入学式後のホームルームが終わると、巧は指定バッグとドラムバッグを持って席から立つ。バッグの持ち手が引っかかったのでがつがつ引っぱっていたら、隣の席の女子から「綾瀬焦りすぎ」と笑われた。
「部活燃えすぎじゃん?」
「うっせーわりーか」
と答えつつ、急いでいる理由は部活じゃない。
「綾瀬ー、昼メシ購買?」
丹羽がマイペースに席から立ち上がって、指定バッグを肩に引っかけた。巧はすでに教室のドアを開けていて、さっさと行きたかったので早口になる。
「弁当。野暮用すんだら部室で食う。お先」
三年六組の教室を出ると、気持ちが焦って小走りになる。「綾瀬こら廊下走るな」と教師に注意されるが、「さーせんツチノコいたんで」とてきとうにごまかした。巧が目指すのは、ある意味ツチノコより稀少価値の高い生物の生息地と思しき場所。
だだだ、と二階までいっきに階段を駆け下りる。入学式前のぱっと見だったけれど、あれが瀀だというのは確信していた。じっと見つめられた視線はほかの人間にはおよびもつかない巧だけがわかる貪欲な眼差しで、あのときの青い火よりも、もっと熱っぽかった。
入学式の間もずっと、瀀の後ろ姿を探した。小四の面影を残したまま、少年の未熟さと青年の凛々しさの境目を持った瀀に、たった一瞬だけだったけれど懐かしさよりもわくわくした。
一年五組の前の廊下は、浮き足立った生徒たちが大勢いて、さっそくわちゃわちゃしている。目の前にいる女子生徒に、「なあ、ちょっといい?」と声をかけると、彼女はとてもびっくりしたように目をまばたかせた。
「浅野瀀って同じクラス?」
「え! あ、はい」
そうです……、とやけにか細い声で口ごもられ、そりゃあ三年がいきなり声かけたらびびるよな、とちょっと優越感がある。だけどそもそも、巧が三年なんて新入生は知らないだろう。
「わりーんだけど、ちょっと呼んでくんねえ? ごめんなー」
申し訳なさげに手刀を切ると、彼女はあたふたしながら教室のドアに向かう。「浅野くーん」と女子生徒がドアに手をかけて呼ぶのを、巧も彼女の後ろから眺めて五組を見渡した。教室のつくりは一年から三年どのクラスも同じかたちなのに、他クラスとなると変に窮屈な気分になる現象に名前をつけたくなるのはなんだろう。
灯台の夜標のように首を動かすと、ぱっと目を引く人物で止まる。
いた。
窓際のところに瀀はいた。茶髪の男と黒髪の男と一緒にいて、巧と目が合ってこっちを見る。手招きする女子生徒のもとにやってくる瀀はまったくもってふつうの態度で、なんだか拍子抜けした。
「なに?」
瀀が彼女にたずねた。
「なんか、呼んでって言われて」
彼女は巧に目配せした。じっと瀀を見ると、目線が同じ高さで驚いた。「小さくてひょろっと」なんて見る影もなかったし、ピアスも左にふたつ、右にひとつ開いていて、やっぱりなんというか、幼かったころの面影は残っているのに、なんというか(二回目)チャラい。
「そう、ありがとね」
瀀が彼女ににこやかに対応すると、その子はちょっとぽーっとして、そそくさとその場を離れた。巧の鼻の奥がちょっともやっとして、なんで? と思った。瀀は巧をドアから離れさせると、自分は壁にもたれる。
「あんた一年じゃないよね、先輩? ひょっとして俺、入学早々シメられちゃうの?」
思い切りからかわれているのがわかり、その上口調までかわいげがなくなっていて驚く。あのかわいかった瀀は、どこに行ってしまったのか。
「ちげえよ」
成長、という言葉が浮かび、巧は拗ねたような口調になった。制服のポケットに手を突っ込んだ瀀、巧から視線を逸らしながらしゃべる瀀。
「オレのこと覚えてない? 綾瀬巧っていうんだけど。ちなみに三年」
コウちゃんだよ、とはさすがに言いづらい。というより、覚えてないとも言わせたくない。
「もしかしてナンパ? 先輩みたいな男前、一回見たら忘れないはずなんだけどな」
「は? だからちげえって!」
おちょくられかたにイラっとして巧の声が大きくなると、瀀は「声でけっ」と耳をふさぐ真似をして笑った。すると、ドアから茶髪の男と、背がひょろりと高くて黒髪でピアスをじゃらじゃらつけた男が現れた。
「瀀ー、帰ろー」
と小柄な茶髪がうかがってくる。
「うお、かっけーひと。先輩? だれよこのイケメン」
黒髪ピアスが巧を覗いてきた。瀀は巧の前にすっと立ち、だれにでも見せるような薄い笑いかたと視線をよこす。
「知らない先輩」
ひと言はっきり言う口ぶりに、「友達じゃない」を思い出して心臓が跳ねた。あのときよりもっと、もっと無関係を装う愛想のよさが滲んでいて、内臓がずんと重くなる。
「そんなわけで、俺行きますわ。じゃあね先輩」
なにも返せずその場で立ち尽くしていると、二、三メートル先で瀀がふり向いた。「ねえ」
「まだバスケやってんの?」
巧は瞼を持ち上げ、一拍息を止める。
「なんで?」と答えた声がうわずっていた気がした。瀀は、巧のドラムバッグをちょんと指差す。
「そのでっけえ鞄」
だからわかった、と暗に示されたようで、はじめて会ったときもそうだったと思い出した。そして確信した。
「やってるよ。今から部活」
「そう。がんばってね」
「おう、またあしたな」
巧がはっきり告げると、瀀は一瞬驚いた顔をして、ふと笑うとすぐに廊下を歩き出した。三人で連れ立って、じゃれ合うみたいに歩いている。
おまえ俺の鞄は? 持ってきてやったんだから感謝しとけ、あざすあざす、伝わんねーんだが? あー腹減ったーコンビニよろうや。
三人はそんなどうでもいい会話を交わし、巧と距離が離れていく。オレがいなくてもいいんだ、と思うと寂しくもなったし、六年の時間の隙間を思った。だけど嬉しくもあった。瀀には今、くだらないことをしゃべる相手がいるということが。
さて部活だ。
巧は肩の力を抜くように、いったんぎゅっと首をすくませて下ろす。
とはいえ、翌日になっても、数日経ったところで、とうぜん一年との接点があるわけがない。平常通り、巧は授業をこなして部活をして帰宅する。瀀が運動部なりなんなり部活に入部するとも考えがたかったし、じゃあ六年前の別れ際に聞いた「ばあちゃん家」もわからなければ今そこに住んでいるかも謎。
そうそう何度も一年五組にも行けず(「は?」と怪訝そうにされたらけっこう傷つく自信がある)、まさか詰んだ? と考えたが、早々に諦めるのもいやなので、ヒントでも探しになんとなくコーポさざなみに足を運んでみた。
六年ぶりのここは、まったく変わっていなかった。ゆっくりあたりを見渡すと、夜だとよけいに静かで、不気味で、つんと淀んだ雰囲気にまみれている。壊されてもいないし、階段のはげた塗装も、ポストの錆も変わらないんじゃないかと思う。
きっと、あの部屋も変わっていない。あのころのまま、今はほかのだれかが。
急にどくどくと鼓動が早くなる。ふつうに呼吸をしているはずなのに、とつぜんあの日のすえたにおいが鼻に入り込み、どん! と大きな音が耳に木霊した。床にうずくまる瀀、背中を叩きつけられる巧、こわくて、恐怖を自覚して、逃げ出したいのに動けなくなったこと。のっそり歩いてにちゃにちゃ笑う、大きな男。
巧は口を手のひらで覆う。喉に苦いものが込み上げ、必死に耐えた。足に力が入らず、その場でしゃがみ込む。フラッシュバックなんてしばらくなかったから直ったと思っていたのに、この場所とシンクロしたのかなんの前触れもなく現れた。手汗も冷や汗もひどく、動悸が激しい。うまく呼吸ができなくて、うずくまったまま動けない。
そのとき肩になにかが触れ、ぞっとして反射的にふり払った。
「触るな!」
ふり返ると、巧を心配そうに覗き込む瀀がいた。一瞬あのころの幼い瀀と重なって、まばたきしたらちゃんと成長した瀀で、チャラいけれど変わらなく瀀のままで、巧はとっさに彼に手を伸ばしてしがみつく。
「うわ、」
中腰だった瀀を巻き込むみたいに抱え込むと、最初は驚かれた。瀀もアスファルトに腰を下ろし、最初はためらっていた手が、よしよしと巧の背中をさすってくれる。すると、暴れていた鼓動がゆっくり落ち着いてくるのがわかった。
「なんでこんなとこ来んの、俺もういないって」
「わかってるけど」
「大丈夫? 急に触ってごめんね」
巧は首をふった。
「そんなんより、おまえまた知らんぷりしたろ。ムカつく」
「あー、あれはさ、あんたにもう迷惑かけらんないだろ?」
迷惑ってなんだろう。昔のことがそれに当たるとして、だから近づかないというのが瀀の気づかいだとしたら、もっと薄情に徹すればよかったのだ。だけど瀀はそうしなくて、そういうところの詰めが甘い。
「だったら今だってほっときゃよかったじゃん」
「怒んなよ、ほっとけないでしょ。こんなとこでうろついてて、しかもこんなんなってたら」
もー、なんで来てんの。と瀀は心配を通り越してあきれていた。その口調はあのころの瀀の、ちょっとおとなびた言い回しに似ていて、やっぱり同一人物だと笑ってしまう。
「なんで笑う」
「いや、瀀だよなーって」
「なんだそりゃ」
子どもを落ち着かせるようにとんとんと軽く背中に触れるしぐさは、年下に子どもあつかいされているようで、そこは釈然としないけれど。
「ごめんね、ほんとうに」
その「ごめんね」には心からの謝意と、負い目や罪悪感というのがこれでもかというほど表れていて、巧はそれを全否定したくなった。非がない相手からの謝罪をいつまでも受け取るのは、ほしくもない誠意を無理やり押しつけられる変な居心地の悪さがあって、はっきりといやだ。
「もう大丈夫だから」
巧はふらつく足をかばうように、膝を手で支えながら立ち上がる。腕を支えられたけれど、「ほんとに」と断った。自分を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸して制服の胸もとを握る。
目の前には、瀀がいる。すっとした黒猫みたいな目もとは変わらないし、さすがに頬はもうふくふくしていなさそうだけれど、ちょっと謎めいた雰囲気も昔のままだった。ピアスが開いていても、見た目がやんちゃそうでも、やっぱり瀀だ。
「おまえほんとに、ここにいるんだよなあ」
「なんだそれ、いるよ」
「瀀のこと、探してたんだけど」
といっても、くまなく捜索できるほどの力は巧にはなく。
「はは、探さんでも」
瀀は苦笑して、ポケットに手を突っ込んで巧から目を逸らす。
「そういや、おまえこそなんでここいたの?」
「この通りのコンビニでバイトしててさ、上がるときにたまたまあんたが通ったの見かけて、まさかなーって思ったらそのまさかってやつ」
まじでびびるわ、とお手上げというように力なく瀀は笑った。
「もうほんと、このへん来ないほうがいいよ。治安わりーし」
「でもおまえはバイトしてんだろ?」
「そうだけど」
困ったように瀀は言う。すると、通行人の視線を感じた。じろりと迷惑そうに眺めてからアパートの階段を上がっていったので、おそらく住人だろう。そりゃあ邪魔だろうけれどたしかにガラが悪そうで、瀀が治安を言い出すのはわかる気がした。
「行くよ」と彼に顎をしゃくられ、巧もあとを追う。小四のころの瀀を連想させる言動だけど、やっぱり成長しているからかやり口がどことなくおとなびていて、そのギャップに頭がバグる。
瀀について歩いていると、駅方面に向かっているのだとわかった。
「じゃあおまえもバイトやめる?」
「は? なんで」
「治安わりーんだろ? 危ねえじゃん」
「俺はいいの。危ないのはあんた」
すたすたと、瀀は巧の前を歩く。瀀はよくて巧はだめという理屈がまったく理解できないが、問答無用に言い切られると反論のしかたを考えないといけない。
「あのときのこと、まだ悪いと思ってんの?」
瀀の足がぴたりと止まる。ふり返ったときの表情が、苦しそうで、痛々しくて、真剣で、最初のちゃらけた雰囲気なんてまったくなかった。瀀の弱点を遠慮なく素手で握りしめたような後味の悪さがあって、巧は口をつぐむ。
「当たり前だろ。もう俺と関わんないでほしいくらい」
厳しい口調ではなく平坦に、はっきりと告げられたので本気なのだと理解できる。ショックじゃないと言えば嘘になる。だけど、なんとなくわかっていたから平気だった。
「いやだ」
「ほらー、そういう」
はあ、とため息をつかれる。
「オレ今、ここにいるよ。あしたもいる」
瀀は目をまるくする。びっくりもしていたし、きまりが悪そうでもあったし、ちょっと怒っているようにも見えた。いろんな感情がごちゃ混ぜになった目で、その隙に巧は瀀に駆け寄る。
「オレさー、部活帰りですげえ腹減ってんの。ファミレス行かね? な?」
瀀を引っぱり、明るい歩道を目指した。いやがられなかったから、ほんとうはほっとしていた。とにかく、瀀とふたりで明るいところに行きたかった。
「部活燃えすぎじゃん?」
「うっせーわりーか」
と答えつつ、急いでいる理由は部活じゃない。
「綾瀬ー、昼メシ購買?」
丹羽がマイペースに席から立ち上がって、指定バッグを肩に引っかけた。巧はすでに教室のドアを開けていて、さっさと行きたかったので早口になる。
「弁当。野暮用すんだら部室で食う。お先」
三年六組の教室を出ると、気持ちが焦って小走りになる。「綾瀬こら廊下走るな」と教師に注意されるが、「さーせんツチノコいたんで」とてきとうにごまかした。巧が目指すのは、ある意味ツチノコより稀少価値の高い生物の生息地と思しき場所。
だだだ、と二階までいっきに階段を駆け下りる。入学式前のぱっと見だったけれど、あれが瀀だというのは確信していた。じっと見つめられた視線はほかの人間にはおよびもつかない巧だけがわかる貪欲な眼差しで、あのときの青い火よりも、もっと熱っぽかった。
入学式の間もずっと、瀀の後ろ姿を探した。小四の面影を残したまま、少年の未熟さと青年の凛々しさの境目を持った瀀に、たった一瞬だけだったけれど懐かしさよりもわくわくした。
一年五組の前の廊下は、浮き足立った生徒たちが大勢いて、さっそくわちゃわちゃしている。目の前にいる女子生徒に、「なあ、ちょっといい?」と声をかけると、彼女はとてもびっくりしたように目をまばたかせた。
「浅野瀀って同じクラス?」
「え! あ、はい」
そうです……、とやけにか細い声で口ごもられ、そりゃあ三年がいきなり声かけたらびびるよな、とちょっと優越感がある。だけどそもそも、巧が三年なんて新入生は知らないだろう。
「わりーんだけど、ちょっと呼んでくんねえ? ごめんなー」
申し訳なさげに手刀を切ると、彼女はあたふたしながら教室のドアに向かう。「浅野くーん」と女子生徒がドアに手をかけて呼ぶのを、巧も彼女の後ろから眺めて五組を見渡した。教室のつくりは一年から三年どのクラスも同じかたちなのに、他クラスとなると変に窮屈な気分になる現象に名前をつけたくなるのはなんだろう。
灯台の夜標のように首を動かすと、ぱっと目を引く人物で止まる。
いた。
窓際のところに瀀はいた。茶髪の男と黒髪の男と一緒にいて、巧と目が合ってこっちを見る。手招きする女子生徒のもとにやってくる瀀はまったくもってふつうの態度で、なんだか拍子抜けした。
「なに?」
瀀が彼女にたずねた。
「なんか、呼んでって言われて」
彼女は巧に目配せした。じっと瀀を見ると、目線が同じ高さで驚いた。「小さくてひょろっと」なんて見る影もなかったし、ピアスも左にふたつ、右にひとつ開いていて、やっぱりなんというか、幼かったころの面影は残っているのに、なんというか(二回目)チャラい。
「そう、ありがとね」
瀀が彼女ににこやかに対応すると、その子はちょっとぽーっとして、そそくさとその場を離れた。巧の鼻の奥がちょっともやっとして、なんで? と思った。瀀は巧をドアから離れさせると、自分は壁にもたれる。
「あんた一年じゃないよね、先輩? ひょっとして俺、入学早々シメられちゃうの?」
思い切りからかわれているのがわかり、その上口調までかわいげがなくなっていて驚く。あのかわいかった瀀は、どこに行ってしまったのか。
「ちげえよ」
成長、という言葉が浮かび、巧は拗ねたような口調になった。制服のポケットに手を突っ込んだ瀀、巧から視線を逸らしながらしゃべる瀀。
「オレのこと覚えてない? 綾瀬巧っていうんだけど。ちなみに三年」
コウちゃんだよ、とはさすがに言いづらい。というより、覚えてないとも言わせたくない。
「もしかしてナンパ? 先輩みたいな男前、一回見たら忘れないはずなんだけどな」
「は? だからちげえって!」
おちょくられかたにイラっとして巧の声が大きくなると、瀀は「声でけっ」と耳をふさぐ真似をして笑った。すると、ドアから茶髪の男と、背がひょろりと高くて黒髪でピアスをじゃらじゃらつけた男が現れた。
「瀀ー、帰ろー」
と小柄な茶髪がうかがってくる。
「うお、かっけーひと。先輩? だれよこのイケメン」
黒髪ピアスが巧を覗いてきた。瀀は巧の前にすっと立ち、だれにでも見せるような薄い笑いかたと視線をよこす。
「知らない先輩」
ひと言はっきり言う口ぶりに、「友達じゃない」を思い出して心臓が跳ねた。あのときよりもっと、もっと無関係を装う愛想のよさが滲んでいて、内臓がずんと重くなる。
「そんなわけで、俺行きますわ。じゃあね先輩」
なにも返せずその場で立ち尽くしていると、二、三メートル先で瀀がふり向いた。「ねえ」
「まだバスケやってんの?」
巧は瞼を持ち上げ、一拍息を止める。
「なんで?」と答えた声がうわずっていた気がした。瀀は、巧のドラムバッグをちょんと指差す。
「そのでっけえ鞄」
だからわかった、と暗に示されたようで、はじめて会ったときもそうだったと思い出した。そして確信した。
「やってるよ。今から部活」
「そう。がんばってね」
「おう、またあしたな」
巧がはっきり告げると、瀀は一瞬驚いた顔をして、ふと笑うとすぐに廊下を歩き出した。三人で連れ立って、じゃれ合うみたいに歩いている。
おまえ俺の鞄は? 持ってきてやったんだから感謝しとけ、あざすあざす、伝わんねーんだが? あー腹減ったーコンビニよろうや。
三人はそんなどうでもいい会話を交わし、巧と距離が離れていく。オレがいなくてもいいんだ、と思うと寂しくもなったし、六年の時間の隙間を思った。だけど嬉しくもあった。瀀には今、くだらないことをしゃべる相手がいるということが。
さて部活だ。
巧は肩の力を抜くように、いったんぎゅっと首をすくませて下ろす。
とはいえ、翌日になっても、数日経ったところで、とうぜん一年との接点があるわけがない。平常通り、巧は授業をこなして部活をして帰宅する。瀀が運動部なりなんなり部活に入部するとも考えがたかったし、じゃあ六年前の別れ際に聞いた「ばあちゃん家」もわからなければ今そこに住んでいるかも謎。
そうそう何度も一年五組にも行けず(「は?」と怪訝そうにされたらけっこう傷つく自信がある)、まさか詰んだ? と考えたが、早々に諦めるのもいやなので、ヒントでも探しになんとなくコーポさざなみに足を運んでみた。
六年ぶりのここは、まったく変わっていなかった。ゆっくりあたりを見渡すと、夜だとよけいに静かで、不気味で、つんと淀んだ雰囲気にまみれている。壊されてもいないし、階段のはげた塗装も、ポストの錆も変わらないんじゃないかと思う。
きっと、あの部屋も変わっていない。あのころのまま、今はほかのだれかが。
急にどくどくと鼓動が早くなる。ふつうに呼吸をしているはずなのに、とつぜんあの日のすえたにおいが鼻に入り込み、どん! と大きな音が耳に木霊した。床にうずくまる瀀、背中を叩きつけられる巧、こわくて、恐怖を自覚して、逃げ出したいのに動けなくなったこと。のっそり歩いてにちゃにちゃ笑う、大きな男。
巧は口を手のひらで覆う。喉に苦いものが込み上げ、必死に耐えた。足に力が入らず、その場でしゃがみ込む。フラッシュバックなんてしばらくなかったから直ったと思っていたのに、この場所とシンクロしたのかなんの前触れもなく現れた。手汗も冷や汗もひどく、動悸が激しい。うまく呼吸ができなくて、うずくまったまま動けない。
そのとき肩になにかが触れ、ぞっとして反射的にふり払った。
「触るな!」
ふり返ると、巧を心配そうに覗き込む瀀がいた。一瞬あのころの幼い瀀と重なって、まばたきしたらちゃんと成長した瀀で、チャラいけれど変わらなく瀀のままで、巧はとっさに彼に手を伸ばしてしがみつく。
「うわ、」
中腰だった瀀を巻き込むみたいに抱え込むと、最初は驚かれた。瀀もアスファルトに腰を下ろし、最初はためらっていた手が、よしよしと巧の背中をさすってくれる。すると、暴れていた鼓動がゆっくり落ち着いてくるのがわかった。
「なんでこんなとこ来んの、俺もういないって」
「わかってるけど」
「大丈夫? 急に触ってごめんね」
巧は首をふった。
「そんなんより、おまえまた知らんぷりしたろ。ムカつく」
「あー、あれはさ、あんたにもう迷惑かけらんないだろ?」
迷惑ってなんだろう。昔のことがそれに当たるとして、だから近づかないというのが瀀の気づかいだとしたら、もっと薄情に徹すればよかったのだ。だけど瀀はそうしなくて、そういうところの詰めが甘い。
「だったら今だってほっときゃよかったじゃん」
「怒んなよ、ほっとけないでしょ。こんなとこでうろついてて、しかもこんなんなってたら」
もー、なんで来てんの。と瀀は心配を通り越してあきれていた。その口調はあのころの瀀の、ちょっとおとなびた言い回しに似ていて、やっぱり同一人物だと笑ってしまう。
「なんで笑う」
「いや、瀀だよなーって」
「なんだそりゃ」
子どもを落ち着かせるようにとんとんと軽く背中に触れるしぐさは、年下に子どもあつかいされているようで、そこは釈然としないけれど。
「ごめんね、ほんとうに」
その「ごめんね」には心からの謝意と、負い目や罪悪感というのがこれでもかというほど表れていて、巧はそれを全否定したくなった。非がない相手からの謝罪をいつまでも受け取るのは、ほしくもない誠意を無理やり押しつけられる変な居心地の悪さがあって、はっきりといやだ。
「もう大丈夫だから」
巧はふらつく足をかばうように、膝を手で支えながら立ち上がる。腕を支えられたけれど、「ほんとに」と断った。自分を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸して制服の胸もとを握る。
目の前には、瀀がいる。すっとした黒猫みたいな目もとは変わらないし、さすがに頬はもうふくふくしていなさそうだけれど、ちょっと謎めいた雰囲気も昔のままだった。ピアスが開いていても、見た目がやんちゃそうでも、やっぱり瀀だ。
「おまえほんとに、ここにいるんだよなあ」
「なんだそれ、いるよ」
「瀀のこと、探してたんだけど」
といっても、くまなく捜索できるほどの力は巧にはなく。
「はは、探さんでも」
瀀は苦笑して、ポケットに手を突っ込んで巧から目を逸らす。
「そういや、おまえこそなんでここいたの?」
「この通りのコンビニでバイトしててさ、上がるときにたまたまあんたが通ったの見かけて、まさかなーって思ったらそのまさかってやつ」
まじでびびるわ、とお手上げというように力なく瀀は笑った。
「もうほんと、このへん来ないほうがいいよ。治安わりーし」
「でもおまえはバイトしてんだろ?」
「そうだけど」
困ったように瀀は言う。すると、通行人の視線を感じた。じろりと迷惑そうに眺めてからアパートの階段を上がっていったので、おそらく住人だろう。そりゃあ邪魔だろうけれどたしかにガラが悪そうで、瀀が治安を言い出すのはわかる気がした。
「行くよ」と彼に顎をしゃくられ、巧もあとを追う。小四のころの瀀を連想させる言動だけど、やっぱり成長しているからかやり口がどことなくおとなびていて、そのギャップに頭がバグる。
瀀について歩いていると、駅方面に向かっているのだとわかった。
「じゃあおまえもバイトやめる?」
「は? なんで」
「治安わりーんだろ? 危ねえじゃん」
「俺はいいの。危ないのはあんた」
すたすたと、瀀は巧の前を歩く。瀀はよくて巧はだめという理屈がまったく理解できないが、問答無用に言い切られると反論のしかたを考えないといけない。
「あのときのこと、まだ悪いと思ってんの?」
瀀の足がぴたりと止まる。ふり返ったときの表情が、苦しそうで、痛々しくて、真剣で、最初のちゃらけた雰囲気なんてまったくなかった。瀀の弱点を遠慮なく素手で握りしめたような後味の悪さがあって、巧は口をつぐむ。
「当たり前だろ。もう俺と関わんないでほしいくらい」
厳しい口調ではなく平坦に、はっきりと告げられたので本気なのだと理解できる。ショックじゃないと言えば嘘になる。だけど、なんとなくわかっていたから平気だった。
「いやだ」
「ほらー、そういう」
はあ、とため息をつかれる。
「オレ今、ここにいるよ。あしたもいる」
瀀は目をまるくする。びっくりもしていたし、きまりが悪そうでもあったし、ちょっと怒っているようにも見えた。いろんな感情がごちゃ混ぜになった目で、その隙に巧は瀀に駆け寄る。
「オレさー、部活帰りですげえ腹減ってんの。ファミレス行かね? な?」
瀀を引っぱり、明るい歩道を目指した。いやがられなかったから、ほんとうはほっとしていた。とにかく、瀀とふたりで明るいところに行きたかった。