––––十五年前


僕には昔から好きな人がいた。習字教室に一緒に通っていた七瀬美里。美里はまるで百合の花のようで、肌の色が白く綺麗な長い黒髪が魅力的な子だった。気さくな性格は女子からはもちろん、男子からも人気な子で、男子特有の好きな子には意地悪をしてしまう、みたいなことの標的によくなっていた。

 僕と美里と、僕のいとこの神崎栞は同い年で、よく三人で遊んでいた。男一人と女二人。僕はいつも女の子の遊びを仕方なく一緒にやった。お絵描きとか折り紙とか。本当は外でサッカーとかしたかった。けど、美里が好きな遊びだったから、仕方なく一緒にやっていた。栞は母親同士が姉妹で家も近く、自然と僕らは一緒に育ってきた。何かと手がかかる栞は僕とっては妹みたいな存在だった。
 美里はとても笑顔が可愛くて、僕を一瞬で虜にさせた。小学一年生の頃に出会い、一目惚れをした。僕の初恋だ。どうにかきっかけを作りたくて、お母さんに頼み込んで美里が通っている習字教室に通わせてもらった。いつも栞が隣にいる当時の僕にとっては、その習字教室が唯一、美里と二人になれる時間だった。
 お父さんがお母さんにしているみたいに、美里と二人で歩く時は車道側を歩いた。帰りは絶対に家の前まで送った。たまにだけど、習字教室をサボって山に登ったり公園で遊んだ。「小学生だけで山に登るのはいけません」と、お母さんにたくさん怒られたけど、山から見れる景色をどうしても美里に見せたかった。自分は周りの男の子たちと違って年齢の割にませていると、大いに自覚していた。美里の笑顔を見ていたい。あの頃の僕の行動はただそれだけのこと故だった。

 小学二年生から通い始めた習字教室。四年目に差し掛かったくらいから、美里は突然習字教室に来なくなった。小学校にもあまり姿を見せなくなった。栞と二人で何度もお家に行ったけど、母親が出てくるだけで美里とは会えなかった。この時から美里の家族のよくない噂が町中と飛び交うようになった。
 どこから始まったのか分からない。誰が言い出したのか分からない。美里が学校にあまり来なくなってから色んなありもしない噂が流れた。


「七瀬さんとこの旦那さん、浮気してるみたいよ」
「奥さんあれはかなり精神やられてるわね」


 ゴミ出しで見かけた美里のお母さんの様子が変だったとかで噂は一気に広まっていった。人間は他人の不幸が大好物なんだと、その時学び、自分もいつかそうなるのかもしれないと思うと、幼かった僕はこれから大人になっていくのが少し怖く思った。
 それからたまに学校に来る美里は夏でも長袖を着るようになった。これまたおばさんたちが、

「日曜日になると子供の泣き声がする」

 そう噂をしていたのを耳にした事があった。初めて聞いた時は、またどうせ噂だと思っていたけれど、蒸し暑い日に長袖を着ていて、プールがある日に学校を休むようになった美里を見て、噂ではなく真実だと思った。


 「美里、栞と一緒に放課後僕の家で遊ぼ」


 いつもなら喜んだ顔をして「いく!」と即答するはずなのに、


 「お母さんに真っ直ぐおうちに帰ってきなさいって言われてるからごめんね」


 美里は名残惜しそうな顔をして帰っていった。その時には変な噂が回って、前までちょっかいをかけていた男の子や仲良くしていた女の子達は美里の周りにいなくなっていた。きっとみんな両親から関わるなとか言われていたんだろう。
 僕は美里が家庭内暴力を受けていると疑った。それもきっと日曜日だけ。日曜日には美里のお父さんはゴルフに出かける。きっとその隙を狙っていたんだろうと思った。
 その日のうちに僕はお母さんに相談した。そうしたら「よそのお家の事情に口を出すんじゃありません」と怒った。「お父さんに迷惑をかけるんじゃないわよ」と念を押すように言った。これはお母さんの口癖だった。刑事課長を務めているお父さんには、守らなければならない地位と名誉があった。それを陰で支えるのがお母さんの仕事。口癖を言葉にしているお母さんはいつも怖かった。僕に語りかけているはずなのにどこか目が合っていないようにも思えた。

 最初は心配をしていた栞も「あまり関わらない方がいいんじゃないか」そう言うようになった。「私達には何もできないでしょ」そう言われて、確かに何もできていない自分に虚しさを覚えたのに、それから僕は結局何もできなかった。小6の2月、たまたま僕の家の前にいる美里を見かけた。その日も美里は学校に来ていなかったのにどうしてこんなところにいるんだろうと思った。


「美里?」
「あ、和泉くん…」


僕の声に振り返った美里の顔は少しだけ痩せこけて見えた。もしかして助けを求めに来たんじゃないかと咄嗟に思った。


「美里…あのさ」
「ごめん!帰る!またね」
「え、おい!」


何かを隠すように洋服のポケットに手を入れて足早に行ってしまった。この時僕は、「何もできない」と言う言葉が頭を巡り、小さな背中を追いかけれなかった。


中学生になり、美里が普通に学校に来るようになって安心した。もう平気なんだと勝手に思い、いつも通りの昔のような日常が戻った。思い切って昔みたいに「一緒に帰ろう!」と話しかけたら、「いいよ」と返事をもらえた。その帰り道の途中で、僕らは一緒に菜の花畑を見た。色々口実をつけて遠回りした甲斐があった日だった。


「こんな近くにこんなところあったんだな〜!」
「だね!ちょっと遠回りして正解だったかも!目に焼き付けとこっと」
「なんだよそれ、また来たら良いじゃん!ほら栞とかとさ!」
「そうだね…!近いもんね!」
「そうそう、いや〜にしても綺麗だな〜」
「ほんと、綺麗―…」
 

名残惜しさをグッと堪えて、次に一緒にここへ来た時は、告白をしよう、なんて考えた。この日は絶好の告白スポットを知れた日にもなった。
それから益々美里たちが恋愛の話をしている時は物凄く気になって、男友達の会話なんて何一つ頭に入ってこなかった。美里は好きな人とかいるんだろうか。「告白」と言うものを意識し始めてから、僕はずっとそわそわしていた。
 女子同士でキャッキャと声を出してはしゃいでいる美里を見れて嬉しかった。掃除の時間に一緒にサボって先生に怒られたけど、それも昔みたいで楽しかった。体育だってあんなに楽しそうにしている。プールだって今はもう休んでいない。よかったと心から思っていたのに、あの事件が起きた。その日は秋なのに一段と寒くてよく覚えている。



 『十月八日 午後八時四十分頃。岐阜県○○市のアパートの一室が燃えていると通報がありました。火は消し止められましたが、現場にいた夫婦と思われる女性と男性はすでに死亡が確認されており、娘と思われる女子中学生は未だ意識がない状態です。警察は現場の状況から見て事故、または自殺と見て捜査を続けています。』



 その日は美里が体調不良で学校を休んでいて、つまらない1日だった。学校から帰って、体育でたくさん動いた僕は疲れて眠ってしまい、そしてパトカーの音で目が覚めた。嫌な目覚めだった。なんとも言えない胸騒ぎがした。リビングに行くと両親がニュースを真剣な眼差しで見ていた。


「碧、美里ちゃんとこ、火事だって。美里ちゃん、意識がないってさ」


 頭が真っ白になった。何がどうなっているのか分からなかった。美里がなんだって…?と数秒程立ち止まってしまったが、僕は意外と直ぐに今起きている出来事を理解した。そしてあんなに関わるなと言っていたお母さんが、手のひらを返し心配している表情を目の前にし、無性に腹が立った。急いで家を出ようとすると、お父さんが声を荒らげた。


「碧!どこに行くんだ」
「決まってんじゃん!美里のとこだよ」
「やめておけ。お前が行っても何もできない。父さんたち大人に任せておけばいいんだ」


 確かに13歳だった僕はまだまだ子供だった。好きな子が助けを求めていても、何もしてやることはできない。時間を戻して火事をなかった事にも出来ないし、意識がない美里を助けることもできない。美里の身に起こっている事を知っていたのに勝手に安心していた自分に腹がたった。声を荒らげる両親を差し置いて僕は勢いよく玄関を飛び出した。
 美里の部屋であろう一室から煙が出ているのが見えた。パトカーや消防車がアパートの前に止まっていて、その前には街の人が集まっていた。あの時色んな噂を楽しそうに話していた人達もその中にいた。心配そうな顔をしていて、思わず拳に力が入った。


 「碧…!」


 後ろから栞の声が聞こえた。栞も慌てて走ってきたんだろう。僕の隣で足を止めた栞の息遣いが荒く、肩で息を吸っているのが分かった。栞は僕の握っている拳をそっと包んでくれた。気がついたら涙が流れていて、何もできない自分に僕は一番怒りを覚えていた。二人でただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 次の日から美里は全く姿を現さなくなった。意識は戻ったと先生から伝えられ、てっきりすぐ学校に来ると思っていたのに、美里は来なかった。美里のマンションに行っても、警察のテープが貼られていて近づくこともできなかった。別にそこに美里がいるわけでもないのに、どうしてか何度も栞とそこを訪れた。


 「ここに住んでた女の子は今どこにいるんですか」


 すれ違った警察に聞いても、


 「個人情報だからあまり話せないのごめんね、お友達だった?」


 そう子供相手に話すような口調であしらわれた。
 そして次の年から、名簿に美里の名前が載ることはなかった。先生に何度もしつこく問い詰め、転校したと聞いたときは流石に腰が抜けた。生きてさえくれれば、どこかで笑っていてくれれば、それでいいと思った。自分で何かしてあげるにはまだ幼かった僕は、幸せを願うことしか当時はできなかった。