――日曜の朝。
「ねぇ、ハチ香。旦那様は今日スーツをお召しになるとおっしゃっていたから、わたしも着物ではなくてドレスを着ようかと思うのだけれど、どうかしら」
澄香はクローゼットを開けると、おびただしい数のドレスの前で目を忙しなく動かす。
「旦那様はどんなお色がお好きなのかしら?」
「知らなぁい。でもまぁ、男っていう生き物は、明るくてふわっとした感じに弱いんじゃなぁい?」
自分の前足をペロリと舐めてはそれを耳にこすりつけながら、ハチ香はさもどうでもよさそうに答える。
「『明るくてふわっとした感じ』かぁ――そうね、これはどうかしら?」
澄香は一着のドレスを手に取り、ハチ香に見せた。
それは華やかなレースがふんだんにあしらわれた春らしい浅紅色のドレスで、腰のあたりから裾にかけてふんわりと膨らんでいる。
(これなら、わたしの痩せっぽちな身体も目立たない気がするわ)
澄香はドレスを手に、うんうんと頷く。
「澄香が気に入ったのなら、それが一番いいと思うよ~フワァァ~」
ハチ香はドレスにちらりと目をやるも、大きなあくびをして早くも昼寝――いや、これは朝寝である――の体勢に入ろうとしている。
「もう、ハチ香ったらぁ」
愛猫を軽く睨むと、澄香は姿見の前でそのドレスを自分の身体に当ててみた。
(なんだかドレスに着られてしまっている気がする……わたしの地味な顔には華やかすぎるのだわ……)
澄香はドレスをクローゼットに戻すと、着慣れている水色のドレスを取り出した。
「それ、いつも着ているやつじゃない? 今日はせっかくのデェトなんだし、もっと華やかな服にしたらいいのに」
寝る体勢に入っていたはずのハチ香はなぜか目をぱっちりと開き、どうして? とでも言いたげに首をかしげている。
「――わたしは、これがいちばん落ち着くの」
そう言うと、澄香はクローゼットの大きな扉を静かに閉めた。
部屋の時計の針が午前十一時を指した。約束の時間である。
支度を済ませた澄香が落ち着かない気持ちで待っていると、ドアをノックする音に続いて多江の声が聞こえてきた。
「澄香様、お支度は整いましたでしょうか。若旦那様の側近の方がお見えです」
側近の方? と訝しみながらドアを開けると、そこには鬼京家に越してきた初日に応対してくれた黒スーツに黒レンズ眼鏡の男が立っていた。
「澄香様、ご挨拶が遅れ申し訳ありません。堂元と申します」
澄香が会釈を返すと、堂元は早口で話し始めた。
「今朝、社長――流唯様のことですが――に本社から『急な問題が発生した』との連絡がありまして、社長は本社に向かわれました」
(――旦那様が、お仕事に……。そ、そんな……)
想像もしていなかった事態に、澄香は思わずうなだれる。
そんな澄香の様子を見た堂元は、大丈夫ですよ、と意外にも優しい口調で言葉を継いだ。
「社長からは、澄香様を車で百貨店へお連れするようにと申しつかっております。さぁ、ご一緒に参りましょう」
黒レンズの奥の瞳は見えないが、理知的なすっきりとした口元は微笑んでいるようだった。
はい、と呟くと、澄香は一瞬振り返り、ハチ香の姿を探す。
愛猫はベッドの上で丸くなり、こちらの様子を密かに窺っているようだった。
目が合うと、ハチ香は金色の大きな瞳をゆっくりと閉じ、時間をかけて再び開いた。
――まるで、いってらっしゃい、とでもいうように……。
(うん! ありがとう。わたし、行ってくるね)
澄香は心の中でそう呟くと、そっと部屋のドアを閉めた。
玄関を出ると、そこにはピカピカ光る黒塗りの大きな車が待ち受けていた。
「では、鬼京百貨店へ向けて出発いたします」
運転席の堂元は、後部座席の澄香にうやうやしく頭を下げると、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(旦那様、お仕事の方は無事解決されたかしら……。またわたしのためにご無理をさせてしまっていたら、申し訳ないわ……)
嬉しいような申し訳ないような複雑な気持ちで窓外の風景に目をやると、明るく華やかな装いに身を包んだ女性たちが道を行き交うのが目に入った。
(わたしったら、旦那様の前で何度も着たことのあるこのドレスをまた着てきてしまった。あんなに華やかで美しいドレスをわたしのためにたくさんご用意くださったというのに……。代わり映えのしないわたしをご覧になって、旦那様ががっかりされたらどうしよう……)
澄香は無意識のうちに嘆息する。
堂元はそんな澄香をバックミラー越しに捉え、柔らかく問いかけた。
「澄香様、鬼京家にはもう慣れましたか?」
「――慣れた、とまではいかないかもしれませんが……。みなさん親切にしてくださいますし、旦那様にもとてもよくしていただいて……わたしなんかにはもったいないと思っております」
視線を落としたまま澄香は答えた。
「そうですか……」
堂元は前を向いたまま言葉を続ける。
「社長は二十五歳とまだお若いですが、本当に器の大きな方です。澄香様は十代でいらっしゃるとお聞きしております。どんなに些細なことでも、社長にご相談なさって甘えてしまえばよいのですよ」
はい、と返事をしながら顔を上げると、ミラー越しに堂元が口角を上げて微笑んでいるのが見えた。
(――ひょっとして……この人は、人間……?)
鬼京家でふだん接している『存在』は、みんな半妖であることから、澄香は堂元も半妖であると思い込んでいた。
しかし、堂元からは人間特有の脆さや儚さのようなものが流れてくるのを澄香は感じとっていた。
(でも、堂元さんの心の声は一度も聞こえてきていない……)
そこまで考えて、澄香はハッとあることに気付き口に手を当てる。
(……濃い黒色のレンズのおかげで目が合わないからだわ……!)
澄香はミラー越しに堂元を凝視する。
「澄香様、どうかなさいましたか……?」
「あ、あの……ふつつかなことをお尋ねしますが……」
「……はい」
「堂元さんは……ひょっとして、人間ですか?」
すると堂本はハハッ! と屈託なく笑うと「そうですよ。ご存知ありませんでしたか?」と答えた。
「あるパーティーで初めて社長にお目にかかったときに、『この方の元で働きたい!』と強く思ったんです。その後、お側でお仕えするチャンスがやってきまして、現在に至っている次第です」
ミラー越しの会話ではあるが、堂元が正直で誠実な人間であることを感じとった澄香は、「この人になら訊けるかもしれない」と思い、再び口を開いた。
「あの、旦那さまはなぜ『恐ろしい鬼神』などと言われているのでしょうか。こちらに越してくる前、実家の人間から『旦那様にはこれまで何十人もの花嫁候補がいたけれど、全員泣きながら逃げ帰ってきた』と聞かされました。でも、実際の旦那様はとてもお優しい方で……」
言葉を詰まらせる澄香に、堂元は優しく答える。
「社長は仕事となるととても厳しいお方で、確かに部下に恐れられています。でも社長の厳しさがなければ、今の鬼京グループはなかったと思います。花嫁候補のお嬢様方につきましては……おそらく社長のことを誤解されたまま出て行ってしまわれたのですよ……」
「――誤解、ですか?」
問いかける澄香に堂本は、僭越ながら、と前置きして続ける。
「澄香様には他のお嬢様方にはないものを感じております。どうか、本当の社長を見て差し上げてください」
(そんな……堂元さんはわたしを買いかぶっているわ……)
そう感じた澄香だったが、短くはい、と答えた。
会話が途切れると、澄香は再び窓の外を流れる風景に目をやった。だが、少女の頭の中は「『本当の旦那様』とは、どういう意味だろう」という疑問でいっぱいだった。
しばし思案に暮れていると、到着いたしました、という堂元の声がした。
車を降りると、そこには澄香の想像を五倍、いや十倍は上回る規模の建造物がそびえていた。
「こ、これが鬼京百貨店?!」
あまりの大きさに、澄香は目眩を起こしそうになる。
青空に映える美しい西洋建築に思わず見惚れていると、澄香、と自分を呼ぶ優しい声がした。
「ねぇ、ハチ香。旦那様は今日スーツをお召しになるとおっしゃっていたから、わたしも着物ではなくてドレスを着ようかと思うのだけれど、どうかしら」
澄香はクローゼットを開けると、おびただしい数のドレスの前で目を忙しなく動かす。
「旦那様はどんなお色がお好きなのかしら?」
「知らなぁい。でもまぁ、男っていう生き物は、明るくてふわっとした感じに弱いんじゃなぁい?」
自分の前足をペロリと舐めてはそれを耳にこすりつけながら、ハチ香はさもどうでもよさそうに答える。
「『明るくてふわっとした感じ』かぁ――そうね、これはどうかしら?」
澄香は一着のドレスを手に取り、ハチ香に見せた。
それは華やかなレースがふんだんにあしらわれた春らしい浅紅色のドレスで、腰のあたりから裾にかけてふんわりと膨らんでいる。
(これなら、わたしの痩せっぽちな身体も目立たない気がするわ)
澄香はドレスを手に、うんうんと頷く。
「澄香が気に入ったのなら、それが一番いいと思うよ~フワァァ~」
ハチ香はドレスにちらりと目をやるも、大きなあくびをして早くも昼寝――いや、これは朝寝である――の体勢に入ろうとしている。
「もう、ハチ香ったらぁ」
愛猫を軽く睨むと、澄香は姿見の前でそのドレスを自分の身体に当ててみた。
(なんだかドレスに着られてしまっている気がする……わたしの地味な顔には華やかすぎるのだわ……)
澄香はドレスをクローゼットに戻すと、着慣れている水色のドレスを取り出した。
「それ、いつも着ているやつじゃない? 今日はせっかくのデェトなんだし、もっと華やかな服にしたらいいのに」
寝る体勢に入っていたはずのハチ香はなぜか目をぱっちりと開き、どうして? とでも言いたげに首をかしげている。
「――わたしは、これがいちばん落ち着くの」
そう言うと、澄香はクローゼットの大きな扉を静かに閉めた。
部屋の時計の針が午前十一時を指した。約束の時間である。
支度を済ませた澄香が落ち着かない気持ちで待っていると、ドアをノックする音に続いて多江の声が聞こえてきた。
「澄香様、お支度は整いましたでしょうか。若旦那様の側近の方がお見えです」
側近の方? と訝しみながらドアを開けると、そこには鬼京家に越してきた初日に応対してくれた黒スーツに黒レンズ眼鏡の男が立っていた。
「澄香様、ご挨拶が遅れ申し訳ありません。堂元と申します」
澄香が会釈を返すと、堂元は早口で話し始めた。
「今朝、社長――流唯様のことですが――に本社から『急な問題が発生した』との連絡がありまして、社長は本社に向かわれました」
(――旦那様が、お仕事に……。そ、そんな……)
想像もしていなかった事態に、澄香は思わずうなだれる。
そんな澄香の様子を見た堂元は、大丈夫ですよ、と意外にも優しい口調で言葉を継いだ。
「社長からは、澄香様を車で百貨店へお連れするようにと申しつかっております。さぁ、ご一緒に参りましょう」
黒レンズの奥の瞳は見えないが、理知的なすっきりとした口元は微笑んでいるようだった。
はい、と呟くと、澄香は一瞬振り返り、ハチ香の姿を探す。
愛猫はベッドの上で丸くなり、こちらの様子を密かに窺っているようだった。
目が合うと、ハチ香は金色の大きな瞳をゆっくりと閉じ、時間をかけて再び開いた。
――まるで、いってらっしゃい、とでもいうように……。
(うん! ありがとう。わたし、行ってくるね)
澄香は心の中でそう呟くと、そっと部屋のドアを閉めた。
玄関を出ると、そこにはピカピカ光る黒塗りの大きな車が待ち受けていた。
「では、鬼京百貨店へ向けて出発いたします」
運転席の堂元は、後部座席の澄香にうやうやしく頭を下げると、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(旦那様、お仕事の方は無事解決されたかしら……。またわたしのためにご無理をさせてしまっていたら、申し訳ないわ……)
嬉しいような申し訳ないような複雑な気持ちで窓外の風景に目をやると、明るく華やかな装いに身を包んだ女性たちが道を行き交うのが目に入った。
(わたしったら、旦那様の前で何度も着たことのあるこのドレスをまた着てきてしまった。あんなに華やかで美しいドレスをわたしのためにたくさんご用意くださったというのに……。代わり映えのしないわたしをご覧になって、旦那様ががっかりされたらどうしよう……)
澄香は無意識のうちに嘆息する。
堂元はそんな澄香をバックミラー越しに捉え、柔らかく問いかけた。
「澄香様、鬼京家にはもう慣れましたか?」
「――慣れた、とまではいかないかもしれませんが……。みなさん親切にしてくださいますし、旦那様にもとてもよくしていただいて……わたしなんかにはもったいないと思っております」
視線を落としたまま澄香は答えた。
「そうですか……」
堂元は前を向いたまま言葉を続ける。
「社長は二十五歳とまだお若いですが、本当に器の大きな方です。澄香様は十代でいらっしゃるとお聞きしております。どんなに些細なことでも、社長にご相談なさって甘えてしまえばよいのですよ」
はい、と返事をしながら顔を上げると、ミラー越しに堂元が口角を上げて微笑んでいるのが見えた。
(――ひょっとして……この人は、人間……?)
鬼京家でふだん接している『存在』は、みんな半妖であることから、澄香は堂元も半妖であると思い込んでいた。
しかし、堂元からは人間特有の脆さや儚さのようなものが流れてくるのを澄香は感じとっていた。
(でも、堂元さんの心の声は一度も聞こえてきていない……)
そこまで考えて、澄香はハッとあることに気付き口に手を当てる。
(……濃い黒色のレンズのおかげで目が合わないからだわ……!)
澄香はミラー越しに堂元を凝視する。
「澄香様、どうかなさいましたか……?」
「あ、あの……ふつつかなことをお尋ねしますが……」
「……はい」
「堂元さんは……ひょっとして、人間ですか?」
すると堂本はハハッ! と屈託なく笑うと「そうですよ。ご存知ありませんでしたか?」と答えた。
「あるパーティーで初めて社長にお目にかかったときに、『この方の元で働きたい!』と強く思ったんです。その後、お側でお仕えするチャンスがやってきまして、現在に至っている次第です」
ミラー越しの会話ではあるが、堂元が正直で誠実な人間であることを感じとった澄香は、「この人になら訊けるかもしれない」と思い、再び口を開いた。
「あの、旦那さまはなぜ『恐ろしい鬼神』などと言われているのでしょうか。こちらに越してくる前、実家の人間から『旦那様にはこれまで何十人もの花嫁候補がいたけれど、全員泣きながら逃げ帰ってきた』と聞かされました。でも、実際の旦那様はとてもお優しい方で……」
言葉を詰まらせる澄香に、堂元は優しく答える。
「社長は仕事となるととても厳しいお方で、確かに部下に恐れられています。でも社長の厳しさがなければ、今の鬼京グループはなかったと思います。花嫁候補のお嬢様方につきましては……おそらく社長のことを誤解されたまま出て行ってしまわれたのですよ……」
「――誤解、ですか?」
問いかける澄香に堂本は、僭越ながら、と前置きして続ける。
「澄香様には他のお嬢様方にはないものを感じております。どうか、本当の社長を見て差し上げてください」
(そんな……堂元さんはわたしを買いかぶっているわ……)
そう感じた澄香だったが、短くはい、と答えた。
会話が途切れると、澄香は再び窓の外を流れる風景に目をやった。だが、少女の頭の中は「『本当の旦那様』とは、どういう意味だろう」という疑問でいっぱいだった。
しばし思案に暮れていると、到着いたしました、という堂元の声がした。
車を降りると、そこには澄香の想像を五倍、いや十倍は上回る規模の建造物がそびえていた。
「こ、これが鬼京百貨店?!」
あまりの大きさに、澄香は目眩を起こしそうになる。
青空に映える美しい西洋建築に思わず見惚れていると、澄香、と自分を呼ぶ優しい声がした。