先生の解散の号令と同時に、私は勢いよく席を立つ。やたらと分厚い塾のテキストをリュックに突っ込んで、真っ先に後ろのドアに向かった。
 十時間に及ぶ夏期講習がようやく終わった。十時間の部活ならあっという間なのに、今日は時計ばかり気にしていた。なかなか進まない時計の針、少し私語が聞こえただけで周囲を睨みつけるいきり立った他校生、机に伏せて寝ていたやる気のない同級生、目に映るすべてのものにイライラする。もう本当に疲れた。
 外はすっかり暗くなっていた。ロビーにでかでかと掲示されている難関大学の名前と、その隣の数字を一切目に入れないように、まっすぐ前だけを見て大股で進む。エントランスの自動ドアは私に反応せず、すぐに開かなかった。ドアに八つ当たりしたって仕方がないのに、叩き割ってやろうかと思った。これも全部、私に何の相談もせず、勝手に夏期講習を申し込んだお母さんのせいだ。

 お母さんは、私が強豪サッカー部のマネージャーを続けていることをあまりよく思っていない。入部してすぐの頃は応援してくれていたけれど、想像以上の練習のハードさに嫌気がさしてきたようで、合宿や遠征の日程を伝えるたびに、うんざりした顔をする。大会前は特に練習が増えるから塾には通えない、と何度も伝えたはずなのに、既に部活を引退した同級生たちと同じくらいの授業数を申し込んだせいで、今日のような久しぶりのオフの日に、むりやり授業を詰め込むはめになる。ただ数をこなすだけの夏期講習に、いったい何の意味があるんだろう。何事も集中力が大事だって、森田先生もよく言っているのに。
 朝からずっと冷房の真下にいたせいで、私の手足は保冷材のように凍りついていた。普段は鬱陶しくてしかたがない熱気も、今は真冬に入る温泉のように心地いい。塾のビルの駐輪場を出ると、すぐ傍の踏切の警報音が鳴りだしたところだった。慌てて自転車を漕ぎだしたが、今から渡ろうというタイミングで遮断機が降りてきてしまった。なにもかもツイてない。
 私はしかたなくスマホを取り出して、インスタグラムを開く。どくん、と心臓が鳴った。ストーリーズの投稿欄、私のアイコンの隣には、見慣れた緋色のユニフォームが並んでいる。朝陽がアイコンにしているこの写真は、二年前の試合で私が撮影したものだ。気に入ってくれているんだな。たったそれだけのことが、何度でも新鮮に嬉しい。
 朝陽はあまりSNSに興味がないようで、投稿するのは月に一回ぐらいだ。いつもなら更新に気づくなり飛びついているけれど、今日だけは別。今日の投稿内容は分かりきっている。絶対に、見ない。

「よお、理乃」

 隣から自転車のブレーキを踏んだ音がした。顔を上げると、ぱんぱんに膨れ上がったリュックを前かごに乗せた直弥が、
「一緒に帰ろうぜ」
と、私に声をかけてきた。
ああ、面倒な奴に捕まってしまった。私は不快感を顔に出さないよう、懸命に努めた。

「……別にいいけど。でも私、今日は寄り道しないからね」
「了解。まあ、明日は朝から部活だしな~」

 直弥は大あくびをしながら、組んだ両手を上にあげて伸びをした。
 快速列車が通過していき、遮断機が上がった。直弥に夏期講習の愚痴をぶちまけながら帰ったら、少しだけスッキリした。直弥も私と同じく、貴重なオフの日はほとんど夏期講習で埋まっているらしい。でも、私みたいに親に言われるがまま来ているんじゃなくて、夏休みに入る前から、時間を見つけては塾に立ち寄って自習室にこもっていたと言うから驚いた。部活も休まず出ているから、全然知らなかった。

「すごすぎない? 私、今はもう部活の事しか考えられないんだけど」
「別にすごくないよ。本当はスポーツ推薦で行きたいんだけど、正直俺じゃ厳しいだろうし」
「そうかな? 副キャプだし一校ぐらいは引っかかるんじゃない?」
「でも万年補欠だもん。この程度じゃ無理だよ」

 直弥はそんなに卑下するほどレベルの低いプレーヤーではないはずだけど。そう言おうとしてやめた。プレーヤーにはプレーヤーにしかわからない何かがあるんだろう。なんとなく、踏み込んではいけない気がした。

「てかさぁ、マジ不平等だよな。俺らは一日中塾に閉じ込められてんのに、朝陽は彼女とデートしてるんだぜ?」

 唐突に出てきた朝陽の名前にドキッとした。

「朝陽はいいよなぁ。アイツならいろんな大学から引っ張りだこだろ。もう勉強しなくていいじゃん」

 横断歩道を渡ろうとした途端に赤信号になった。今日はとにかく運が無いらしい。私の隣に自転車を並べた直弥が、「ねぇ、これ見た?」とスマホ画面を見せてきた。それは朝陽のインスタのストーリーズで、観覧車のゴンドラの中で顔を寄せ合った、咲那ちゃんとのツーショットだった。
……最悪。これだから、直弥には会いたくなかったのだ。
 私と直弥は家が近所で、帰り道はほとんど一緒だ。直弥は、私の愚痴や恋愛相談も親身に聞いてくれるイイ奴だ。でも、気が利かないというか、かなり無神経なところがあって、私の前でも平気であのカップルの話をする。リアルタイムの朝陽の様子はぜひとも知りたいけれど、咲那ちゃんとのあれこれは別に求めていない。わざわざ気持ちを沈ませたくないから、あえて見ないようにしていたのに。
 信号が青になった瞬間に自転車を漕ぎ始めた。私と並走する直弥は、塾に通いつめている自分よりも、部活に全力投球で塾なんて行っていない朝陽の方が成績が良いことを、延々と嘆いていた。さっきまでさんざん愚痴を聞いてもらったのに悪いなとは思いつつも、真剣に話を聞く気分になれなくて、適当に相槌を打って聞き流した。
 直弥と別れる曲がり角が見えてきた。私は少しだけ、自転車を漕ぐスピードを上げた。

「今日暑すぎるよな。アイス食わね?」
「いらない。今お金ない」
「そっか。じゃあ俺が奢るよ」
「今ダイエット中だからいい」
「お前いっつもダイエットしてんな」
「うるさい。てか、今日は寄り道しないって言ったじゃん」

 今のは言い方がきつすぎたかもしれない。恐る恐る横を見るが、直弥はまったく気にしていなさそうに片手を上げて、「じゃ、また」と颯爽と走り去っていった。直弥の呑気さに初めて感謝した。

 自宅に帰って、「今日の授業の復習、ちゃんとしなさいよ」というお母さんのお小言を適当に受け流しながらお風呂に直行する。お風呂から出て、言われた通り勉強……なんてするはずもなく、スマホを握りしめたまま勢いよくベッドにダイブした。
 サッカー部のLINEグループには、流行りの楽曲を熱唱しながら踊り狂う恭輔の動画が、いくつも送られてきていた。後輩たちは皆でカラオケか、お気楽でいいなあ。友達からのメッセージに返信をした後、私はいつものルーティーンでインスタグラムを開く。そして何を思ったのか、ストーリーズの投稿欄にあった朝陽のアイコンをタップしてしまった。
 十三時間前に、遊園地の入口の写真が投稿されていた。十一時間前には、リニューアルされたというアトラクションの待機列の写真。綺麗にネイルを塗ったピースサインの手が左下に映り込んでいた。うん、これは見なかったことにしよう。それから、直弥に見せられた観覧車でのツーショット。次は、メリーゴーランドで白い馬に跨る咲那ちゃん。不意打ちで撮られた無加工の写真なのに、おとぎ話に出てくるプリンセスみたいに可愛くて、なんだか悲しくなってきた。その後は、ライトアップされた大きな赤いジェットコースター、夕食に食べたのであろうおいしそうな料理の写真。そして最後は、メッセージプレート付きのケーキを持った咲那ちゃんと、机の上に置かれた紙袋の写真の投稿で終わっていた。
 今日も暑かったのに、咲那ちゃんの髪は全く乱れずサラサラだ。どうしてそんなに髪の毛が言うことを聞くんだろう。かわいい子は生まれつき湿気の影響を受けないし、汗の分泌量が少ないという決まりでもあるんだろうか。手鏡と折り畳みコームが手放せない自分が惨めで泣けてくる。ああ、やっぱり見なければよかった。
 スマホを枕元に叩きつけて、感情任せにタオルケットを頭まで被った。タオルケットを引っ張った勢いで、ベッドの上のぬいぐるみがいくつか落ちてしまった気配がしたけれど、それを拾う気力すらない。目をつぶると、すぐに眠気が襲ってきた。余計なことを考える暇もなく眠りにつけるのなら、夏期講習も案外悪くない、かもしれない。




 翌朝は、真衣からの電話で目が覚めた。大寝坊をかましてしまったのかと冷や汗をかいたけれど、スマホに表示されている時刻は朝六時半だった。今日の部活は九時半からで、まだ大丈夫なはずだ。どうしたのだろうと寝ぼけながら電話を取ると、すぐさま真衣の早口が襲いかかってきた。

「もしもし?  理乃、まだ家にいる?」
「え?  うん、いるけど」
「テレビ見て! 三番のニュース!」
「テレビ?  え?  何かあったの?」
「いいから早く!  ニュース終わっちゃうから!」
「あー、分かった分かった」

 私は眠い目を擦りながら部屋を出て、リビングに繋がる階段を降りる。だらだら歩いていたら真衣に急かされたので、もう一度理由を尋ねようとした。でも、それはできなかった。テレビの画面を見た瞬間、一言も声を発せなくなってしまったからだ。

 ______昨晩、咲那ちゃんが事故で死んだ。