「弥央、大丈夫?着替え貸すからこっちおいで」

樹が心配そうに弥央の顔を覗く。それは今までとなんら変わらないことなのに、弥央だけが今まで通りにできそうになかった。

「ちょっとだけですし大丈夫です!というかまじすいません、床汚しちゃって…」
「それはいいよ、拭けば元通りなんだし。それより服だよ。染みになるって」
「いやいやいや大丈夫です、本当に…!」

――だって俺ずっと、下手したら何年も?二人の厄介者だったってことだよな…?うわーいたたまれねえ。消えたい…。

「あの俺、今日はもう帰ろうかと…なんか疲れてる?のかも…?」
「え?もう帰っちゃうの?ちょっと別の部屋で休んでてもいいよ?」

――樹さん、相変わらず優し~…でも今はそれがいたたまれない…!!白井さんすいませんほんとに!!

「弥央が帰るなら俺も帰るわ」
「唯織……」

樹は唯織をしばらくの間じっと見つめてから、溜息を一つ吐いて白井を呼び寄せた。

「二人、今日はもう帰るって」
「あ、そうなの?んじゃ送ってくるわ」
「え、いいですよ。タクシーで帰れますから」
「マネが一緒にいんのに、それはまずいだろーが。ほら支度して」

――ああああ、せっかくの二人の時間を、結局俺は邪魔している…すいませんすいません…。

念仏のように心で唱える弥央に、樹が一歩近づいて言った。

「まだしばらくこっちいるから。連絡してよ」

もう弥央は、恐ろしくて顔をあげることができなかった。すぐそばに白井がいるのだ。絶対に聞こえているはずだ。

――大体樹さんだって、ちょっとさ!白井さんの気持ち考えてあげたらいいのに…樹さんにそんな気持ちがなくたって、白井さんは不安だから、さっきみたいな柄にもないことしたんだろ?

「あ、あ、あの……はい。時間があえば…」

満足げに微笑んだ樹を背に、弥央と唯織はリビングへ荷物を取りに行く。唯織も唯織で終始だんまりで、なんだか妙だ。まだそれほど飲んでもないだろうに。

「唯織?大丈夫か?」
「……ん。ちょっとトイレ行ってから行くわ」
「おう」

弥央は自分の鞄と唯織の鞄を持って、一足先に玄関へと向かう。広い玄関の隅に座りこんだ弥央の耳に、あろうことか樹と白井の話声がうっすら聞こえてきた。恐らく、外だ。玄関の向こう側で話しているのだ。

「お前が言ったんだろ、弥央たちも会いたがってるからって」
「だからそれは…、そうなんだけど…」
「それで?俺が弥央といたら妬いたわけ?都合よすぎねえ?」
「だってお前、昔から弥央のこと気に入ってるだろ。弥央だってもう立派な大人だし…」
「なら会わせなきゃいーだろうが」
「んなことできねーだろ、俺あいつらのマネなんだぞ!!」
「じゃあ黙ってろよ、矛盾してんの自分でわかんねえ?」
「……わかってるよ!!」

――え、え、え、なんかやばくない?俺の名前出てるくない?どうしよ止めなきゃ…!!

意を決した弥央が、玄関の扉を開けたそこには、

「なっ!!!えええ…??」

濃密なキスを繰り返す二人の姿があったのだった…。

「み、弥央!?」

素っ頓狂な声をあげる白井。頭を抱える樹。目を見開いてそこに立ち尽くす弥央。

「弥央、あのこれはな…その…」
「あ、いや、大丈夫…です…。さっきも部屋で…」
「見てたのか!?」
「あーそれで…ワイン…」

すべてが繋がった今、三人の間に流れる空気は実に間抜けなものであった。弥央にとって親代わりのような白井と、憧れの存在の樹。どこまでも得体のしれない完璧で隙のない『大人』の二人が、こうも腑抜けた顔をしているのが、弥央はだんだんとおかしくなってきてしまった。

「…ふっ。なんて顔……」

堪えきれなくなった弥央を見て、二人も胸を撫で下ろしたように口元を緩める。

「弥央、驚かせてごめんな。男同士でこんなのさ」

白井が口火を切ると、弥央はそれを遮った。

「いや!驚きましたけど、それは白井さんと樹さんだからってことで、男同士とかは…俺も、同じ…ですし…」

ちらりと樹に視線を送ると、樹は困ったような切なげな表情を浮かべていた。あの頃の二人だけの記憶。弥央をどん底から引っ張り上げてくれた樹だけは、弥央の本心を知っていた。

「もうお前めんどくせーから言っとくけどよ。俺が弥央を気に掛けてんのは、弥央が昔の俺みたいだからだよ。何考えてんだかわかんねー難解な男に振り回されて、一喜一憂してる弥央を放っておけないの」

どうやら心当たりのありそうな様子の白井が、気まずそうに顔をそむける。弥央もまた、樹から聞かされていた男の正体がまさか白井だったことを知り、実に複雑な心境だ。

――白井さん、だったのか…こんなに実直そうなのに意外と下衆なんだな…。





弥央は帰りの車内、流れていく景色を唯織の後頭部越しに眺めていた。ミニバンの後部座席に二人、並んで座ることだってできるのに。いつからか同じ列には座らないことが、弥央たちの決まりごとのようになっていた。

「じゃー、明日は二人ともオフだな。ゆっくり休めよ~」

――あーどうしよ。白井さんがマネージャー仕様に戻るのおもしろくてやばい…、さっきまであんなに乙女の顔してたのに…。

「……んんっ。ちょっと弥央。こっちこい」
「え、」
「いいか、うちは恋愛禁止ではない。けどな、するならばれないようにしろよ」

――どの口が…

「白井さんが言うのも説得力に欠けますけど…」

震え声の弥央に白井が肩パンを一発お見舞いした。

「いってえ!ひでー!アイドルなのに!!」
「うるせえ、子どもはさっさと寝ろよ!」

そう言っていそいそと車に戻った白井の耳が赤かったことを、弥央は見逃さなかった。

――恋人のことになると、人ってああなるんだ。

同じ部屋に帰る。一つの冷蔵庫から互いの好きなお酒を出して、引き出しの一番下に蓄えられたつまみを持って、L字のソファーの真ん中に二人並んで座る。きっと恋人同士もそうだろう。けれど、弥央と唯織は違う。友人のようなライバルのような同志のような…そのどれも、弥央にはぴんとこない。

「…唯織はさ、好きな人とか…いんの?」

――……いない、って言ってくれ。

「……うん。いるよ」
「あー……そうなんだ…へえ」
「へえ、って。聞いたのお前だろーが」

心なしか、いつもよりもほんの少しだけ余裕のなさそうな表情が、弥央の胸をひどく締め付ける。

――やっぱやめときゃよかった。なに影響されちゃってんだ俺…。そりゃそうだろ、唯織だぞ。こいつの相手なんていくらでも……

「……てか、そしたらごめんな。俺いたら彼女家に呼べねーよな…」
「別に。付き合ってない」

――は!?片思い!?あの唯織が…?

弥央から見て、唯織が誰かに一方的に惹かれるとしたら、たとえば忍のような、この天邪鬼を手のひらで転がせるような余裕のある大人なのだろうと直感した。

およそ自分とは正反対の。

「あっ、そういえば!まだ今日エゴサしてねーわ!」

気を抜いたら、また底知れずどこまでも落ちていってしまいそうだった。ただあの頃と違うことは、弥央だって少しは大人になったということ。己のメンタルくらいどうにか保てるようになった。こうして何事もなかったかのように笑うことだって容易くできる。『プロアイドル』なのだから。

「さっき見たら、またトレンド入りしてたよ。『いおみお』」

――んっ!?え、こいつ…

「お前、エゴサすんの!?」

唯織は、どの媒体のインタビューでも、エゴサはしないと公言している。それがまさか自分よりも早くエゴサをしているだなんて、思いもよらなかったのだ。

「するよ。てか自分の名前とかあったら普通に見ちゃうだろ」
「いや…唯織、エゴサしないって公言してんじゃん」
「あー…あれは自衛?っていうか。俺がエゴサしてるって知ったら、ファンの人たちに余計な心配かけちゃうじゃん」

何の気なしに放ったであろうその言葉の意味を、弥央は少しの間考えた。

「俺、嫌いな人にはとことん嫌われるじゃん。お前が一番よくわかんだろ?」

――……え、それってつまり、SNSに書かれてることはなにも知らないから大丈夫、って自分のファンの子たちに示してるってこと…か…??

唯織がへらっと笑うのは、分厚い仮面をかぶったときだと弥央は知っていた。

「別に…俺は唯織のこと嫌いなわけじゃないし。でもまぁ敵が多いのは、わかる。てか僻みだろ、ほとんど」

――ああ、やっぱりそうなんだよな。お前はそうなんだよ。どこまでも、佐野唯織はアイドルの頂点にいる。到底追いつけないところに、お前はいるんだよな。

無遠慮に唯織の長い脚が、弥央の膝に乗せられた。弥央は「重い!」だとか形式上抵抗はしているものの、決してそれを払いのけることもせず、これ以上だらしない顔にならないよう取り繕うことに必死だった。

「……俺も、もっと頑張らなきゃな」
「はっ、うける。少年漫画の読みすぎじゃね?」
「うるせー茶化すな!!」

こうして二人で過ごす時間があればいい。少しでも長くあれば、もうそれでいいだろう。
弥央は何度沈めたって浮遊してくるこの気持ちに、そう諭していた。