(『彼を助けたい』ですって?! どういう意味かしら……もしや旦那様の身に何か?!)
澄香は思わず足を止め、声の主の方を振り返る。
「ダメだよ、澄香! どうせ何かの罠に決まってる!」
ハチ香は握った澄香の手を懸命に引っ張っている。
「ハチ香……けれど、もし旦那様に何かあったのだとしたら……話を聞くだけでも聞いてみた方がいいと思うの」
「やめた方がいいよ! あの男は明莉の味方だ。どうせろくなやつじゃない! 澄香が傷つくだけだよ。早く帰ろう!」
その場で引っ張り合いをしているふたりの元に、白川が悠然とした足取りで近付いてきた。
「澄香さん、お時間は取らせませんよ。そして、そちらの可愛らしいお嬢さん、よろしければ美味しいホットケーキをご馳走させていただきますよ」
白河は柔らかな声でそう告げた。
ちらりとハチ香の方に目をやると、ホットケーキを想像しているのだろうか、なにやら上空を見やり舌なめずりをしている。
(……とにかく、この男の目さえ見なければいいのだわ。旦那様のことだけ聞き出して、早く帰ろう)
澄香は俯いたまま、わかりました、と答えた。
「では、そちらのカフェーに入りましょうか」
白河に促され店に入ると、平日の昼間だというのに座席の八割方は埋まっているようだった。
(……ここなら人目もあるし、危険な目に遭うということもなさそうね)
澄香はホッとひと安心する。
三人が案内されたのは、窓際の日当たりのよい四人がけのソファー席だった。
「……わたし日光に弱いんです……。ですので、すみませんがお隣よろしいでしょうか……」
澄香は勇気をだして白河の隣に腰掛けた。これなら男と目を合わせなくとも不自然に思われないだろうと判断してのことだった。
白河は、もちろんです、と短く答えると、メニュー表を手に取る。
「澄香さん、何になさいますか? ここは僕が持ちますので何でもお好きなものを頼んでくださいね。そして、お嬢さんにはホットケー……あ、まずお名前をお聞きしても?」
白河は正面に座っているハチ香に微笑みかけた。
「何でアンタにアタシの名前を教えなきゃいけな――」
「――ハ、ハチ香といいます」
今にも牙を向きそうな少女の口元に腕を伸ばしながら、澄香は慌てて答える。
「ハハハ、ずいぶんと威勢のいいお嬢さんだ。ハチ香さんは半妖ではなく、猫のあやかしが人間に変身しているといったところかな……?」
「……ど、どうして分かるのですか?!」
澄香は驚きに目を丸くするも、もちろん目線はテーブルに落としたままだ。
「まぁ、なんとなく……ね」
白河はそう言ってはぐらかすと、女給を呼んだ。
「ホットケーキひとつとカルピスをふたつ、それから僕にはコーヒーを」
「かしこまりました」
女給が白いエプロンの裾についた大きなフリルを揺らしながら去っていくと、澄香はさっそく口を開いた。
「それで、旦那様に関するお話って……」
「まぁ、そう慌てなくても――それにしても、澄香さんと明莉さんは姉妹だというのに、見た目も持っている雰囲気もまったく似ていませんね」
なかなか本題に入ろうとしない男の真意を掴めない澄香は、ジリジリと焦りを感じ始めていた。
(いっそのこと正面に座って目を合わせた方が、この男が何を考えているのかが分かってよかったかもしれない……)
失敗した、と澄香が嘆息したのと同じタイミングで、ハチ香がスッと席を立った。
「ホットケーキが焼けるまで時間がかかりそうだから、ちょっとトイレに行ってくるね」
そう言うと、体かがめるようにして、あっという間に店から出ていった。
「あの身のこなし……やはり猫のあやかしで間違いなさそうだ」
隣の白河は、ハッハッと楽しそうな笑い声を立てている。
「――先日あのレストランでお会いしたとき、明莉さんは澄香さんに対してずいぶん失礼な態度を取っていましたよね……。正直言って、彼女には幻滅しましたよ。もともと僕はああいう派手な女性はタイプじゃないですしね」
(一体何が言いたいの……? 隣になんて座るんじゃなかった……)
嫌な予感がした澄香は、失礼します、と言って、ハチ香が座っていた席へ移動した。
「おやおや、あなたを警戒させてしまったみたいですね」
白河はフッフッと小さく笑うと続けた。
「そうです。あなたが今感じていることは正しい。僕は元来あなたのような清楚でおしとやかな女性が好みなんだ。澄香さん、僕は明莉さんとは別れます。だから、僕と……僕と結婚を前提にお付き合いしてもらえないだろうか」
澄香は自分に注がれる熱のこもった眼差しを感じ、一刻も早くこの場を立ち去りたくなった。
「お話は、それだけでしょうか。わたしには旦那様という方がいらっしゃいますので、失礼致します」
俯いたままひと息に告げ、澄香は立ち上がった。
「――そんなことを言っていいのですか……? あなたの旦那様とやらは、あなたのためにとても危険なミッションに臨んでいるというのに」
鋭い声に射抜かれたように、澄香はその場から動けなくなる。
「……この先を聞きたいのなら、座ってください」
澄香はまるで操られているかのように再び腰を降ろした。体からはすっかり力が抜けてしまっていた。
「……危険なミッションって……何ですか……? わたしのためって……どういうことですか……?」
澄香は青い顔をしてテーブルを見詰めている。
「端的に言うと――」
白河はコップを手に取り喉を鳴らして水を一気に飲みほすと、言葉を継いだ。
「あの鬼神は、あなたの知らないところで命を賭けて闘っている。なぜか――。あの男にかけられている呪いを解くために。そしてその呪いとはおそらく、あなたと結婚するうえで障害になることなのでしょう」
えっ! と澄香は思わず顔を上げるも、男と目が合いそうになり慌てて下を向く。
「澄香さん……僕と結婚してください。僕の想いに応えてくれるのなら、代わりにあの鬼神にかけられている呪いを解いてさしあげましょう。僕にはその力がある。呪いさえ解ければ、あの鬼神は――相手はあなたというわけにはもちろんいきませんが――他の誰かと結婚し、幸せに暮らすことができるのですよ……」
男の話を聞きながら、澄香は懸命に頭の中を整理する。
(旦那様にかけられている呪い、それは『愛する者に接吻をすると、相手の寿命を削ってしまう』というものよね……。その呪いを解くために、旦那様はご自分の命を脅かすようなことをなさっているというの……?! そんな……旦那様、そんな危険なことはおやめください!)
嘘だ、というように手をこめかみに当て頭を振る澄香を、白河は何も言わずに見詰めている。
(……わたしが白河さんと結婚すれば、その呪いは解いてもらえる……。旦那様はもう危険なことをなさらずとも、どなたかを思い切り愛することができる……。その相手が、わたしではなくなるというだけ……。あぁ! 旦那様が他のどなたかを愛するだなんて! 想像しただけで胸が苦しい……。でも、わたしが旦那様にしがみついていたら、旦那様は命を落としかねない……。あぁ! いったいどうしたらいいの……?)
気付くと澄香の頬を涙が伝っていた。
「澄香さん、どうぞこれをお使いください」
見ると、白河が白いハンカチを差し出している。
「……あ……いえ、だ、大丈夫です……」
澄香がそう答え、巾着から自分のハンカチを取り出そうとしたその瞬間――。
「お待たせいたしました」
低く響く声に顔を上げると、そこにはコーヒーとカルピス、そしてホットケーキを盆に乗せた女給――ではなく、大柄な男が仁王立ちしていた。男の後ろからひょっこり小さな頭を出しているのは、トイレに行ったきり戻ってきていなかったハチ香である。
澄香は思わず足を止め、声の主の方を振り返る。
「ダメだよ、澄香! どうせ何かの罠に決まってる!」
ハチ香は握った澄香の手を懸命に引っ張っている。
「ハチ香……けれど、もし旦那様に何かあったのだとしたら……話を聞くだけでも聞いてみた方がいいと思うの」
「やめた方がいいよ! あの男は明莉の味方だ。どうせろくなやつじゃない! 澄香が傷つくだけだよ。早く帰ろう!」
その場で引っ張り合いをしているふたりの元に、白川が悠然とした足取りで近付いてきた。
「澄香さん、お時間は取らせませんよ。そして、そちらの可愛らしいお嬢さん、よろしければ美味しいホットケーキをご馳走させていただきますよ」
白河は柔らかな声でそう告げた。
ちらりとハチ香の方に目をやると、ホットケーキを想像しているのだろうか、なにやら上空を見やり舌なめずりをしている。
(……とにかく、この男の目さえ見なければいいのだわ。旦那様のことだけ聞き出して、早く帰ろう)
澄香は俯いたまま、わかりました、と答えた。
「では、そちらのカフェーに入りましょうか」
白河に促され店に入ると、平日の昼間だというのに座席の八割方は埋まっているようだった。
(……ここなら人目もあるし、危険な目に遭うということもなさそうね)
澄香はホッとひと安心する。
三人が案内されたのは、窓際の日当たりのよい四人がけのソファー席だった。
「……わたし日光に弱いんです……。ですので、すみませんがお隣よろしいでしょうか……」
澄香は勇気をだして白河の隣に腰掛けた。これなら男と目を合わせなくとも不自然に思われないだろうと判断してのことだった。
白河は、もちろんです、と短く答えると、メニュー表を手に取る。
「澄香さん、何になさいますか? ここは僕が持ちますので何でもお好きなものを頼んでくださいね。そして、お嬢さんにはホットケー……あ、まずお名前をお聞きしても?」
白河は正面に座っているハチ香に微笑みかけた。
「何でアンタにアタシの名前を教えなきゃいけな――」
「――ハ、ハチ香といいます」
今にも牙を向きそうな少女の口元に腕を伸ばしながら、澄香は慌てて答える。
「ハハハ、ずいぶんと威勢のいいお嬢さんだ。ハチ香さんは半妖ではなく、猫のあやかしが人間に変身しているといったところかな……?」
「……ど、どうして分かるのですか?!」
澄香は驚きに目を丸くするも、もちろん目線はテーブルに落としたままだ。
「まぁ、なんとなく……ね」
白河はそう言ってはぐらかすと、女給を呼んだ。
「ホットケーキひとつとカルピスをふたつ、それから僕にはコーヒーを」
「かしこまりました」
女給が白いエプロンの裾についた大きなフリルを揺らしながら去っていくと、澄香はさっそく口を開いた。
「それで、旦那様に関するお話って……」
「まぁ、そう慌てなくても――それにしても、澄香さんと明莉さんは姉妹だというのに、見た目も持っている雰囲気もまったく似ていませんね」
なかなか本題に入ろうとしない男の真意を掴めない澄香は、ジリジリと焦りを感じ始めていた。
(いっそのこと正面に座って目を合わせた方が、この男が何を考えているのかが分かってよかったかもしれない……)
失敗した、と澄香が嘆息したのと同じタイミングで、ハチ香がスッと席を立った。
「ホットケーキが焼けるまで時間がかかりそうだから、ちょっとトイレに行ってくるね」
そう言うと、体かがめるようにして、あっという間に店から出ていった。
「あの身のこなし……やはり猫のあやかしで間違いなさそうだ」
隣の白河は、ハッハッと楽しそうな笑い声を立てている。
「――先日あのレストランでお会いしたとき、明莉さんは澄香さんに対してずいぶん失礼な態度を取っていましたよね……。正直言って、彼女には幻滅しましたよ。もともと僕はああいう派手な女性はタイプじゃないですしね」
(一体何が言いたいの……? 隣になんて座るんじゃなかった……)
嫌な予感がした澄香は、失礼します、と言って、ハチ香が座っていた席へ移動した。
「おやおや、あなたを警戒させてしまったみたいですね」
白河はフッフッと小さく笑うと続けた。
「そうです。あなたが今感じていることは正しい。僕は元来あなたのような清楚でおしとやかな女性が好みなんだ。澄香さん、僕は明莉さんとは別れます。だから、僕と……僕と結婚を前提にお付き合いしてもらえないだろうか」
澄香は自分に注がれる熱のこもった眼差しを感じ、一刻も早くこの場を立ち去りたくなった。
「お話は、それだけでしょうか。わたしには旦那様という方がいらっしゃいますので、失礼致します」
俯いたままひと息に告げ、澄香は立ち上がった。
「――そんなことを言っていいのですか……? あなたの旦那様とやらは、あなたのためにとても危険なミッションに臨んでいるというのに」
鋭い声に射抜かれたように、澄香はその場から動けなくなる。
「……この先を聞きたいのなら、座ってください」
澄香はまるで操られているかのように再び腰を降ろした。体からはすっかり力が抜けてしまっていた。
「……危険なミッションって……何ですか……? わたしのためって……どういうことですか……?」
澄香は青い顔をしてテーブルを見詰めている。
「端的に言うと――」
白河はコップを手に取り喉を鳴らして水を一気に飲みほすと、言葉を継いだ。
「あの鬼神は、あなたの知らないところで命を賭けて闘っている。なぜか――。あの男にかけられている呪いを解くために。そしてその呪いとはおそらく、あなたと結婚するうえで障害になることなのでしょう」
えっ! と澄香は思わず顔を上げるも、男と目が合いそうになり慌てて下を向く。
「澄香さん……僕と結婚してください。僕の想いに応えてくれるのなら、代わりにあの鬼神にかけられている呪いを解いてさしあげましょう。僕にはその力がある。呪いさえ解ければ、あの鬼神は――相手はあなたというわけにはもちろんいきませんが――他の誰かと結婚し、幸せに暮らすことができるのですよ……」
男の話を聞きながら、澄香は懸命に頭の中を整理する。
(旦那様にかけられている呪い、それは『愛する者に接吻をすると、相手の寿命を削ってしまう』というものよね……。その呪いを解くために、旦那様はご自分の命を脅かすようなことをなさっているというの……?! そんな……旦那様、そんな危険なことはおやめください!)
嘘だ、というように手をこめかみに当て頭を振る澄香を、白河は何も言わずに見詰めている。
(……わたしが白河さんと結婚すれば、その呪いは解いてもらえる……。旦那様はもう危険なことをなさらずとも、どなたかを思い切り愛することができる……。その相手が、わたしではなくなるというだけ……。あぁ! 旦那様が他のどなたかを愛するだなんて! 想像しただけで胸が苦しい……。でも、わたしが旦那様にしがみついていたら、旦那様は命を落としかねない……。あぁ! いったいどうしたらいいの……?)
気付くと澄香の頬を涙が伝っていた。
「澄香さん、どうぞこれをお使いください」
見ると、白河が白いハンカチを差し出している。
「……あ……いえ、だ、大丈夫です……」
澄香がそう答え、巾着から自分のハンカチを取り出そうとしたその瞬間――。
「お待たせいたしました」
低く響く声に顔を上げると、そこにはコーヒーとカルピス、そしてホットケーキを盆に乗せた女給――ではなく、大柄な男が仁王立ちしていた。男の後ろからひょっこり小さな頭を出しているのは、トイレに行ったきり戻ってきていなかったハチ香である。