平手打ちなんて人にしたのは生まれて初めてかもしれない。七瀬を殴りたい願望はあったものの、いざ殴ってみると凄まじい罪悪感に揺れる。
転校初日、生徒会室で起きた出来事が思い浮かんだ。あの時よりもだいぶ捻れた状況だけれど、依然として共通していたのは……彼が大人しいことだ。
「ごめん。ちょっと落ち着こうぜ」
殴ってから言う台詞としては微妙だと思うけど、今はそれしか言えない。
七瀬は倒れた拍子に、ほとんど智紀の膝に乗る体勢となっていた。それでも構わず、彼が逃げないよう脱力した手を握る。
「チッ……俺は帰らせてもらうよ。あと、本気で何かしようと思ってたわけじゃないから。勘違いしないでね、須賀」
とても白々しく感じるけど、不田澤は解放されたのを良いことに教室から去って行った。
この取り残された感じも、あの時と似ていた。たった二人で過ごすには、教室は広過ぎる。何とも言えない虚しさばかり募っていく。
智紀はため息をついた後、軽く頬を掻いた。
「な、殴ったのはごめん。暴力は駄目だって言いたかったんだけど、結局俺も暴力でお前を止めたから……説得力ないな」
気まずさは最高潮。咳払いして、俯く彼に語りかける。
「あのまま黙って見てたらお前、暴力どころか不田澤のこと絞め殺しそうだったからさ。それはまずいだろ。何にそんな怒ってるのか知らないけど、ちょっと冷静に」
なって、って言おうとしたけど。彼があんまりにも大人しいので、さらに不安になる。
「七瀬? ……え、ごめん。泣いてる?」
「んなわけねーだろ」
「ほんと? でも、ちょっと目赤いぞ」
もう怒りやら戸惑いやらはどこかへ消えて、純粋に七瀬に対する好奇心でいっぱいになっていた。
ちょうど捕まえやすい位置にいるから、彼の両頬を手で挟んで顔を上げさせる。
「あの……怒鳴ってごめん。何かお前、怒鳴られんの嫌いみたいだもんな」
「…………」
怖いぐらい大人しい彼に目を奪われる。
今は何をしても怒らないタイムなのかもしれない。調子に乗って彼の頬を伸ばしたりしてたけど、そこは普通に殴られた。
「痛いわ……でも、これでおあいこだな? これでもう暴力はやめようぜ。これからは話し合いで解決しようタイム」
「ほんと意味わかんない」
俺は精一杯のスマイルを作ったというのに、七瀬は相も変わらずツンとした態度で吐き捨てた。