「あら、帰ってきてたの」
「ああ......うん」


喉が渇いたので冷蔵庫に水を取りに下りてきたところでお母さんと鉢合わせた。

部活もやっていない私はパートから帰ってくるお母さんよりも数時間早く帰宅するので、晩ご飯に呼ばれるまで顔を合わせることは少ないのだ。


「今日の晩ご飯何にしようかしら」
「なんでもいいよ」
「その答えが一番困るって知ってるでしょ」
「でも、ホントになんでもいい」


 コップにミネラルウォーターを注いで冷蔵庫を閉めた。お母さんが「もう」なんて声を漏らしてこちらへやってきたので、私はそのまま台所を出ていこうと足を進める。

出来るだけ話をしたくない。

何も悪くない、むしろとても大切に自分を育ててきてくれた親に対してこんなことを思うのは自分でもどうかと思う。けれど、もうしょうがないのだ。

胸の奥に霧がかかって、優しくされるのが苦しい。きっとこんな感情、誰もわかってくれやしない。


「じゃあ親子丼にでもしようかしらねー。好きでしょ?」
「......うん」


意気揚々と私に話しかけるお母さんの顔を見ずにそうつぶやいて、私は台所を後にした。


 いつから自分がこんな風になってしまったのか、思い出そうとしてもよくわからない。何かキッカケがあったわけじゃないし、突然こんな考え方になってしまったわけでもない。

気がついたら、だ。

気がついたら。友達も、先生も、家族さえ自分のことなんて何ひとつわかってくれないんだってなんとなく思うようになってた。

雲が空を流れていくように、金魚が水の中を泳ぐように、ごく普通で当たり前の日常。そんな日常が、私にとったらとても息苦しくて仕方のないものになってた。なってしまっていた。

 朝起きるのが嫌だ。嫌いな学校へ行くのが苦痛だ。ヘラヘラ笑って周りに合わせるのはもう疲れた。したくない勉強をする意味がわからない。将来の夢もない。やりたいことがない。かと言って遊びに誘われても行く気が起きない。できれば一日寝ていたい。家族に冷たくあたってしまう自分が嫌いだ。でも、どんな会話をすればいいのかもうわからない。

私が消えたい理由、そんなの数えたらたくさんある。数え切れないほどある。

私は特別な子じゃない。芸能人みたいに可愛くもなければ、とても勉強ができる優等生でもない。かと言っていじめられているようなことはないし、親から暴力を受けているわけでもない。

ごく普通の、漫画に例えたら主人公のクラスメイトBくらいの存在。

こんな何にもない私が消えたいだなんて言葉を吐いたら、きっと『もっと辛い人もいる』『消える理由なんてないじゃないか』なんてそんな言葉が返ってくるだろう。私はそれくらいに普通の人間だから。

だから、生きてる。私が〝普通の人間〟だから、生きることを強いられながら、生きてる。


:
.


自分の部屋に戻ってベットに腰を下ろしてからひとつ、ため息を吐いた。

勉強机を見ると、積まれた教科書に挟んでおいたあのメモ用紙のことを思い出した。座ったまま手を伸ばして、世界史の教科書を掴む。

ペラペラとめくると、ポケットに入れておいたせいでしわくちゃになってしまったあのメモが顔を出した。もう一週間も前の話。


『jan@XXX.XX』


殴り書きのような汚い文字だ。小文字のアルファベットの羅列。ABのシャープペンシルで急いで書かれたような文字。けれどきちんと読み取れる、その程度のメールアドレス。


「じゃ、ん......」


メアドのローマ字に意味があるのかはわからない。固有名詞なのか、適当な文字並びなのか、『jan』と書かれた汚い文字は私の心を揺さぶった。

 ここにメールしたら、どうなるんだろう。

あのオッサンにもう一度会える? ていうか、あのオッサンは一体誰なんだろう。どうして私に声をかけたんだろう。どうして、「死にそうな目をしてる」なんて、そんなことを。

......あの人は、『止めない』と言った。

私が何をするとも言っていないのに、『君がしたいことをする手伝いができたらいい』と。『止めないの?』という私の言葉に迷いなく、『止めない』と。

まるで私の言葉を見透かしていたみたいに、まっすぐ私を見ながらそう言った。

 しわくちゃの小さなメモ用紙を親指で綺麗に伸ばした。四つ折りにして、カバンの奥底に眠っていた生徒手帳に差し込む。これは、何かがあった時のため。

スマホを見ると、いつもの3人がグループ会話で盛り上がっていたけれど、私はそれに既読をつけることなく通知だけを見つめて、やがて重力に逆らえなくなった瞼をゆっくりとおろした。