オレの都合で動く、そう決めたら迷いなく足が進んだ。部活前に一年五組に立ち寄ろうと二階の廊下を歩いていると、前から見覚えのあるふたりが歩いてくる。茶髪とピアス、巧がつぶやいたと同時に、「お、パイセンじゃん」とピアスの男が巧に気づいた。
「なにやってんすかー?」
 茶髪がひと懐っこい口調で子犬っぽく笑った。豆柴とオオカミ、と言い得て妙な比喩が浮かぶ。ということは、瀀が混ざれば黒猫と豆柴とオオカミ? 想像してみたらかわいい。自然と口もとがほころび、話したこともないのに「よう」と右手を上げる。
 巧の前に立つふたりは見た目は派手だけれど、絡む前提でオラつくこともないし巧が上級生だからといってへりくだることもない。馴れ馴れしいと言えばそうだが、不快ではないので懐に入るのがうまいのだと思う。コミュ強とはこういうことを言うらしい。
「瀀いる?」
「今ねー、呼び出されてるんすよ」
 豆柴は、巧が瀀の所在をたずねてもとくに驚かず、へらっと笑った。それよりも、呼び出しとは。
「あいつ毎日ネクタイつけねーんで、生徒指導に目ぇつけられちゃったみたいす」
 三人で五組の教室まで歩きながら、そういえば瀀は入学式のときも山セン(生徒指導)に注意という名の憂さ晴らしに合っていたのを思い出した。
「見た目もあれだしなー、とにかく瀀は目立つし」
 達観したようにオオカミが続けた。目立つ、と言われたら、たしかにと納得して視線を持ち上げた。瀀と同じクラスの女子も「はわ〜」とハートを滲ませながらぽーっとしていたのを思い出したら、なぜだか口がひん曲がりそうになる。
「外見言い出したらオレらもたいがいっすよねえ? えーっと……」
 豆柴がうかがうように巧を下から巧を覗いてくる。
「綾瀬巧。よろしくどうぞ」
「綾瀬パイセンは、瀀のトモダチ?」
 今度はオオカミが、ひょこっと巧の前に来る。「知らないって言ってだけど、あれはぜったい知ってる顔」と豆柴が先日の件を思い出したのか愉快そうにけたけた笑った。ばれてるじゃん、とここにいない瀀に向けてほくそ笑む。
「同小だったってだけ。ひさびさに会ったから懐かしくなってさ」
 巧は目を伏せ、当たりさわりのないところだけをいい思い出にして語った。知られたら気まずい、ではなく、これだけはだれにも触れられたくなかった。あの場にいた瀀の父親にも、引っ越しを勧めた母にも、関係者にでさえ好き勝手にいじくってほしくない。瓶の中に詰めたさまざまな味の飴を舐めてぞんぶんに味わえるのは、ふたりだけだと決めている。
 へえー、とふたりはほぼ同時に言う。じっ、と見られていたので、「なに?」とおとなしく首をかしげておいた。やましさなんかないからなんでも答えますよ、と両手を上げるみたいに無抵抗を装っていると彼らは、「小野寺葉次っす」とまずは豆柴がびしっと元気よく言い、「岸朔太郎です」オオカミは深々ーと頭を下げた。
 とつぜん懐かれてしまった気分で、だけどなにがきっかけだったのか巧にはさっぱりだった。
「おまえらなに連んでんの」
 後ろから瀀の声がしてふり向く。山センから手ひどく注意を受けてめんどうにでもなったのか、瀀は制服の襟にブルーに白のストライプのネクタイを簡単に引っかけていた。豆柴の小野寺が瀀にぱたぱた近づき、「入学そうそうやっちゃってんねー」とからかう。
「おまえネクタイくらいつけろよ」
 巧が瀀のネクタイを引っ張って言うと、あからさまにむっとされた。
「つかさ、先輩なんでいるんすか?」
「おまえに用事あったから」
 巧は制服のポケットから千円取り出し、瀀に差し出す。彼は受け取らず、「なに」と今度は訝るように答えた。
「きのうのファミレス」
「いいよべつに。しかも多いだろこれ」
「じゃあ今度返してよ」
 無理やり瀀の制服のポケットに突っ込んでやると「おい!」と彼は慌てたが、巧は無視してそっぽ向く。
「あのさあ、先輩きのうの俺の話聞いてた?」
「あ、おまえきょうってバイト?」
「聞けよ」
「質問に答えてくださーい」
 わざと怒らせる言いかたをすると、小野寺と岸が吹き出した。笑いをこらえるためか、口を手でふさいで肩を揺らしている。黙っている瀀をさえぎるように、小野寺が横から口を挟んだ。
「バイトすよ」
「あ、てめ」
 瀀は今度、小野寺を睨んだ。あのコンビニか。乗り換えあんのちょっとだるいな、と少しだけ思った。
「来んなよ?」
「え、それってふりじゃねえよな?」
「もーやだあんた」
 脱力する瀀に巧は、ふふんと誇らしげに笑った。そろそろ部活がはじまる時間だと気づき、「行くわ」と彼らに背を向ける。「お疲れさまっす」と手をふるふたりに瀀はうんざりしつつ、片手を上げて巧を見送った。
 部活を終えると、丹羽と駅までの道を歩いた。四月なかばの夜は、冬の気配がまだ名残惜しそうに残っていて、こいつはいつまで居座る気なんだろうと疑問だった。椅子取りゲームで、最後の最後まで勝ち残っているようなずうずうしさがあってやっかいだ。春と秋は早々に負けて退散してしまうというのに、夏と冬の強者たるや。
「あれ? 綾瀬きょう下り線?」
「おー。ちょい寄り道」
「おまえ元気だねー。オレもうギブ。帰ってメシ食って寝る」
 疲れたー、丹羽は腕をぐっと真上に伸ばし、だらんと弛緩させた。県大会もあるし、三年だから今年最後となると、いやでも練習は厳しくなる。
「おまえ数学の課題どうすんの」
「あしたの綾瀬に期待」
「はあー? 金取んぞ」
「コロッケパンで手を打っていただければ幸いです」
 そんじゃ、と言い切って、丹羽は上り線の階段を上がっていく。焼きそばパンもつけろ、と巧が丹羽に声をかけようとしたとき、彼がくるりとふり向いた。
「そういや柴田がさ」
 柴田? と疑問符が浮かぶ。
「平浜高の?」
「そうそう」
 他校のバスケ部だ。
「綾瀬とライン交換したいっつってたよ、この前の練習試合んときに」
 平浜高とは、春休み中やそれ以外でも藤南高とときどき練習試合をするし、合同練習もあったりする。柴田とはPGという同じポジション柄、よくマッチアップする相手だった。
「なんでまたオレと?」
「さあ、知らんけど。じゃあなーお疲れー」
 丹羽はふり向くことなく、階段の上に消えた。巧も下り線の階段を上ると、ちょうどアナウンスが鳴る。まもなく四番線に……。ラッキー、と巧は颯爽と階段を上り切る。電車を待つひとたちの多さにうんざりしつつ、さまざまないでたちを眺めながら、そういえば混む時間帯かもなあ、と納得した。
 電車がホームに現れたとき、しゅん、と風が吹いた。やっぱずうずうしいやつ、と冷たい空気に口をとがらせる。