七海綾は絵を描く事が好きだった。

 七海と青野歩が出会ったのは小学校一年の時。入学式を終え、決められた教室に連れられる。たまたま七海の横の席に青野がいた。担任となる先生が現れるまでの間、緊張して喋れないでいる子、すでにわいわいと盛り上がっているグループ、それぞれが新しい環境に放り込まれたその部屋の中、青野は黙々とノートに鉛筆を走らせていた。
 七海と言えば、高校生になってこそ明るくおちゃらけた性格であったが、当時はどちらかといえば大人しく、見知らぬ生徒たちにそわそわした気持ちを隠せずにいた。しかし熱中してノートに向かう青野の横顔がどうしても気になった。肩まで伸ばした髪は七海のものより明るく艶をまとう。はっきりとした目鼻立ちは華やかで、まるでさくらんぼのようだと思った。愛想はよくなさそうだが、つんとした表情もまた七海をそそった。
 話してみたい。
 勇気を出して青野の机に体を寄せる。新品の筆箱には「あおのあゆむ」と書かれていた。
「ぼ、ぼく七海綾って言うんだ。隣の席だし、よろしくね。あゆみちゃん!」
 決死の覚悟で差し出した手を青野がチラリと見遣る。しかしその手を取る事のないまま再びノートに視線を移した。七海が引っ込みの突かなくなった手を見つめ肩を落とす。
「あゆむだよ、あ ゆ む」
 不機嫌に放たれた声は紛れもなく男の子のそれだった。勘違いしてしまったと七海が焦る。
「ごめん、あゆむくん! か、可愛かったから間違えちゃって」
 青野が七海をじとっと睨む。それでも引き下がれないほど、七海は青野と話してみたくてたまらなかった。
「何書いてるの?」
 椅子を青野の方に向けて座り直す。近くなった七海との距離感を嫌がる様子はない。もう一度青野のノートに視線を落とすと、突然七海のボルテージが急上昇した。
「これ! 恐竜戦隊ガオガオジャーじゃん!」
 青野の手がぴたりと止まる。勢いよく七海の方を振り向いたその目が輝いている。
「お前、ガオガオジャー好きなの!?」
「ぼ、ぼくはガオガオグリーンが好きだよ。あゆむくんは?」
「なんでグリーンなんだよ。レッドだろレッド!」
 その後は言うまでもなく二人の話に花が咲く。子供と言うのは繊細で単純で、気を許せば仲が深まるのに時間の長さは問題ではなかった。

 青野は静かにしていれば本当に女の子のようで、服も赤やピンクを好んで着ていた。可愛らしいものが好きな趣向かと思っていたが、後から聞けばガオガオレッドに憧れていたから暖色系を好んでいただけらしい。しかし髪型は当時から凝っていて、ピンでとめたりおさげにしたり、毎日おしゃれに手をかけていた。
 その日は変わった三つ編みをしていて、いつもと違った雰囲気の青野に胸がそわついた。
「今日の髪型も可愛いね」
「可愛い!?」
 青野は可愛いと言われることが好きではないらしく、七海が口を滑らせては睨みをきかせてくる。
「あ、じゃなくて、カッコいい! すごくカッコいい」
「だろ。編み込みって言うんだ。お母さんに教えてもらって練習した」
「すごいね」と七海が返せばまんざらでもない様子で青野が見せびらかしてくる。そんな小学校生活の中で、青野の隣で七海が絵を描きだしたのは自然な流れだった。絵を描くことに興味を持ったことはなかった。しかし青野の横で描いてみて、初めて知った。七海は絵を描くことが楽しかった。
 ただ、七海は絵を描くことが下手だった。

 放課後は部活にも入らず教室で絵を描いて過ごす日が多かった。たまに道草をしながら帰ったり、どちらかの家でゲームをしたりすることもあったが、たいていは二人で過ごしている。
 ある日の放課後、青野が描いていた電車の絵がかっこよくて、七海がそれを模写して遊んでいた。直線も汚く雑で、遠近法もバランスもぐちゃぐちゃ。そんな絵を青野がぼうっと眺める。
「綾はさ、絵下手だよな」
 二人の間に嫌味や軽視はない。純粋な本音を七海もひねくれて受け止めることはなかった。
「あゆむくんは本当に上手だね。ソンケーするなあ」
「綾はさ、絵描くの楽しい?」
「楽しいよ」
 青野に向けられた満面の笑顔にドクリと心臓が波打つ。まるで「青野と一緒にいるのが楽しい」と、そう言われたように感じた。
 二人が教室で絵を描き遊んでいると、バタバタと廊下を走る音が聞こえて来た。騒々しい数人の足音が近づくとともに、教室のドアがガラガラっと開かれる。何人かのクラスメイトが顔をのぞかせた。
「綾! サッカーしようぜ! 今日人数足りなくってよ」
「今日は俺んとこのチームな」
「おい、この前そっちのチームだっただろうが。今日はこっち」
「そうだぞ。綾が入ったら勝っちまうんだから、ビョードーにしろ、ビョードーに!」
 七海綾はサッカーが上手だった。
 青野もそれを知っていたから、自分と絵を描いていることが楽しいなんて、本当は信じていなかった。
「やらない。今はあゆむくんと絵を描いてる――」
「行けよ」
 青野が短い言葉で遮る。
「お前サッカー上手いんだから、みんなが必要としてんだから。行けって」
「どうしてそんな事を言うの」と七海の目が言っている。ぼくは歩くんと絵が描きたいと訴える。そんな視線から青野が顔をそむけた。ノートに移した視線は、再び七海に戻ってくることはなかった。


 高校二年の1学期にも慣れて来た頃、白川がいつものように下校時間の美術室にやってくる。それを普段と変わらない様子で雪平と青野が迎えた。
「あれ、七海くんは?」
 いつも一番明るく煩く迎えてくる七海の姿が見当たらない。
「ああ、あいつ今日はサッカー部。うちの学校弱小だけどさ、たまに練習に呼ばれんだよ」
 青野が画材を片付けながら答える。
「部員でもないのに?」
「人数が足りないと練習試合もできないだろ。それに本当は綾をサッカー部に誘いたいんだよ」
「あいつサッカーが上手いから」と、興味がないように、少し嫌そうに青野が話す。そんな青野の心情を察した白川と雪平が顔を見合わせる。二人とも返す言葉が見当たらない。重たくなってしまった空気を割いたのは、元気に登場した七海の声だった。
「ギリギリセーフ!」
 ジャージ姿のまま現れた七海は泥と汗まみれだった。
「何がどうセーフだって?」
 雪平もその姿にあきれ顔になる。
 油や絵の具、土の匂いが混じる教室に七海の汗の匂いが漂ってくる。青野がおもしろくなさそうな顔をする。しかしそんな青野の様子に七海は気付いていないようだった。

「今日は何描いたの?」
 青野の絵を覗き込もうとする七海を避けるように画用紙を片付ける。別にいつもと変わらないと答えた青野の声には少し刺があった。
「青野くんって雪平と違ってイラストとかもよく描いてるよね」
「青野は将来デザイン系の学校行きたいんだっけ?」
「そ、別に詳しくは決めてないけど、イラストとか漫画絵描くのも好きだから」
 雪平に答える青野はいつも通りの声色に戻っていた。
「それなら漫研とかは入らなかったの?」
 絵の事に詳しくない白川がそう思っても不思議ではない。
「何を描くにしたって基礎が重要なんだよ、基礎が。音楽ってのも同じだろ?」
「なるほどお」と白川が納得したようにうなずいている。
「歩は本当に絵が上手いからな。尊敬する」
 いつもそういって笑顔を向けてくる。七海の笑顔に調子が狂わされる。そうやってずっと青野の隣で絵を描いてきた。下手なのに、飽きもせず、ずっと。下手なのに、楽しそうに、ずっと。
「じゃあ帰るか」と青野を誘う七海に「汗臭いから嫌だ」と言えば、着替えてくると慌てて更衣室へ駆け出していく。そんな七海に嬉しそうなのは旗から見ても分かるのに、当の本人は嫌そうな態度をとる。今日の青野は少し変だと、白川が二人の様子を眺めていた。