ニルダとフィルベルトはダルドの高台にある教会の前にいる。祈りに来たわけではなく、ただ景色を眺めに来たのだった。
 広がる海の青にニルダは思わず歓声を上げ、フィルベルトが嬉しそうにそれを見つめる。

「こんなに高い所から海を見下ろすなんて初めて。ねえフィル、向こうに船がいる!」

 ニルダが指さす帆船は、ダルドの港に来るのだろうか。どこか遠くまで航海するのだろうか。
 丘からは港も見渡せた。桟橋から少し離れた所には、五角形の要塞も築かれて海ににらみをきかせている。ここは重要な貿易拠点であり、東の異教徒の国への防衛拠点でもあった。


 朝食を済ませたニルダの今日の予定はフィルベルトとのデートだった。ドゥランとリクはそれぞれに街で調査を進める。
 フィルベルトに誘われて、遊んでいていいものかとニルダは迷った。だがダルドの街をあまり知らないのは事実だし、せっかくなら案内してもらうのも悪くないと思い直す。
 そして馬車で迎えに来たフィルベルトが連れ出してくれたのが、街を一望するこの丘だった。

 海に突き出す角のような形の岬の上。
 この教会の他にも領主ヴィンツェンツィ侯爵の館と、近隣を治める貴族達の邸が建ち並んでいる。ルチェッタが時折訪れる奥方たちのサロンもその辺りで開かれるのだろう。
 うねうねとした坂を下れば、港の近くにはニルダも泊まった宿屋街。そして店や工房も軒をつらねていた。海岸から離れるにつれ街はごちゃごちゃとした下町の風情に変わっていく。

 景色を堪能してから、この後どこに行きたいかとフィルベルトは尋ねた。
 何だか頼れる雰囲気。ここがニルダの知らない場所だからそう感じるのだろうか。ニルダはうーん、と首をかしげ、ねだった。

「街を見てみたいな」
「やっぱり?」

 クス、とフィルベルトが笑う。館に招かれてみたい、などと言うニルダではないのはわかっていた。気楽に店をのぞき、流行りを探り――商売の種を見つける気だろう。
 うなずくとフィルベルトはそっとニルダの背に手を添えて、馬車に戻った。


 ***


 ニルダたちは街の中心に入る前に馬車を降りた。歩いてあちこち見てみたい。
 馭者と馬車を待たせておいて、護衛騎士だけを伴った二人は手工芸工房や飲食店が並ぶ通りに足を踏み入れた。

 ところで護衛のベトは、ニルダがアレッシオと婚約していることを知っている。
 少女が詰所にアレッシオを訪ねてきたことは騎士団で噂になったし、当人はそれが婚約者だと素直に話したからだ。相手のことは知らなかったが、旅の見送りに駆けつけ手を握る様子を見れば合点する。
 フィルベルトが楽しそうにニルダを案内する姿を後ろから眺め、こりゃどうなるんだとニヤニヤしているのだった。


「毛織物の質がアデルモより良い!」

 ニルダの方はすっかり仕事の頭になっていた。工房の中をのぞきたくて仕方ない。
 貿易港がある分良質な原毛が手に入りやすいのか。それに織職の水準も高いのだろう。小売りじゃなく仕入れの値段交渉をしたい衝動に駆られるが、フィルベルトそっちのけで駄目だろうか。
 未練がましく織物を見ているニルダを横目に、フィルベルトは隣の店に目を留めた。
 美しい組紐。ニルダに似合いそうだ。
 買おうかどうしようか気にしていると、さりげなくベトがニルダとの間に入った。チラリと目配せされて、フィルベルトは目を見開き――うなずいたのだった。



「あのね、訪ねたい店があるんだけど」

 再び歩き出してニルダは声をひそめた。ベトに聞こえないように耳打ちされて、フィルベルトはドキドキした。近い。

「この間の絵の依頼、仲介屋はダルドの人なの。住所があれば、行けるかな」
「あの、司祭様の時の?」

 人気画家に似せた絵を描いてもらった件だ。ニルダはふふ、と笑う。

「そういう怪しげな仕事をしてる人の方が、上手いけど売れない絵描きなんて知っていそうでしょ」

 やっぱり当初の目的は気になるのか。フィルベルトは少し落胆し、わざと冷たい顔をしてみせた。

「僕といるのに、仕事をする気なの」
「仕事じゃないってば。私が婚約破棄するためだもん。フィルは私にアレッシオ様と結婚しろって言うの?」

 そう言われてしまうとフィルベルトは反論できなかった。

 仲介屋があるという通りには道行く人に訊いてたどり着いた。ベトには離れて待っていてほしかったのだが、そこは頑として譲らずについて来る。
 そりゃそうか、それが護衛だもんね。ニルダは心で舌打ちするが、ベトがいるからお目付け役のリクもニルダから離れて調査に出ているのだ。
 まあ何の店なのかは明かさずに、外にいてもらうようにすればいい。

 訪ねあてた仲介屋は、どうやら表向き美術工房で使う道具類を売っているようだった。いや、むしろそれが本業か。
 道に向けて開かれた窓から中がうかがえ、一見するとただの画材屋だ。並ぶ筆、(こて)、木の板、漆喰、(のみ)
 だがその裏で、芸術に燃えつつくすぶっている連中の意欲を搾取しているのだ。そんな相手はいくらでも界隈にいるはずだった。

「こんにちは」

 ニルダは堂々と戸を開けて中に入った。フィルベルトも隣に立つ。
 店主は胡散臭そうにこちらをにらんだ。小綺麗な少年少女の客など、この店には普通来ない。

「先日良い仕事をしていただいたので、ご挨拶に寄ったの。アデルモのエドモンド・マビリオーニの紹介で依頼した、ペンデンテという者だけど」

 店主はキュッと眉を寄せて考え、すぐに合点がいったようだ。小馬鹿にしたように笑う。

「――ああ。女の名だとは思ったが、本当に女なのか。しかもこんなお嬢ちゃんだとは思わなかった。ご本人かい?」

 ニルダはうなずきながら、こいつは話す価値のない男だな、と判断した。女子供だからといって軽く見、あなどるような姿勢ではどんな商機を逃すか知れない。

「あなた、ベンヴォリオ・リージという画家を知っている?」

 必要なことだけを尋ねてさっさと帰ろうと思ったのだが、店主は顔色を変えた。

「おい、仕事を頼むんだったらウチを通せよ。さもなきゃこっちにも考えがあるぞ」
「は?」

 何やら脅すような言い方をされてニルダはムッとした。横のフィルベルトは内心おろおろして焦り始める。ニルダの空気が喧嘩腰に変わったからだ。外に護衛がいて正解だったかもしれない。

「別にリージに仕事を頼もうなんて言ってないでしょ」
「前の仕事が気に入ったんだろう? 別のを描かせるにも俺の斡旋じゃなきゃ、やらせねえぞ」

 どうも話が通じない。前の仕事?

「――私が依頼したのは、アントニオ・ジョバーノに似た作風の、A.Giovane のサインがある絵よ」
「だからそれを描いたのがベンヴォリオじゃねえか」

 え。
 意外な事実にニルダは目を見開いた。あれの作者が、探していたベンヴォリオ・リージ?

 ランザ男爵家の財務乗っ取り疑惑の男、マルツェロ・リージ。その父親のベンヴォリオ。彼とニルダは奇妙なところですでにつながっていたのだった。