「最悪だ……」

 高校一年生・二月。
 期末テストが終わって家の手伝いももう少し休んでて良いよとのことで、さあしばらくは恋愛に現を抜かすぞ、と意気込んで年上の彼氏とのドライブデートに臨んだところ──全く知らない土地で、ぼくは置き去りを食らった。

 「あっ、ああっ……」

 さっきまで乗っていた車は戸惑うぼくを後目にぐんぐん加速していき、ついには見えなくなってしまった。『自分で帰りな』と言ったのは脅しやかまかけじゃなかったんだろう。

 「どっ、どうしよ……ハックショイ!!」

 短いひとりごとすら自分のくしゃみに遮られるし、暖かい車内から降りたばかりなのにもう全身から温度が奪われていく感覚がするくらい寒い。とりあえず片手に持ったままだったマフラーを首にしっかり巻き付けて、肩に軽く引っ掛けたボディーバッグをまさぐる。

 「あった、スマホ……」

 これでお母さんかお父さんを呼べば迎えに来てくれるはず……ところでここどこだ……と希望(と少しの心配)を持ってホームボタンを押して起動した──瞬間に、ブツッと画面が弾けるように消えた。

 「じゅ、充電切れ……!?」

 誰だ、ドライブデートに浮かれてばかみたいに写真撮りまくったの。……ぼくだよ。物言わぬ板と化したそれをバッグの内ポケットに押し込んで、続けて何か使えそうな物はないかと探してみる。

 ──財布はある。中身も、相手に運転してもらう代わりにガソリン代くらいは出そうと預金を降ろしてきたのでいつもより多いくらいだ。だけど目に見える範囲には、駅もバス停も公衆電話もない。
 ──あと軽食として彼に食べてもらおうと思って握ってきたおにぎりがふたつ。……『今はおにぎりの気分じゃない』と秒で突き返されたけど。
 ──それと、ミニタオルとポケットティッシュと小さいポリ袋──……今すぐこの状況から抜け出せそうなものは見当たらない。
 ──こうなったら、走ってきた車に助けを求めて公衆電話があるところまで送ってもらう?え、そういえば、さっきからここ全然車通らないんだけど!?

 何も余計なことは言わずに助手席に座って景色でも眺めていればこんなことにはならなかった?いやだって、窓から煙草の吸殻捨てたのを咎めただけで降ろされるとは思わないじゃないか!ああそうそう、吸殻拾っておかないと……。

 「──うおわっ!?」

 僕が立っているのと反対側の車線の隅に落ちていた彼が投げ捨てたと思われる物を拾い上げたと同時に、不意打ちで吹いてきた北風。それから自分を守るように身体を縮めた隙に、ブロロロロ……と音を立てたバイクが今さっきまでぼくがいた側の車線を通り過ぎていく。

 「えっ、まっ、待って……!」

 しまった、完全に助けを求めるタイミングを逃した……!次にいつ車ないしバイクが通りかかるか分かったもんじゃないのに!──と思ったら、そのバイクは左にウインカーを出して道路脇に取られた駐車場のようなスペースに入るとエンジン音が止んだ。
 
 「あっ……」
 
 ──あのバイク、もしかしてぼくを見て止まってくれた?

 いやでも、こんな人気のない道だし金目のものだけ取られて逃げられたらどうしよう。正直バイクって、暴走族みたいなイメージがあって怖いんだよな……。
 
 「──どうかしましたか?」

 だけどバイクを降りてヘルメットを外してからこちらに歩いてきたのは、ぼくの不安とは裏腹に暴走族なんて縁のなさそうな好青年だった。
 
 ──百六十八センチあるぼくより十センチは確実に高い目線。
 ──後ろに軽く流した、耳が隠れるくらいの長さの艶のある黒髪。
 
 イケメンというより美男子と表現した方がしっくりくる整った顔立ちは、ぼくに警戒させないようになのか柔和な笑みを描いている。
 
 ──あれ、この人確か……。

 名前は思い出せないけど、確かにぼくは通ってる高校でこの人を見たことがある。その人と言えばぼくに気づいた様子はなく、ただこんな車やバイクありきの道路でそのどちらにも乗らず立ち往生している奴に対して不思議そうに首を傾げるだけだ。

 「えっと……か、彼氏に置いて行かれて……」

 ──今絶対、彼氏とまでは言わなくて良かった気がする。

 図らずも自分の恋愛対象が同性であると初対面(と、向こうは思っている)の相手にカミングアウトしてしまったけど、その人は“置いて行かれた”という部分に「え」、と反応して

 「こんな寒い中大変だったねぇ」

 と形の良い眉を下げて苦笑いしただけだった。まあ今の時代そういうのに偏見を持つ人は少ないらしいし、この場限りの交流になるであろう奴がゲイだろうと知ったことではないか。

 「スマホは持ってないの?」
 「充電切れちゃって……」
 「ありゃりゃ。あのバイクスマホの充電も出来るようになってるから繋いでおいてあげるよ」
 「!いっ、良いんですか!?」
 「うん」
 「あっ、ありがとうございます!ぜ、ぜひ!!」

 願ってもない申し出にぶんぶんとヘッドバンキングもかくや、というくらいに首を振って頷く。
 
 「あ、でも、充電してる間は……」
 「ここから五キロくらい走ったところに道の駅があるから、そこまで送って行こうか。着く頃には電話できるくらいには充電も溜まってると思うよ」
 「そ、そこまでしてくれるんですか……!?」
 「さすがに道端で困ってる人を放っておけないからね。とりあえずあっちまで付いてきてくれる?」

 そうバイクが停めてある方を指さすその人からは後光が差して見えて、胸の前で両手を組んで祈りを捧げたくなる。初対面だと思ってる得体の知れない奴にそこまでしてくれるとはなんて良い人なんだ。思えば、校内で見かけた時はいつもこんなかんじの人の良い笑顔でお友達や先生と話していた気がする。

 「本当に助かりますっ、な、何かお礼を……」
 「そんなお礼なんて」
 「そんなのぼくの気が済まないです!お金ならあるのでどうか……!!」
 「はは、命乞いみたいだね」
 
 話しながらその人の後ろに付いてバイクの方へ向かう。着ているウェアと同じワインレッドのそれは近くで見ると思ったより大きい。

 「ツーリングしてると助けたり助けられたりは結構ふつうだから本当に気にしなくても──うっ」
 「うわぁっ!?」

 バイクに気を取られていると何かに蹴躓いてしまい、転びそうになるのをなんとか踏みとどまって足元を見ると今まで前を歩いていたその人が蹲っていた。

 「だっ、大丈夫ですか!?」
 「……てた……」
 「えっ?」
 「ご飯……食べるの忘れてた……」
 「──え?」

 救急車の出番はなさそうだとほっ、と息をついたのと同時に、思ってもなかった訴えに聞き返すのとは別の意味のえ?が出てくる。腕時計を見ると午後の四時を少し過ぎていてまあお昼ご飯を食べていても小腹は減るよな、という時間帯ではあるんだけど……。

 「実は十二時くらいに自販機で買ったほうじ茶を飲んで以降何も食べてなくて……」
 「自販機のほうじ茶は食べたとは言いません……!」

 助けてもらうんだから失礼のないようにしたかったけど、項垂れながら自嘲気味にそう言う姿に思わずツッコミを入れてしまう。これは助けてもらうお礼として道の駅に着いたら何か奢……って、この人の様子を見るにそれすらも待てなさそうだ。

 「あっ、じゃあこれを……!」

 ずっと手に持っていた吸殻をポリ袋に片づけてから、バッグの中で帰宅を待つだけになっていたあれを取って差し出す。……お礼、というにはささやか過ぎる気がするけど、今はこれしかないのだから仕方ない。

 「おにぎりです。手作りとか抵抗なければ……」
 「えっ、良いの!?」

 彼にされたみたいにまた突き返されたら立ち直れないな……というのは杞憂だったらしく、その人は「いただきます!」と包みを受け取るとあっという間にふたつ食べきってしまった。

 「ごちそうさまでした。──ありがとう、本当に助かったよ。きみは命の恩人だ」
 「いやそんな、こっちのセリフです!これから乗せてもらうんですし……」

 ごちそうさまでしたと両手を合わせたポーズのまま僕の方へ拝むように頭を下げるその人に両手をぶんぶん振る。ぼくの方が拝みたいくらいなのにこれじゃ逆だ。
 
 「──よし。おいしいおにぎりもご馳走になったし、早くきみを送ってあげないとね。まずはこれ被って」

 バイクの脇に下げてあった鞄から出され『これ』と渡されたのは濃いグレーの色のヘルメット。その人がさっきまで被っていたのとは別の物だ。

 「ヘルメットが二個……?」
 「そのヘルメットこの前に脱いだ時階段から落としちゃってさぁ。安物だったし念のため途中にあったホームセンターで新しいのを買ったんだ」

 バイクに仮置きしていた方のヘルメットを被りながらどこかばつが悪そうに説明してくれるその人になるほど……と頷く。
 
 「……あ、心配だったらこっちの新しいの使う?」
 「そんな滅相もない!!」

 落とした物と言っても頭を剥きだしで乗るのより安全だろうし、恩人を差し置いて新しいものを使うわけにはいかないと、せっかくヘルメットを装着したその人がまた脱いでしまう前にいそいそと渡された物を被った。
 
 「被りました!」
 「そうしたら、僕が前に座るから君は後ろに跨って……そうそう。ステップ出したから足はそこに乗せて、掴まるのは僕の肩か腰ね」
 「肩か腰……」

 肩に手をかけるだけというのはなんとなく心もとない気がして、腰の方に軽く手を回させてもらう。……予想以上に薄いそこにやっぱり肩にしておけば良かったかなと後悔するけど、あまりあちこち触ると不快感を持たせてしまうかもしれないしここでもう腹を決めてしまおう。

 「曲がる時すごく傾くけど君はそのまま動かなくて大丈夫。ただの荷物になったイメージで」
 「はいっ、自分がお荷物な自覚はあります!」
 「力を抜いて座っててねってこと。──発進するよ」

 エンジンがかかりおしりに緩やかな振動が走ってから一拍置いてバイクがゆっくり走り出す。
 
 「わっ……」
 「うまいうまい。その感じで乗っててくれてれば大丈夫だからね」
 「はっ、はい!」

 思いの外容赦のない加速に目の前の背中に縋りつきそうになるけど、『その感じで』と言われた状態をキープしなきゃとぐっと堪えて、代わりに両目を強く瞑った。
 
 ──うう、怖いし寒い!
 ──いつ落ちてもおかしくなさそう!

 ヘルメットの空いたあごの部分や袖の隙間から侵入してきた風は容赦なく身体を叩いてくるし、力を抜いて荷物のつもりでいろと言われても曲がる時に車体が傾くとついそちらの方へ身体を倒してしまいそうになる。さっきまで乗っていた車は暖房が効いていて暑いくらいだったし、助手席からすると運転席はほぼ他人事でうっかりすると寝落ちしてしまいそうなほど心地が良かったのに(絶対に無理だけど万が一ここで寝ようものなら今度は置き去りの比喩じゃなしに物理的に放り出される!)。

 「この辺はたまーにだけど熊の目撃情報が出るんだ。日が落ちる前にきみを見つけられて良かった」
 「くっ……!?」
 
 どうにか力を抜くために頭の中で試行錯誤していた時に聞かされた衝撃の事実に身体が強ばる。というかこの人、そのこと知っててあんなにのんきにおにぎり頬張ってたの……?自分が熊のご飯になってたかもしれないのに!?

 「あれ、怖がれせちゃった?ごめんごめん、きみの緊張を解こうと思ったんだけど」
 「どうして今の話で緊張が解けると思ったんですか……!?」
 
 百歩譲って熊は特殊な例にしても、こんな身一つを車とほぼ同じスピードに晒して、何かあったら無傷で済むわけがない。

 ──助けてもらってなんだけど寒いし危ないし、こんなの良いこと無しじゃないか。
 ──どうしてこの人は、ごはんすら蔑ろにするくらいこんな乗り物に夢中になって──……

 「──ねえ、左!左見て!」

 吹きすさぶ冷たい風に耐えながら心の中でぶつくさ唱えていると、そんな心情とは真逆の弾んだ声が前からかけられる。

 「ひ、左……?」

 ぎゅ、と目を瞑ることでかろうじて恐怖に耐えていたのにそれを開けろだなんて無茶ぶりにも程がある!と心の中のぼくが吠えたけど、いや恩人の言うことは聞くべきだろうと勇気を出して目を開けておそるおそる言われた方を見遣って──

「わあ……!」

 その光景を前に、ぼくは息を飲んだ。
 
 ──夕焼けだ。

 それまで見える景色の大部分を占めていたほぼ赤に近いオレンジ色が、山の連なりに吸い込まれていく。車に乗っていた時も綺麗な景色だとは思っていたけど窓越しで空調も効いていたからか絵や写真を見ているような気持ちで眺めていたものが、三百六十度開けた世界を走っている今ぼく自身もこの風景に刻み込まれている感じがする。
 太陽が沈んでいくほどそれまでぼくを纏っていた空気が引いていって、別の種類のそれに変わるのがよく分かった。

 「すごい……!」
 「綺麗だよね。こう言うさ、写真集みたいな絶景だけど自分もちゃんとその中にいるんだって感覚、僕すごく好きで。……バイクって最初は寒いし怖いし良いことなしだって思うんだけど、たまになら悪くはないでしょ?」
 「うっ……」
 「僕みたいな未成年でもどこにでも連れて行ってくれるしね」

 まるでさっきの自分の心を読まれたようなその人の発言に気まずくなるけど、少しして見えてきた大きめの建物にすぐに意識が引っ張られる。

 「あっ、あれ……!」
 「うん。道の駅、見えてきたね」
 「良かった……!」

 あそこからここまで五キロくらいって聞いた時は歩けなくはないかな……?なんて一瞬思ったけど、このスピードを思うと乗せてもらえて本当に良かった。知らずに闇雲に歩いていたら今ごろ熊に出くわして襲われてたかもと考えるとゾッとする。
 
 「──到着。ここまで来ればもう大丈夫かな」
 「はい……!」
 
 道の駅の駐車場に入って、端の人通りが少なそうなところに降ろしてもらう。ケーブルに繋いでおいてもらったスマホを返され充電を確認すると、お母さんに電話してお迎えをお願い出来るくらいには溜まっていた。
 
 「本当に、ありがとうございました……!なんてお礼を言えば良いか……!!」
 「僕もおにぎりもらったからお互い様だよ」

 ぺこぺこと頭を下げるぼくにひら、と片手を振りながら笑うその人。この余裕ありげな振る舞いにもだいぶ救われた気がする。というかこの人、一年生の棟で見かけるから留年とかしてなければぼくと同じ十六歳なんだよな。人に運転してもらった結果置き去りをくらって路頭に迷ったぼくとは違って、この人は自分でバイクを運転してここまで来て、この後も自分の運転で帰っていくんだろう。

 「かっこいいな……」
 「ん?何か言った?」
 「いっ、いえ何も!」

 うっかり独り言が出ちゃったけど、周りの喧騒やヘルメットに遮られて聞こえなかったらしい。

 「あ、そうだ。ねえ」

 この人はもう出発するんだろうと、走り出しやすいように少し距離を取ってから見送る体勢をとっていると、ちょいちょい、と手招きされる。

 「はい?」

 招かれるままもう一度近づくと、ズイッ、と綺麗な顔が眼前に迫ってくる。お互いヘルメットを被ってなければキスでも出来そうなその距離にそんな、ぼくには三か月前に出来た素敵な彼氏が、今日のことがきっかけで振られるかもしれないけど……!なんて一人であたふたしているところをおかまいなしに
 
 「桐ケ谷くんって、結構ロックなんだねぇ。学校だと煙草吸うイメージなかったよ」
 「えっ……?」
 「じゃあ、また学校でね」
 
 内緒話のように囁かれた、毒気のなさそうな……だけどちょっとからかうような調子のそれの意味が分からないのも一瞬──ボディバッグにしまってある彼氏の投げ捨てた煙草の吸殻の存在を思い出して──

 「──ちがう!!……あっ、ヘルメット!」

 全力で否定の言葉を叫んですぐに借りたヘルメットを被ったままだったことを思い出したけど、さっさと走り出したその背中には届かなかったみたいだった。