そのあとのことはよく思い出せない。瀀とも会えなかったし、警察署で事情を聞かれた巧は「瀀は悪くない」「瀀が助けてくれた」としゃべったことしか覚えていなかった。カウンセラーと呼ばれるひととたくさん話をして疲れ果て、バスケもできず、部屋からも出られない日々が続いた。
 ちょっと起きられたかと思うとめまいと吐き気がして、フローリングにうずくまった。母も父も過剰に心配し、どろどろのお湯みたいななんの味もしないお粥を食べさせられた。リビングには高級そうなお菓子の箱が開けられることもないまま、お供えみたいに積まれていた。何日も何週間も伏せていたかと思ったらたったの一週間で、ようやく起きられたと重たい頭とだるい足を引きずってリビングに行くと、母が椅子から立ち上がる。
「コウちゃん、大丈夫?」
「うん」
 ひさびさに出した声はがさがさしていた。
「ねえコウちゃん、夏休みが終わるまでに引っ越そう。ね?」
「え?」
「お父さんはあとからになっちゃうけど、ちょっとの間、中学校卒業するまででもいいし、ずっとでもいいから、ちがう街に行こう」
 引っ越す? ここから? なんで?
「瀀は?」
 巧がぽつりと口にすると、みるみるうちに母の顔つきが険しくなる。
「瀀くんは今、ちがう場所にいるの」
 いつものきんきんした怒鳴り声でも、言うことを聞かない巧にあきれ果てたため息混じりの声でもない。もっともっと、心からの決断が滲み出ていた。いつもなら逆らうのをやめるけど、きょうはどうしてもできない。
「瀀は悪くない。瀀はオレを助けてくれたのに、なんで? ねえ、おかあさん、なんで?」
 おとなはなにもしなかったくせに、噂話をするだけで、証拠とかなんとか言って、めんどうごとを避けて、最後の最後に決めることだけは勝手にする。子どもにはなにもできないとなめて、見下して、どれだけ訴えたって聞かないくせに。頭ごなしに、悪いと決めてかかって、ただしいことだけがただしいみたいに言う。
 大きらいだ。
「わかってるよ。だけど私じゃどうにもできない。コウちゃんを守るので精一杯なの」
 大きらいだ。
 大事な友達ひとり守れない、子どものオレが。
「瀀くんを守ろうってがんばったんだよね。えらかったよ、巧」
 瞼が熱くなって、手の甲でぬぐった。頭をなでられ、だけどすぐに母に背を向けてリビングを出た。「巧!」と母の声がしたけれど、立ち止まらなかった。サンダルをつっかけて玄関を出て、瀀を探すために走った。
 ずっと寝ていたからか体力が落ちていて、すぐに息が上がる。暑くて、しんどくて、涼しい部屋で心地よく麦茶が飲みたかった。いつも冷蔵庫で冷えている麦茶。暑かったらエアコンもつけてよくて、おにぎりをたくさんつくるお米がじゅうぶんにあった。
 公園に向かう道すがら、これまでのできごとが浮かぶ。人体の急所、ボクシングの教本、使うかわからない自由研究。瀀の世界、巧が知らない世界、知らなかったから、自分が裕福だとかふつうだとか、考えたことがなかった。
 瀀に会いたかった。とにかく、瀀に今すぐ会いたい。
 公園のベンチに、足をぶらぶらさせた瀀が座っている。会えた、と胸がいっぱいになった瞬間、声を出していた。
「瀀!」
 瀀が、びっくりした顔をして、ベンチから立ち上がって巧に駆け寄る。
「コウちゃん、もう大丈夫なの?」
 すごく心配そうに、瀀は巧の腕や肩に触れた。汗ばんだ手が熱いのにいやじゃなくて、なんだかくすぐったくて笑ってしまう。
「コウちゃん、ごめん。ごめんなさい」
 額が膝につきそうなほど深く頭を下げた瀀に、巧は何度も何度も首をふった。
「オレこそごめん。瀀のこと助けられなくて」
 瀀は頭を上げると、ぶんぶんと音が鳴るほど強く首をふる。
「コウちゃんは、俺をあいつから守ってくれたよ。やっぱりコウちゃんはヒーローだね」
 巧は首を横にふるだけだった。ちょっとでも口を開くと、涙がこぼれそうだったから。
「俺さ、今は一時保護所ってとこにいて、そのあとたぶん、ばあちゃん家に行くと思う」
「イチジホゴジョ?」
 かずきから聞いた名前が、ここでも出てきた。
「うん、俺みたいな子とかをね、ちょっとの間あずかってくれるとこ」
 平然と瀀はしゃべるけれど、それがどれほど重いか。だけどその重さが何グラムか、何キロか、測れないほどのものかどうかも、巧にはわからないのだ。ヒーローじゃない、オレはなにもできなかった。もう何度だって思った。自信過剰で負けずぎらいでなんの根拠もない自信だけがあって、瀀の世界をなにも知らずイチジホゴジョもわからないただのばか。
 巧はただ、「……そっか」と答えるしかできない。
「コウちゃんに会ってちゃんと伝えたかったから、今んとこ毎日抜け出してここに来てんの。帰ったらたぶん、きょうもすげえ説教」
 はははー、と笑う瀀は、屈託がなくて安心した。だけど一応、説教に「おい」と怒るふりをしても、瀀は笑顔だった。
「ちゃんと会えてよかった」
 瀀はとても感慨深そうに言って、巧の手をぎゅっと強く握る。小さな手があたたかくて、汗で湿っていて、だけどちゃんと生きている人間のあたたかさだったから、胸が痛くなる。
「ばあちゃん家って? 遠い?」
「こっからそんな遠くない、と思う。俺もさ、今回はじめてばあちゃんに会ったから」
「どんなひと? 大丈夫か?」
「うーん、俺のことめちゃくちゃ心配してたひと、かなあ。でもまあ、あそこに比べたらどこだって天国だよ」
 これまで瀀は、どんな経験をして、どんな日々を送ってきたのだろう。どんな痛みを受け、どれだけ苦しんだのだろう。痛いとか苦しいとか、だれにも伝えられず、それがふつうになってしまうまで。だれにも推し測れない、瀀だけが抱えるもの。
「だからね、もう幽霊アパート引っ越したから」
 瀀は巧から手を離し、ハーフパンツのポケットから防犯ブザーを取り出して差し出す。
「これ返すね、ありがとう」
 あの騒動があって、これのことを忘れていた。だけど、きちんと瀀の手に戻っていて安心した。
「あそこに幽霊はいなかったよ。ヒーローが来てくれたから、どっか行っちゃったんじゃない?」
 嘘だ。幽霊なんて最初からいなかった。階段に座ったり、上がったり下りたりしていたのは幽霊じゃない。巧はぎゅっと唇を引き結び、ほどいてもやっぱりつぐんでしまう。防犯ブザーも受け取れず、手のひらをぐっと強く握る。
「瀀、オレ……」
「ん?」
 どうしてこの子を置いていかなきゃいけないんだろう、傍にいられないんだろう。どうして。
「引っ越すみたい、なんだ……」
 言葉にした瞬間、どうしようもなく涙が出た。どうして、どうして、それしかわからない。
「うん、そっか」
 そうだよね。
 瀀は淡々と続けた。あまりにも端的な答えかたに、まるで裏切られた気分になった。かっとした苛立ちをぶつけようとすると、瀀は巧から視線を逃した。みるみるうちに顔をゆがめていき、瞳にたくさんの水分を滲ませ、ぽろぽろと涙をこぼした。頬を伝い、絶え間なく流れ落ちる。
「行かないで、ここにいて」
 静かにぱたぱたと、涙が落ちていく。こんなときなのに、心臓を素手で鷲づかみにされたみたいにどきどきした。喉からなにかがあふれそうで、瀀に手を伸ばしてこの中に収めておきたくてたまらなくなる。
「ここにいて、あしたもいて」
 ずっといて。
 巧が求めていたことは、きっと瀀が求めていたものも、ほんの些細なもの。大仰じゃなく、派手でもない。あした一緒に遊びたい、一緒にいたい、ささやかで、ふつうで、だれにだって得られるはずのものなのに。
 どうしてオレと瀀は、あした遊ぶことができないんだろう、少し先のあした、オレはここにいない。