あれから2年が経ち僕らは高校生になった。栞は父親の仕事の関係で海外に引っ越して、正直昔からずっと一緒にいた妹みたいな栞がいなくなるのは寂しかったけど、親戚であるからこそ一年で全く会えないと言うわけではないから比較的自然と別れを乗り越えることができた。僕よりも栞が泣き叫び、連絡が取りたいと言った栞のわがままで、携帯電話を買ってもらえた。それからしつこいくらいに電話やメールが来る。面倒くさいと思う時もあるけど、クスッと笑える時もあった。その度に、僕は美里のことを思い出していた。美里はこうやって笑えているだろうかと。三人で遊んでいた日のことを忘れる日はなかった。

 高校2年の冬、ここ2年で急激に伸びた身長のせいで骨がいたい。中学の頃は小さいと周りに馬鹿にされたこともあったけれど、やっと大人になれた気がして嬉しく思う。僕はすっかり男の遊びをするようになり、サッカーをしたり放課後にカラオケに行ったり、時々他校の女子たちと一緒に遊んだ。友達も多い方で、比較的クラスの中心でもある存在だ。今年の体育祭では女子達からの黄色い声援を浴び、バレンタインでは抱えきれないほどのチョコを貰った。「好きです」と告白されたりもした。別に嫌いではなかったけれど、美里に抱いていた程の気持ちになる人は誰一人としていなかった。


 「お前モテんのになんで付き合わんの?もっとさ、女子と触れ合いたいとか色んなことしてぇー!ってなんねーの?」


 高校二年生の研修旅行の夜、男達で集まって話していた時にそう言われた。そうは言われてもあまりピンとこないのが本音だった。


 「本気で好きな子としかそうゆうのしたいと思わんやん」


 そう真面目に答えた僕に突っかかったのは野球部の加藤春樹だった。


 「重!お前重!別にいいんだよ、ちょっといいなと思う女の子と付き合ってみろよな。そうしたら意外と碧も『欲』出てくるぞ〜」


 そう話す春樹の頭を叩くのが、野球部のエース谷川駿。


 「お前が上から言うな!ついこないだ美香ちゃんと手繋いだだけで顔真っ赤にしてた奴が言える立場か!」
 「ちっ!お前はいいよなもう付き合って一年の可愛い美里がいてよ〜しかも歳上!欲張りかよ!」
 「うるせーな」


 色恋に溺れる年頃。周りには浮ついた奴らしかいなかった。恋愛をしていないと死ぬみたいに、どこもかしこも浮ついた匂いばかりしている。
 そんな周りの奴らを鬱陶しく思っていた僕にも、運命が傾き始めたのは高三の春。女の転校生が来るとみんなを騒つかせた正体は、七瀬美里だった。
 担任と一緒に教室に入ってくる姿を、みんなが見つめた。風なんてないのに髪がフワッと靡かれているようだった。


 「七瀬美里です。よろしくお願いします」


 軽く会釈をする美里とふと目が合ってしまった。僕は無意識に目を逸らし、顔を窓に向けた。勿論心の中では、感じ悪かったかな、しまったやってしまった、そんな後悔の言葉が並んだが、目を合わせたのはほんの一秒もなかったにも関わらず、僕の心臓は音を立てて鳴っていた。


 「七瀬さんごめんね、とりあえずこの前の席でもいいかい?」


 担任が今怪我で長期入院をしている子の席を指差した。


 「大丈夫です」


 美里はそう返事をして静かに座った。クラスの子たちはそんな美里を見てざわついた。僕が住んでいる田舎には高校の数が少なく、地元に残った人は大抵同じ高校に入学した。そして僕のクラスにも美里の事情を知っている人がいて、また隣町出身で全く事情の知らない人もいた。美里と同じ小学校で知っている人は大いに驚いた。細かい事情は知らなくても、急にいなくなったという印象だけがついている美里は一気に注目の的になり、休み時間みんなに囲まれていた。全く知らない人も、美人が転校してきたんだから気になって当然だった。
 僕もみんなのように聞きたい事が沢山あった。あれからどこにいた?友達はいたのか?笑って過ごせれていたのか?会えたら聞こうと思っていた事も、実際会ってみると何も出てこないどころか、不甲斐ないくらい身動きすら取れなかった。それはきっと、昔とはどこか違って感じる美里の雰囲気が僕をそうさせていた気がする。


 「おい碧、あの子めちゃくちゃ可愛いじゃん。てか綺麗、美人!って感じだな」


 春樹がそう声をかけてきた。僕が普段仲良くしている奴らのほとんどは隣町の子で、美里のことを知りたがるのも無理はなかった。


 「ああ、そうだな」


 美里を見ると、顔こそあまり変わっていなかったが、なんだか雰囲気が違って感じた。昔の可愛かった笑顔もどこか引き攣っているように見えたし、穏やかな雰囲気もどこか凛としていて冷たさすら感じた。人より白い肌の色や、綺麗な黒髪はそのまま。強いて言えば、身長が伸びて前髪が無くなったくらいだ。より大人に見える要因な気がする。僕はなんだか、中身がすっぽり入れ替わったような、そんな感情に苛まれた。
 

 美里も僕に気がついているのかいないのか、よく分からなかった。転校してきた日に目が合った以来、何もないし話してすらいない。休み時間になると美里は鞄からヘッドホンを取り出し耳につけ、周りからの声を遮断しているようだった。そんな美里は話しかけたくてもかけづらい、そんなオーラを放っていて、勿論僕以外の子もそう感じていた。席も遠かったからか、同じクラスなのにも関わらず、久しぶりに話すのに一週間がかかった。この時の僕はいくじなしの子供で、どう話しかけていいのか分からない。もし忘れられていたらどうしよう。そんなことばかり考えていた。
 あれは美術準備室で絵を描いている時だった。美術の先生は栞の歳の離れた兄の神崎洋平で、すなわち僕の従兄弟だった。僕は洋平を洋ちゃんと呼ぶくらいに慕っていて、洋ちゃんは昔から絵が上手く、美術の先生になったのも納得だった。


 「碧、ちょっと職員室行ってくるわ〜」
 「はーい」


 高校に入学してから、美術部の幽霊部員として所属している僕は、たまに訪れては準備室の方で一人で絵を描いていた。洋ちゃんがいるからか、誰も入ってこない静かな空間だからか、そこが唯一僕にとって落ち着く場所だった。
 ガラッと美術室の扉が開いた音がした。誰か来たのかと繋がっている扉を開けると、そこには美里が立っていた。夕日が差し込み、白い肌がオレンジに光って見えた。そこにいる美里はやはり昔の美里ではなく、むしろ「七瀬さん」と呼ぶべきなのではないかと思うくらいに、凛としていた。


 「和泉くん…」


 久しぶりに名前を呼ばれて、全身の毛が逆立つような感覚になった。


 「おう、久しぶり…」


 何を話していいか分からない。どうしていいか分からない。頭が混乱して、目眩すら覚える。


 「な、なんの用?」


 咄嗟に出た言葉は思ったより棘があった。


 「美術部、入りたいと思って…」
 「そっか、今洋ちゃ、じゃなくて、神崎先生いなくて…あ、紙。入部届の紙場所分かる、待ってて!」


 僕は急いで準備室の書類が入っている棚を開け、白紙の入部届を持って美里に渡した。


 「今ここで書いてもいい?」


 そう話す彼女に急いで机にある鉛筆を渡した。椅子に座り鉛筆を走らせる彼女の姿を僕は見つめた。高校生になってから同級生の女子達は妙に色気付きはじめ、校則が緩いうちの学校には化粧をしている女子生徒がほとんどだった。髪の毛も妙にふわふわしていたり。髪飾りをつけている人もいた。そんな中、美里は真っ直ぐ綺麗な黒髪に化粧っ気も全くない。少し大人びた顔つきにはなったものの、あの頃のままだった。彼女の伏せ目が碧にはとても色っぽく感じた。


 「あれからどこにいた?」


 思わず言葉が出てしまった。少しびっくりした表情で手を止め顔を上げた彼女は、僕の顔を見るなり目線を下に戻しながら言った。


 「お父さんの親戚のお家」
 「そっか。元気そうでよかった」
 「…和泉くんは、ちょっと顔が大人っぽくなったね」
 「そうか?俺なんかなんも変わってないよ。七瀬こそ大人になってるよ…」


 『美里』と昔のように呼びたいのに、なんだかむず痒くて出てこなかった。


 「まだまだ子供だけどね。…和泉くん美術部なの?」
 「んーまあ一応?でも幽霊部員。来たり来なかったり。洋ちゃ…じゃなくて神崎先生俺の従兄弟だから、部活迷ってて最終的に落ち着いたって感じ」
 「神崎…ってことは栞ちゃんのお兄さん?」
 「そうそう、てか栞にも伝えてあげないとだ、七瀬のこと」
 「…心配かけたよねごめんね」


 そう話す彼女が小さい子供に見えて、今にも泣き出しそうな声をしていたことには、僕は気づいていないふりをした。


 「いや!まあ勿論、心配はした。でもまたこうやって会えたんだし、俺はそれだけで十分だよ」


 今の彼女と目がしっかり合ったのはこの時は初めてだったかもしれない。


 「和泉くん、変わってないね」


 そう僕に向かって言い、何かが外れたみたいに、にっこり笑う彼女の笑顔が、昔僕が好きだった彼女の笑顔と重なった。でも、彼女の生きた現実がそうさせたのであろう。あの時の笑顔とはやはり少し違って見えた。
 その夜、僕は栞に電話をした。


 「もう、何の用?こっち深夜なんだけど…」


 あくびをしながら出た栞の声に、どこか安心した気持ちになった。


 「美里、七瀬美里。うちの学校に転校してきた」
 「え?」
 「びっくりだろ?今日話したけど、なんか綺麗になっててさ〜○年でそんなに変わるか?って感じだったわ〜」
 「…」
 「栞?」
 「ああ、ごめんちょっと眠くて頭が回ってないみたい」
 「あーごめんごめん、栞にはちゃんと知らせとこうと思ってさ、お前ら仲良かっただろ?」
 「うん、まあね」
 「だろ?栞がこっち戻ってきた時、また三人で遊ぼうぜ昔みたいに」
 「…そうだね。今日はとりあえずもう寝ていい?明日朝早いの」
 「ああ、ごめん。じゃあな」


 想像していたよりも喜んだ感じはしなかった栞の声に違和感を覚えたけれど、深夜に電話をしたと言うこともあり、そこまで気には留めなかった。それよりも僕は、美里のことで頭がいっぱいだった。
 次の日、滅多に行かない美術部の部活に顔を出した。理由は勿論…


 「おはよう、七瀬」
 「おはよう、和泉くん」


 二人の姿を見ていた洋ちゃんが、


 「おー、碧が来るなんて!しかも朝練に!珍しいね〜」


 にやついた顔をしながら、歩いてきたので僕は手で、あっちにいけとあしらった。そんな姿をクスクスと彼女は笑った。


 「仲良いんだね先生と」
 「まあ。一応いとこなんで」


 なんだか分からない、ホッとした気持ちになった。昔みたいに仲良くやっていける気がして、心から安心している気がした。
 確かに、昔の彼女とはやはり何処か違って、でもどこかは同じで。人間は経験で変わっていく生き物だし、昔のままで居続けてほしいなんて虫がいい話な気がする。僕は、昔とは少し違う彼女も昔のままの彼女も、彼女の全てが自分の全てで、それだけは昔も今も変わっていない気がした。まるで一目惚れをしたあの小学一年生の時の自分をもう一度繰り返すかのように、僕は彼女を今もまっすぐ見つめていた。
 しばらくして、彼女が作文のコンクールで金賞を取った。いつの間に書いていたのだろうか。なんだか自分の知らない彼女がいることに、僕は少し寂しさを覚えた。


 「聞いたよ、明日発表なんだって?」
 「うん、断ったんだけど、どうしてもって先生が言うから…」


 恥ずかしそうにそう答えた彼女は、少し緊張しているようでもあった。


 「大丈夫!もし噛んだりしたら俺が全力で笑いに変えてやるよ!」


 そう言う僕に対して、


 「やだ〜、ますます変な空気になりそうじゃん!」


 笑ってそう返してきた。再会した頃より二人の距離は縮まっていて、彼女は僕の前だけではよく笑うようになった。