唯織の家に居候するようになって、一か月が経とうとしていた。その間にいくつか物件を提示されたが、弥央はそれを現場から遠いだとか部屋が広すぎるだとか狭すぎるだとか、なにかと文句をつけて断ってきたのだ。その度に唯織は「別にいいよ」とそっけなく答え、それ以上何も言わないでいてくれた。

「な~『いおみお』最近ざわついってけど、どしたよ?方針転換?」

リーダーの壮太が怪訝な顔で弥央を覗く。壮太の言う通り、気を付けてはいたものの、ファンの子たちは目ざとい。以前より雰囲気がバチバチしていないと、露出があるたびにSNSが『いおみお』のタグで賑わうのだ。

「そういうんじゃないけど…。やっぱ一緒にいる時間増えたからな…」
「まあ、お前ら元々仲良かったもんな」
「あははは…。今日の生放送は気を付けるね」
「え?別にいんじゃね?盛り上がってるなら、それはそれで」

――壮ちゃんは優しいなあ。いつだって俺を肯定してくれる。というか、MENTERのメンバーはみんな優しい。俺以外は…。

まだまだ届かない、と弥央はしょんぼり肩を落とした。歌でもダンスでも内面の魅力でも、何ひとつグループで一番になれることはない。中性的な顔立ちが昔はウケていたけれど、身長が伸びてしまったせいで、なんだかちぐはぐな印象になってしまったような気がするし。弥央の売りと言えばもう『ノースキャンダル』ということくらいだ。

「弥央。お前今日の樹さんちの飲み行くの?」

そしてこの男、佐野唯織は大抵のことで一番なのだ。涼しい顔して一番をかっさらっていく。アイドルとしてまさに王道。愚直な面など一切見せない姿は、昔から弥央の憧れだった。

「あ?なんだよ。今さっき生放送では気を付けるとか言ってなかったか?」
「……はっ!わりぃ!考え事してたわ…」
「で?樹さんとこ行くの?」

(いつき)というのは、世界的にも人気なバンドのフロントマンで、弥央たちMENTERがデビューして間もない頃から、何かと面倒を見てくれている人だ。中でも弥央は、十代後半の今振りかえればどん底だった時期に、かなりお世話になっている。

「行くよ。唯織は行かねえの?」
「あー…うん。行くわ」
「?おう。お前忍さんとよく飯行ってんじゃん。忍さんもいるんだろ?」

そして(しのぶ)というのは、樹のバンドのギタリストで、とにかく唯織を可愛がっている。すぐには人と打ち解けられない唯織が、忍には容易く心を開いている様子で、弥央たちメンバーは当時随分驚かされたものだ。

――忍さんと喧嘩でもしたんか?……いや一回りも年上で、ましてあの冷静沈着な忍さんと喧嘩なんて、あるわけないか。

一瞬曇った唯織の表情が気にかかったが、弥央は久しぶりの樹たちとの共演に、心躍らせていた。世界を飛び回っている樹たちのバンドが、国内の音楽番組に出演することはかなり珍しいことだからだ。

――まだ全然、唯織の隣が似合うアイドルじゃねーけど。少しは成長したって樹さんに思ってもらいたいなあ。

弥央は、パフォーマンス中以外はなるべく唯織とは目を合わせないよう善処した。おかげで肝心のパフォーマンス中は、いつもより濡れ感のあるセットをした唯織のヘアスタイルに息を呑む大失態をしてしまったが、それがカメラに映っていたかは定かではない。

――今日は『いおみお』で賑わっていないといいけど…。

「弥央~」

無事生放送を終え、楽屋に戻ろうと廊下を歩いていたときだ。背後からよく通る聞きなれた声が弥央を呼んだ。

「!!樹さーんっ!!」

振り返ってその姿を確認するや否や、弥央は走り出した。こうして顔を合わせるのは二年ぶりだ。最後に会ったときよりも伸びた髪と無精ひげ。鎖骨のタトゥーも増えている。
それから……

「なんか…ちっちゃくなりました?」
「お前がでかくなったんだろーが!失礼だねえ相変わらず」

そう言って頭を撫でてくれる手が、懐かしかった。あのときいつも傍にいてくれた手だ。
弥央は溢れんばかりの笑顔を少し我慢して、パフォーマンスがどうだったか、今日の飲みには誰がくるのか、ロスでの生活はどうなのかなどと矢継ぎ早に質問責めにする。

「あっははは。弥央、変わってなくて安心したよ」
「…え!?俺成長してないですか!?」
「違う違う。さっきステージ見てたときは、俺の知らない弥央みたいだったから。もう俺に懐いてきてくれないのかもな~ってちょっと寂しかったの」

――寂しいって…!樹さんが…!?

「信じらんねえ…あの樹さんがそんなふうに言ってくれるなんて…!」
「ふふ。まあとりあえず、支度して皆とゆっくりおいで。待ってるから」

樹のふわっとした柔らかい笑顔に、低くて落ち着いた声色に、弥央はいつだってドキドキさせられていたことを思い出した。

「……っすぐ行きますっ!!」
「だからゆっくりおいでって」

――樹さんはやっぱり俺のオアシスだ……!!





樹の部屋に着くなり目に飛び込んできたのは、テレビでよく見る有名俳優たちの姿だった。ドラマに出演しても、よくて当て馬役くらいしか貰えない弥央たちにとって、それはあまりに神々しく、そして同時にチャンスの場でもある。

「いいか、顔を売れ。名前を売れ。写真に写り込め」

小声で的確な指示を出すマネージャー。MENTERと樹たちを繋げてくれたのもこのマネージャーで、樹とは大学時代の同級生らしかった。

「いらっしゃい。みんな久しぶりだねえ~」

部屋の奥から顔を出した樹。すでにその両サイドには人気女優の一人と、体型的にグラビア系かと思われる女の子がついていた。

大理石のカウンターには、ここはバーなのかと疑うほどの量のお酒が並べられている。二十人ほどの大人が集ってもまだ余裕のある広いリビングや、一面の窓から見下ろす東京の夜景も、弥央にとっては想像しうるままの煌びやかな大人の世界であった。

――すっげ……ちょっと緊張すんな…。

昔はこうではなかった。MENTERとマネージャーと樹たちだけで食事を食べに行ったり、ボウリングしたり、少し遠出して海に行ったこともあった。樹の『大人』の部分を見せられたのは、弥央にとっては初めてだったのだ。

「帰りて……」

耳元でぼそっと聞こえた低い声。振り返るとやはりそれは唯織の声だった。

「……ちょっと、わかる。俺こういうの…慣れないんだよな…」

――どうせお子ちゃまだって笑うんだろ。いーよ別に、笑いたきゃ笑え。

しかし弥央の予想に反して、唯織はふっとほどけた笑顔を見せていた。

――……は…??

「俺も。家で飲み直そうな」

決してこちらは向かないのに、その声はやっぱり優しさを帯びていて、弥央は戸惑っていた。あの唯織が自分に向ける声とは、およそ信じがたい。けれどもう何度か、その声を聞いたのだ。居候させてもらうことになったあの日から、何度も。

「……ますます帰りたくなるわ」

嬉しいと素直に言えたらいいのだろう。たとえば相手が壮太なら、弥央だって素直にそう言える。けれど唯織相手には、いつだってこうなってしまうのだ。これが精一杯なのだ。

――伝わって……ないといい。伝わってないほうが、いい。そうだろ。

「ふっ。大好きな樹さんだろ、早く行ってこいよ」

――なのにどうして俺は、伝わってるかもなんて期待してるんだ。伝えたいなら伝えたらいいのに俺は…。

「弥央。おいでよ」

樹なら教えてくれるのだろうか。この気持ちのやり場を。





おずおずと近づいた弥央を見てか、樹は周りの女の子たちを少し遠ざけた。弥央はその優しさがわかって、恥ずかしいやら嬉しいやら情けないやら…。

「すいません俺…こういうの慣れてないんすよ…」
「だろうね、わかるわかる。ついこの間まで制服着てたんだもんねえ」
「っ、それはもう三年も経ってますよ!!」
「あははは。かわいーねえ弥央」

――かわいいって、もう俺より小さいくせにさ…!!

「樹さんだって、小さくなっちゃってかわいいですよ。つむじ覗けますもん」

そうして樹の腕を引っ張って、頭頂部を覗くフリをしたときだった。

「こら樹。弥央にちょっかい出すなって何度も言ってんだろーが」
「……え?白井さん…?」

MENTERのマネージャーの白井(しらい)が、弥央と樹の間に割って入ったのだ。しかも樹がちょっかいを出していると言うが、どう見ても樹の腕を引っ張りじゃれついたのは弥央の方なのに、だ。

「違うよ、俺が樹さんに…」
「いいから離れとけ」
「はー、こわ~。弥央の母親気取りかよ~」
「うるっせえ。ほら弥央、酒なんかもらってこいって」
「あ、は、はい…?」

促されるがまま、弥央はその場を立ち、カウンターへ向かった。

――なんだ…?あんな白井さん初めて見た。昔から樹さんに深入りするなと言われてきたけど、なんだかんだ一緒にいるのは白井さんだって同じなのに…。

ふと樹たちの方へ目をやった弥央は、手に持ったワインボトルを傾けたまま硬直した。

――えっ……!?

「えっ君!!溢れてる溢れてる!!」
「あっ…うわ!やべ…!!」

グラスから溢れたワインは天板を伝い、お気に入りのデニムに染みを作っていた。いち早く駆けつけて声を掛けてくれた唯織は、近くにあったペーパーで天板にこぼれたワインを拭いてくれている。異変に気が付いた他の人も、助け舟を出してくれた。

「す、すすすいません本当に…」

そうして片付けをしている間にも、弥央の脳裏にはずっと同じシーンが流れていた。
直前に見た、樹と白井の姿。

「……そういうこと……?」