「『どういう意味』って、そのまんまの意味よ。頭が悪いわねッ! お姉様が嫁ごうとしている鬼神は花嫁の寿命を奪うってことよッ! 何も知らずにお気の毒なお姉様ァ~」

 明莉は可笑(おか)しくてたまらないというように、いまや身体をのけ反らして大笑いしている。

「まぁ、せいぜい残りの人生を楽しむといいわ! 無能で引きこもりのお姉様ァ~」

 歌うようにそう告げると、明莉は腰を振りながら御不浄を後にした。
 明莉が立ち去った途端、澄香はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。

(――『鬼に喰われる』、『寿命を奪われる』……いったい、どういう意味なの……?)



◇◇◇
 ――同日、鬼京グループ本社。
 トラブル対応に追われていた流唯の元に、たったいま堂元から『澄香様のご様子がおかしい』という報告が入った。
 百貨店で澄香と別れる前、流唯は堂元に澄香を鬼京家まで送るよう指示を出していた。
 堂元によると、澄香は百貨店の入口で流唯を見送った後、いったん店内に戻ったらしい。しばらくして姿を見せたときには、顔は青ざめ、足取りはおぼつかなかったという。車内でも終始無言であり、時折何かを呟いては頭をぶるると振る様子も見られたそうだ。

(俺と別れた後、澄香に何かあったことは間違いない。誰かに遭遇して何か言われたのか……)

 流唯はいてもたってもいられなくなり、自宅へと急ぐ。
 玄関を入るなり、多江が廊下をパタパタと急ぎ足で歩いてくるのが目に入った。
 胸騒ぎを感じ、どうした? と尋ねる。

「澄香様が、夕餉をまったくお召し上がりにならないのです……。『食べたくない』とおっしゃって……今はお部屋でお休みになられています」

 多江はため息まじりに告げた。
 流唯は着替えもせず、そのまま澄香の部屋へと向かい、トントンとドアを叩いた。
 ――が、返事はない。

「澄香、寝ているのか? 具合はどうだ。少しだけ顔が見たい……開けてもいいだろうか……」

 ドアに置いた腕に額を押し当てたまま、流唯は返事を待つ。
 しばらくして、どうぞ、というか細い声がした。
 流唯がそっとドアを開けると、部屋の明りは消えていて、ナイトテーブル上のランプだけが仄暗い光を放っていた。
 澄香はヘッドボードに背中を預け、なんとか座っているといった状態だ。
 少女の膝の上にはハチ香がいて、金色の瞳を光らせこちらをじっと窺っている。

「澄香……近くに行っても、構わないか」
 
 こくんと頷く澄香に、流唯はホッと安堵する。
 考えてみれば、澄香の部屋に入るのは初めてのことだ。

「夕餉を食べなかったそうだが……どこか痛むのか? それとも熱があるとか…?」
 
 額に手を当てようと流唯が腕を伸ばした瞬間、澄香はビクッと身体を震わせた。

「……すまん……こんな夜遅くに男が女性の部屋に入るだなんて、無神経だったな。多江に胃に負担のかからないものをこしらえさせよう。後で部屋に届けさせるから、せめてひと口だけでも食べておくれ……。そして、ゆっくり休むといい」
 
 流唯が(きびす)を返し、部屋を出ていこうとしたそのときだった。
 ウッウッとむせび泣く声が、背後から聞こえてきた。
 振り向くと、澄香が身体を二つに折り曲げるようにし、ポタポタと涙をこぼしている。
 流唯はすぐさま澄香の隣に腰掛けると、背中をゆっくりとさすり始めた。

「――よしよし……澄香、どうした? 俺が側にいるから、何も心配はいらないよ。俺がおまえを守ってやるから……」

 優しくそう囁くと、あろうことか澄香の嗚咽(おえつ)はますます激しさを増した。

(これは、逆効果だったか……。澄香は俺のことがまだ怖いのかもしれない……)
 
 そう思い、ベッドから腰を浮かせようとしたその瞬間。
 澄香が流唯のジャケットの裾を強く引っ張った。

(……まだ隣にいても大丈夫そうかな)

 流唯はふたたび腰を下ろすと、澄香の気持ちが落ち着くのを辛抱強く待つ。
 しばらくして、隣からぽつりぽつりと声が聞こえてきた

「――旦那様、ごめんなさい……。ご心配をおかけしてしまって……本当にごめんなさい」

 澄香は項垂(うなだ)れたままである。
 流唯は返事の代わりに澄香の手を優しく握る。

「――わたし、自分のことは信じられないけれど……旦那様のことは信じられる。そう思っていたのです。それなのに……」
「……それなのに?」

 流唯は優しく先を促す。
 澄香はそこで大きく息を吐くと、ひと息に続けた。

「旦那様、旦那様がわたしの寿命を奪うおつもりだというのは、本当なのでしょうか……」

 流唯は大きな石でふいに後頭部を殴られたかのような激しい衝撃を受けた。

「……」

 言葉を発することができず、ただただ俯く流唯。

「……旦那様ぁ……本当のことを、教えてください……」

 澄香は両腕を伸ばし、泣きながら青年の肩を強く揺する。
 流唯はそんな澄香の腕を優しく下ろすと、分かった、と呟き立ち上がる。
 そのまま窓辺へ向かうと、カーテンをそっと指で押しのけ、窓の外に広がる暗闇に目をやったまま語り始めた。

「……(ちまた)で俺が『冷酷な鬼神』と呼ばれていることは、おまえの耳にも入っているだろう?」

 澄香は一瞬ためらいを見せた後、首肯する。

「おまえがこの家に越してくる前、何十人にも及ぶ花嫁候補がこの家にやってきたのだが……彼女たちはみんな『恐れをなして泣きながら逃げ帰った』と聞いたのではないか?」
「……はい」
「あの女性たちがみんな泣きながら逃げ帰ったというのは本当だ。ただ、俺を恐れて泣いたわけではない」
「――え……?」

 澄香は思わず顔を上げて流唯を見る。

「おまえも覚えているだろう? 初めて会ったとき、俺はおまえの顔を見ようともしなかった。それは他の女性たちに対しても同じだった」
「……それは、なぜですか?」

 流唯は黙ったままナイトテーブルまで戻ると、ウォーターピッチャーを手に取り横にあるグラスに水を注いだ。
 一気に飲み干すと再び窓辺に向かい、カーテンの隙間から暗闇に目を投じる。

「それは……顔を見て……その人の雰囲気をこの目で捉えることで……ほ、惚れてしまわないようにするためだ――」

 流唯はそう言うと、カーテンを掴んでいない方の手でその美しい黒髪をくしゃくしゃとかきあげた。

「――それは……お相手を好きにならないために、わざと顔を見なかったということでしょうか」
「そうだ」
「……なぜ花嫁候補を好きになってはいけないのですか?」
「それは――」

 流唯は言いかけてゴクリと唾を飲み込むと、意を決したように澄香の方に身体を向け、口を開いた。

「お、俺は……惚れた女性に接吻をすると……相手の寿命を削ってしまうんだ……」
「――!!」

 澄香は目を見開き流唯を見詰めるも、青年は俯いたままだ。
 壁に掛けられている大きな時計の秒針がカチカチいう音だけが部屋中に響き渡っていた。