「鉄板熱いのでお気をつけください」と紋切り型の口調で告げられ、会釈して、こげ茶のソースが少しだけぐつぐつしているのを眺める。この色とか見た目のせいか条件反射みたいに腹が鳴り、パブロフの犬? とぼんやり思った。
 目の前で鉄板目玉ハンバーグとライス大盛りが二人前並んでも、瀀はとくに、うまそう、とか、腹減った、とは言わなかった。巧がタッチパネルで注文したものを、「俺もそれでいいや」と数量を2に増やしていて、あまり興味がないのかと気がかりになるほど。
「あんた帰ってからメシあんじゃねえの?」
「ぜんっぜんよゆう」
「すげえね、さすが体育会系」
 瀀はソファの背もたれに背中をあずけながら言う。店内は有線と客たちの雑談で賑わっていて、ここの会話もすぐに立ち消えてしまいそうな軽薄さがあった。瀀はさっそく「いただきます」と手を合わせ、さっと箸を持つ。こちらにまったく遠慮のない食べっぷりであっけに取られたが、タッチパネルの件もあったし早く帰りたいのかもしれない、と邪推しなくもない。
 一緒に食事をするって、気軽そうに見えて意外とそうじゃない。相手のペースとか好ききらいとか、マナーもしかり、こいつとはもう一緒に食いたくないなと簡単に見切りをつけられそうなわかりやすさだけはやけにはっきりしている、気がする。そのくせ、親睦を深めたいときはけっこう簡単に、こうやって「メシ行こうぜ」と誘ったりするのだ。気がねないふりをしつつ、案外気を使うんじゃないか、とか。
「食わないの?」
「あ、食うよ」
「腹減ってんだろ?」
「うん」
 おまえの食べっぷりを見ていろいろ勘ぐってました、とは答えられず、巧もやっと箸を持つ。「いただきます」と小さく口にしたのは、瀀の礼儀ただしさに倣っただけだけれど、それは、あのころの家庭環境ではなく、その後の生活で身についた習慣なんじゃないか、と想像するのも下世話な話だ。
 いつの間にか、瀀の鉄板の上はもう半分以上減っていて、さっさと店を出てしまうつもりなんじゃないかと訝しむ。その前に、聞けるところは聞いておきたかった。
「おまえさ、今はどこに住んでんの?」
「ああ、ばあちゃん家だよ」
「昔言ってた?」
「うん」とあっさり告げると、瀀はハンバーグを頬ばって、大盛りのご飯を大きく箸で掬って口に入れた。
「大丈夫なの?」
「なんの心配? 大丈夫だよ。ぜんっぜんよゆう」
「真似すんな」
 ふざけて真似られたのも、さくっと告げられた「大丈夫」も、ものすごく隔てられた気がして、最初の「知らない先輩」あつかいされたときよりよほどダメージが深い。親密な関係をやり直したいと思っている相手から、その他大勢と同じような対応のしかたを受け取ると、ほんとうに染み渡るみたいに心臓が痛くなるのだと思った。
「それより先輩は? いつこっちに戻ってきたの?」
「は? 先輩って」
 びっくりして思わず箸を動かす手が止まる。
「いいじゃん先輩。年上っぽくてかっけーっしょ」
 はは、という笑いかたは、つくったみたいに愛想がよくて、だけどほんとうっぽくもあって、どちらか読みづらい。んんー? と瀀を覗き込んで探ろうとするも、彼は「ん?」と首をかしげるだけでやっぱりよくわからなかった。
 あらかた食べ終えた瀀はいったん箸を置き、肘をついた。そういえば、今の瀀に「コウちゃん」とは呼ばれていないと気づく。これもまた、「関わってほしくない」の一種なのだろうか。
「で? いつこっち来たの?」
「高校受験のとき。父親もまたこっちに転勤になったしさ、ちょうどよくて。それに……」
 六年前、巧と母親が先に北関東の田舎に引っ越した。大学生の姉は横浜に残り、銀行員の父親は半年遅れでその土地の支社に配属されて合流する。結局地元の支店に戻ることになるのだが、それが巧の高校受験と重なって一軒家に越してきた。
 北関東の暮らしも悪くなかったし、どこでもバスケはできたし友人もそれなりにいて、あるていどは楽しめた。フラッシュバックも起こらなくなって、きょうのあれがほんとうにひさびさすぎて巧自身が驚いたくらいだった。いいことはたくさんあった。結果的に引っ越して悪くなかったのだと思う。
 だけど。
「瀀がいないじゃん、あっちには」
 真っ直ぐ瀀の目を見てはっきり告げると、そうだったんだ、と自分でも納得した。こっちに戻りたかったのも、田舎での生活が「そこそこ」だった理由も、ぜんぶ瀀だった。小六の夏休みだけだったのだ。あんなに充実して、毎日朝起きるのが楽しみで、目まぐるしくて、だけど最後にとてつもない苦しみを味わった時間は。
 自分の知っている世界と、知らなかった世界が交わった唯一無二の日々は、あの一瞬だけ。
「やめろよ」
 ぼそりと瀀はつぶやく。彼は半分顔を隠すように肘をついたまま口もとを手のひらで覆って、苦々しさを隠すようにそっぽ向いた。店内には今の流行りっぽいポップスが流れていたけれど、聴いたことがあるようなないような、歌詞がまったく頭に入ってこない。
「あんた、プロバスケの選手になりたいっつってたじゃん」
「げっ、それこそやめろよ、なんでそんなん覚えてんの? とっくに身のほど知ったし」
「『げ』って言うひと今いるんだ」
「うっせ、ここにいるわ」
 今それを持ち出されるとは思わず、きまりが悪くなる。というか、思い切り恥ずかしい。あのころ口にする大きな夢なんて、たいがいの子どもが卒業文集とかに書くようなことと同じだし、それはたいがい叶わないし、おとななら宝くじ当たんねえかなー、みたいなものだろうに。
「じゃあどうすんの」
 そんな本気になって言われても、と逆に困ってしまって口ごもった。
「バスケは好きだし、大学行っても続けたいとは思ってるけど、そんなことよりオレ、入学式で瀀見つけたときすっげえ嬉しかったんだって。なあ、おまえもだろ?」
 前のめりになって瀀に問いかけると、彼はなにも答えずに残ったコーンとグリーンピースをたいらげ、コップの水を飲み切って立ち上がる。好きなものは先に食べるかあとに食べるか、おそらく後者で、ひょっとして瀀って野菜きらい? いやそんなことより帰るんじゃないか、と慌てて巧も鉄板の上に残ったハンバーグをかっこみ、ライスもいっきに頬ばって、水で流すように食べ尽くす。
 瀀のあとを追うとすでに会計をすませており、自動ドアを抜けたところだった。
「瀀、おい瀀!」
 肩をつかんで瀀の前に立つと、ほのかに顔が赤い気がした。それがファミレスの看板のあかりのせいなのか、瀀の顔色か、なんにせよ理由がわからなかった。
「あのさ、あんた誤解してる」
「え?」
「俺まじで大丈夫だから、ほんとに」
 なんのことか、よくわからない。
「店ん中でさ、しかもでっけえ声で、あんな恥ずかしいことよく言えんね」
 勘弁してよ。と困ったように眉根を寄せて瀀は頭をかいた。巧にはいまだに瀀が話す真意がつかめず、今になって、店で流れていた曲の答えが出そうになって、だけどわからなくて、サビの部分だけが脳内で繰り返されている。
「え、え? オレそんな声でかかった?」
「でけえよ、ばかか」
「は?」
 思い切り八つ当たりされている気分で、ストレートに腹が立つ。すると瀀は、はー、とため息という名がとてつもなく似合う息を吐いた。
「大学行くんならなおさらでしょ。ほやほやの新入生にかまってる暇ないよ、先輩には」
「え、なんでそんな……」
 ことを言うんだろう。巧が口をぱくぱくさせている間に、瀀はなおも話し続けた。
「だから、あんたがあんなふうに怯える必要もないし、あんなこともう起きない。終わってんの、とっくに」
 さっさと足を進めてしまう後ろ姿に、いやだとだけ思った。ファミレスで聴いた曲のサビが、ずっとぐるぐる回っている。あれそれで、これで、どれで、歌詞も曖昧で、だけど「いやだ」ということだけは、はっきりとわかる。
「オレいやだって言ったじゃん!」
 かなり大きな声になって、瀀はぎょっとしたようにふり向く。
「あんたまじで声でかいんだって」と慌てて巧に近寄ってきた。しめしめ、と思った。
「オレもう、だれかの都合で動きたくないんだよね」
 おとなの都合で動かざるを得なかったあのころ。今の、成人になりかけの、だけどまだ責任能力は乏しい自分。それでも、まるっきり子どもだったらできなかった選択を、今ならできる。
「おまえの都合の話してんじゃねえんだよ。オレは今、オレの話をしてる」
 瀀はぽかんとして、そのあと口をへの字に曲げ、すごく不機嫌そうなのに本気で怒っているわけでもないような、とても微妙な顔をした。
「あんたは昔から、ぜんぜん俺の言うこと聞いてくれない」
 ぎりぎり噛みしめる口調で言い、今度こそすたすた歩いて行ってしまった。巧はほっとひと息つき、ひと混みをすいすい泳いでいく瀀の背中を見送った。あーあ、と思ったし、言うこと聞かないってなんだろう、と考えた。ひょっとして、あの事件の日のことだろうか。巧は、瀀に「帰れ」と怒鳴られても帰らなかったし、「逃げて」と叫ばれても逃げなかった。
 そんな美談じゃない、とため息をつく。単に、こわくてどうにもできなくて、足がすくんで動けなかっただけだ。ひとは恐怖を自覚するととたんに動けなくなるのを、身をもって体験した。
 帰ろ、と歩き出した瞬間、背筋がすうっと寒くなってぞっとする。強い視線、しかも生々しい、なんとも言えないいやな雰囲気をただよわせる気配に勢いよくふり返った。だけどそこにはだれもいなくて、あたりを見渡しても通行人が通りすぎていくだけだった。
 まさか幽霊? とふたたび背筋が震え、ちがうちがうと無理やり否定して早足で歩き出した。鼻歌でも歌ってやろうと一瞬考え、けれどさっきまでぐるぐるめぐっていたはずの曲でさえ、もう思い出せなかった。