うけど、私結構好きなんだよね」


 驚いた。昔一緒に山に登って街を見下ろしたこと、もう忘れてしまっていると思っていたからだ。


 「確かにあの山からの景色は、俺調べだと、ここら辺で一番の絶景だからな〜」


 僕は必死にニヤけ顔を隠しながら会話をした。


 「夕陽、綺麗だね」 


 そう話す美里の言葉に、


 「うん、綺麗だね」


 美里の顔を見ながらそう答えた。美里の白い肌が夕陽に照らされオレンジ色に光っていた。あの日、美術室で四年ぶりに話した日のことを思い出した。
 それから妙に静かな時間が流れた。夕陽が二人を照り付け、世界に二人だけしかいないような感覚になった。僕はもし、今告白をされるとしたら、そこは男である自分から言いたいと思っていた。「あのさ」と言おうと息を吸った時、美里が口を開いた。


「和泉くんはさ、自分のことどれだけわかってる?」


 予想外のこの言葉が、どれだけ重いものなのか。僕はすぐに感じ取った。自分のこと…そんなもの自分が一番よく分かっているに違いない。僕の場合だと、美里を思う気持ちは自分が一番理解している。そう言う意味ではないのだろうか。そんなことを頭の中で考えていると、美里は言った。


 「私は、私のことが一番分かんない。自分のことは自分が一番良く分かってるってよく言うけど、私は違う。和泉くんの事とか、みんなが何考えてるのか感じ取れても、肝心な私自身の事は何も分からない」
        
   
 「そうなんだ」と軽い相槌がなぜが打てなかった。その僕に気がついているのか、美里は話を続けた。


 「ちゃんとしたいって言ったのに待たせてごめんね」
 「あっ…うん」


 待っていた話が来たのに、なぜか僕はその先を聞くのが怖くなっていて、さっきまで告白なのではないかと浮かれていた自分をぶん殴りたい気持ちだいっぱいだった。


 「ちゃんと、聞いてほしいことがあったの。もしかしたら、迷惑かけちゃうかもしれないし、私を嫌いになっちゃうと思うんだけど、それでももう和泉くんには隠せない」


 そう話す美里の手が震えていることが分かった。僕はあの作文で感じた「違和感」の答え合わせの時間だと思った。そして、今目の目にいる美里がどれだけ悩んで決断したことなのか、手の震えで痛いほど伝わってきた。何を打ち明けられるのかなんて予想がつかない。それでも、美里の震えている手をそっと自分の手のひらで包み込んだ。


 「大丈夫。大丈夫だよ。俺は美里の味方だから」


 僕の言葉に美里は静かに頷き、そして言った。


「あの日、あの四年前の火事。私のせいなんだ」
「私が、火をつけたの」


 美里の言葉に、僕は酷く動揺し、そして恐怖を抱いた。それはきっと、目の前にいる彼女が昔から知っている美里に、突如として見えなくなったからだと思う。
冷たい目。妙に白い肌。風が吹き見えたピアス。髪の隙間から見える茶色い髪の毛。初めに違和感を覚えた身長と雰囲気。



『こいつ…誰だ…』



 僕のその思いは言葉にならなかった。彼女と目が合っているとどうやら思い通りにいかないらしい。
 息が詰まるような感覚に陥り、僕はしばらくそこに立ち尽くした。