第二グラウンドのフェンスの外には、今日も人だかりができていた。
制服を着崩した女子たちが、頭上にスマホを掲げて、一歩でも前に行こうと押し合いへし合いしている。必死に背伸びをしたところで、あんな大人数の隙間からでは、まともに姿も見えないだろうに。そもそもあの子たちの視界は、男子サッカー部のテントの屋根で遮られている。その場所から見える練習風景なんて、たかが知れているのに。
一学期最終日の今日は、今夏の最高気温を更新したらしい。そんな日に、あんな人混みに入っていくなんて正気の沙汰じゃない。見ているだけで熱気がまとわりついてくる。私は顔をしかめながら、不快感をタオルで拭った。
「理乃~! そっち終わった?」
ほうきとちり取りを持った真衣が、ロッカーの陰から顔を出した。私はハッとして足元を見る。青い表紙のスコアブックが、数冊床に散らばっていた。
「うわ、ごめん! すぐ終わるから!」
慌てて棚に入れる私を、真衣は肘で小突いてからかってきた。
「あ~、どうせまた朝陽に見とれてたんでしょ?」
「え?ち、違うよ! ちゃんと仕事してたもん」
「集中しろ理乃! 何事もな、集中力が大事なんだぞ」
「う~ん、53点かな」
「マジか、厳し~。確かに、もうちょっと掠れた声の方が近いかも」
「森田の物真似ガチ勢じゃん」
「あたしの特技、しょうもなさすぎる」
この二年半、ほぼ毎日顔を合わせているだけあって、私と真衣のやり取りは、漫才のようにテンポよく進む。真衣は、きつめの顔立ちからは想像できないほど、フランクでノリがいい。この部活に入らなければ、きっと話すこともなかったけれど、人は見た目ではわからない。
スコアブックの整理整頓が終わったので、私と真衣はロッカールームを横切って部室の外に出た。降り注ぐ西日は、身体を刺すように強い。それでも、熱がこもった空気の悪い部室に比べれば、息苦しさのない屋外の方が、まだ涼しく感じるぐらいだった。
クラブ棟の階段を下りている時、私たちに気付いた一年生マネージャーが、グラウンド端のテントから走ってきた。ドリンクの用意ができた、という報告にお礼を言って、後輩と共にテントに向かう。
「すみません、先輩たちに掃除やらせちゃって。あそこ、めっちゃ暑いのに」
吹き出る汗をしきりに拭う私を、後輩が心配そうに見る。私が首を振ると、真衣がすかさず口を開いた。
「大丈夫、理乃は部室の掃除が一番好きだから。部室の掃除をするためにマネージャーになったぐらいだし」
「えぇっ⁉ そうなんですか?」
後輩が素っ頓狂な声を上げて目を見開くので、私は呆れて真衣の背中をはたく。
「そんなわけないって。そうだ、いいこと教えてあげる。この真衣先輩はね、適当なことしか言わないから気を付けた方がいいよ」
「ちょっと、ひどくない? これは嘘じゃないじゃん。理乃は掃除やりたがってたでしょ。ほら、特に、窓がある用具庫からはよく見えるって――――」
「あー! だめだめ!」
にやにやしている真衣にとびかかって、大慌てで口を塞ぐ。
「それ以上は! 絶っ対にダメ‼」
「え⁉ 用具庫に何かいるんですか? 見えるって?」
興味津々な様子の後輩は、私たちとクラブ棟を交互に見比べた後、真剣な顔で囁いた。
「ひょっとして、幽霊、ですか?」
……そんなわけあるか。この子、多分、相当おバカだ。
テントに着いた。真衣たちと一緒に、用意されたスポーツドリンクと、洗濯した部員たちのタオルを一セットにして、机に並べる仕事をする。練習を終えた部員たちが、すぐに自分のタオルとドリンクを手に取って、休憩できるようにするためだ。
洗濯かごの中に、サッカーチームのロゴが入った青いタオルを見つけた。目を伏せ、スーッと息を吐く。丁寧に拾い上げたそれを、机の一番端、グラウンドから遠い奥の位置に、ひっそりと並べた。
部室の用具庫が好きなのは、私の特等席だからだ。用具庫の窓からは、第二グラウンドがよく見える。基礎トレも、練習試合も、練習終わりのストレッチも。百人以上いる部員全員の様子が見渡せる。
……そして何より、この青いタオルの持ち主、立光朝陽を目で追える。
メディアからも注目を浴びる、この美杜《みもり》学園高校サッカー部の絶対的エース。それに加えて、あの引き締まった身体にすらりと伸びた背、どの角度から見ても綺麗な、整った顔立ち。学校のアイドル的存在として名が知れるのも必然だ。
目を見張るようなボールさばきも、息を吞むようなシュートの精度も、試合を見ている彼のファンなら、誰でも知っているだろう。
でも、誰よりも早く部活に来て、基礎トレーニングばかりやっている泥臭さとか、チームメイトのプレイに明るく声をかける気遣い、プレッシャーに押しつぶされてもおかしくない立場でありながら、いつも涼しげで楽しそうな背中は、きっと、試合だけではわからない。
少なくとも、練習中の朝陽を一目見ようとフェンスの外で揉み合っているあの子たちが、その姿を知ることはない。私は、朝陽に片想いしている多くの女子たちの中では、一番彼の近くにいる。もう、それだけで満足だった。
顧問の森田先生が、力強くホイッスルを鳴らし、少し掠れた声で集合をかけた。グラウンドにいる部員たちが返事をして、小走りで戻ってくる。
ついに、勝負の時が来た。
私は、目の前の青いタオルとスポーツドリンクを見つめて、ぎゅっとこぶしを握った。
グラウンドから戻ってきた朝陽は、まず自分のタオルを探すはずだ。奥にあるのを発見して、私のすぐ近くまで取りに来るだろう。私はその時を狙って、とびきりの笑顔で「お疲れ様」と声をかける――――。
よし、完璧だ。あとはシミュレーション通りに行動するだけ。今日こそは、自分から朝陽に話しかける。絶対に、話しかける!
私は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
Tシャツを激しく仰ぎながら、朝陽がテント付近に来た。きょろきょろとタオルを探す朝陽の目は、私の目の前にあるタオルをとらえた。朝陽は安堵したように少しだけ表情を柔らかくして、まっすぐこちらへ歩いてきた。
私と朝陽の距離がどんどん近づく。あと五メートル、四メートル、三メートル……。よし、今だ!
鏡の前で練習した笑顔を作り、ドリンクを渡すため、机に手を伸ばした。
「朝陽、お疲れ――――」
「せーんぱいっ!」
私の手は、机の上で宙を切った。
「今日もお疲れ様です!」
「ありがと咲那。あーもう、マジ暑すぎ」
ドリンクは、二年生マネージャーの望月咲那によって、朝陽の手に渡された。
朝陽は、咲那ちゃんからドリンクを受け取るなり、一気に喉に流し込む。空のボトルを咲那ちゃんに返して、崩れ落ちるようにベンチに座った朝陽は、
「汗やばっ。ここでシャワー浴びたいよもう」
と、不愉快そうに顔をゆがめた。
咲那ちゃんは、その隣にちょこんと腰かけ、朝陽の肩にタオルをかけた。ハンディファンの風を当ててあげながら、疲れ切った顔の朝陽を見てクスクス笑う。笑われているのに、朝陽は満更でもなさそうだ。
「いいなあ。オレも彼女欲し~!」
その様子を見ていた二年生部員の戸村恭輔が、頭を抱えながら絶叫する。部員たちがドッと笑った。
恭輔はリアクションが大げさで、いつも笑いの中心にいる。でも、そんなムードメーカーっぷりが、今は少し鬱陶しい。
「おいキャプテン、練習中にイチャイチャすんなよ!」
朝陽を茶化したのは、私の幼馴染である榎下直弥だ。直弥の生き生きした顔にも、無性に腹が立つ。
「はあ? 別にイチャついてねーし!」
否定しようとして勢いよく立ち上がった朝陽は、テントの鉄骨に思いっきり頭をぶつけた。再び、部員たちから笑いが起こる。
「お前らっていつから付き合ってたっけ?」
うねった癖毛をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、直弥が尋ねた。
「去年の夏。明日で一年」
「へえ、もうそんなに経つんだ」
「明日は、朝陽くんと遊びに行くんです。楽しみ」
咲那ちゃんはそう言って、向日葵みたいな笑顔を朝陽に向けた。一瞬見つめ合った後、朝陽はほろりと優しい顔になる。
「うん、俺も」
恭輔たち二年生が、ヒュ~ッと口笛を吹いて騒ぎ立てた。朝陽はまた立ち上がって後輩たちを制したが、今度は両手でしっかり頭をガードしていた。
面白くない。実に面白くない。そして、あまりにも気まずい。
「……いつまで付き合いたてみたいなテンションなんだろ」
朝陽たちに背を向けて、皆が飲み干したボトルを回収し始めた私を、真衣が呆れた顔で諭す。
「ずっとラブラブなんて良いことじゃん。てか、マジでまだ引きずってんの?」
心の中で毒づいたつもりだったが、どうやら口から漏れていたようだ。
私は何でもないような顔をして、真衣の言葉を笑い飛ばした。
「もう、いつの話? 私、とっくに諦めてるって」
「……絶対嘘」
真衣はハァッとため息をつくと、大きく天を仰いだ。
「アンタって、ほんっとめんどくさいよね」
「嘘じゃないよ。だってあの二人、別れる想像できないじゃん」
横目でチラッと“あの二人”の様子を見る。隣に座る朝陽と咲那ちゃんは、心なしか、さっきまでより距離が近くなっている。朝陽が何か言うごとに、咲那ちゃんは鈴が鳴るようにころころと笑う。そんな咲那ちゃんを見て、朝陽は少し照れくさそうに微笑み返す。
完璧だ。悔しいけれどお似合いだった。二人の空気感は、ジグソーパズルのピースみたいに、ばっちりとハマっている。何度生まれ変わったって、私は近づくこともできない。そう言い切れるほどの眩しさだった。
「まあね、あたしもそう思うよ。でも理乃、さっき朝陽に話しかけようとして撃沈してたよね」
「ちょっと! 真衣、声デカいって!」
「あー、はいはい。理乃の方がよっぽどうるさいけどね。そんなに焦るってことは、やっぱ未練タラタラってわけだ」
返す言葉もなかった。
私は肯定にも否定にも取れるような曖昧な返事をして、練習で使っていたカラーコーンを片付けにグラウンドに走った。
朝陽と咲那ちゃんから、できるだけ離れた場所に行きたかった。そうしないと、窒息しそうだったから。
朝陽と咲那ちゃんが付き合いだしてから、ずっと、酸素の薄い部屋に閉じ込められているような気分だった。空中を漂う感情に縋りつこうとしても、輪郭の見えないそれは、余計に私を不安にさせた。
自分の気持ちが自分で見えなくなることが、これほど苦しいなんて知らなかった。毎日、いや、毎時間、毎分のペースで人格が入れ替わっているんじゃないかと思うほどに、私の心は一瞬の安定もなく揺れ続けていた。諦めよう、と決意した翌日には、また朝陽に恋焦がれている。もう、どうしようもなかった。
去年の春、咲那ちゃんがマネージャーとして入部してすぐに、朝陽は咲那ちゃんに惹かれはじめた。認めたくなかったけれど、あれは一目瞭然だった。誰に対しても明るくて優しい朝陽は、咲那ちゃんには格別に優しかった。そして、少し緊張していた。
それから、咲那ちゃんが朝陽を見る目に熱が帯びてくるまでに、大して時間はかからなかった。二人が一緒にいる光景は、皆の共通認識になり、そして、日常となった。
許せない、と思った。
全部をなかったことにしてやりたかった。
私の方が、先に朝陽と出会っていた。私が先に好きになった。私の方が、朝陽をよく知っている。私の方が、朝陽を大切にできる。私の方が、ずっと、ずっと好きだったのに。
醜いカイブツが、吐瀉物のようにせりあがってきた。悲しんでいるのか、悔やんでいるのか、怒っているのかもわからない。ただひたすらに許せなかった。いつかこのカイブツに心も体も支配されて、自分が人間ですらなくなるんじゃないかと怖くなった。この感情の名前なんて、考えたくもない。
咲那ちゃんは、どこにいても、花が咲いているみたいにぱっと目を引く。頭のてっぺんから足の先まで、全てが抜かりなく可愛い。そんな奇跡を詰め込んだようなルックスなんだから、せめて性格ぐらいは悪くあってほしいのに、皮肉なことに、中身まで完璧に可愛かった。咲那ちゃんの気さくな性格と、テキパキした細やかな気配りは、同じマネージャーとして尊敬できるところばかりだ。
私が知っているのは、朝陽のことだけではない。私は、私をよく知っている。
だから、痛いほど理解していた。
私は、絶対、この子に勝てない。
グラウンドに置かれていたカラーコーンは、すべて回収し終えてしまった。不自然にならない程度にゆっくり作業をしていたつもりだったけれど、時間稼ぎには不十分だったらしい。何か他の仕事がないか探していた時、森田先生が集合をかけた声が聞こえた。
テントの下で休んでいた部員たちは、すぐに先生の傍に集まっていく。朝陽が咲那ちゃんの隣を離れて、足早に向かう姿が見えた。
胸のざわめきがようやく収まった。私はホッとして、回収したカラーコーンを抱えてテントに戻る。二人の距離が遠くなっただけで、朝陽と咲那ちゃんが付き合っているという事実は、別に変わらないのだけど。
森田先生が、半円状に並んでいる部員たちに八月の練習日程表を配っていた。私も日程表を受け取って、部員たちの後ろに並んだ。
「一日は青南学園と合同練習、四日は狩野高校のグラウンドで交流戦を行う。そして七日と八日は……」
森田先生が日程表をかいつまんで説明する。八月のカレンダーは、ほぼ毎日、練習で埋まっていた。
「そして、月末からは選手権が始まる」
選手権。その一言で、場の空気に緊張が走った。
「今年の地区予選は、例年より激戦になると言われている。地区大会も気を抜くなよ」
部員たちの返事は、いつもより少し上ずっている。私も、無意識に背筋が伸びていた。
全国高等学校サッカー選手権大会、通称『選手権』。またの名を、『冬の国立』。
サッカーをしている男子高校生なら、一度は憧れる夢の舞台。
そして、私たち三年生にとっては最後の大会だ。ここで負けたら、高校サッカーは引退となる。
三年生だけでなく、後輩たちも、この大会に強い思い入れがある。もちろん、その気持ちは私も同じだ。
「私も、本気だ。お前らなら行ける。自信を持っていい」
森田先生は、部員一人一人の目をまっすぐに見ながら、強く言い切った。一見冷たく見られる、先生の鋭い眼光は、その奥に熱意と優しさを宿している。サッカー部の顧問がこの人でよかった、と毎日のように思う。
「恐れるなよ。全員で勝つぞ!」
「はい‼」
力のこもった地割れのような返事は、私の身体の芯まで揺さぶった。
ミーティングを終えた部員たちは、先程までより少し張り詰めた表情をしていた。百人以上の部員が、一斉にグラウンドに駆け戻る。そんな人混みの中でも、私の目は、すぐに朝陽を見つけ出す。専用のカメラが搭載されているみたいに、朝陽だけが、鮮やかにフォーカスされていく。
どんな時もキラキラしていて、圧倒的なカリスマ性とリーダーシップで人を惹きつける。部員の誰もが、朝陽に羨望の眼差しを向ける。彼はきっと、輝くために生まれた人だ。
フェンスの外からの黄色い歓声なんて気にも留めずに、練習に戻っていく朝陽の真剣なまなざしは、泣きたくなるほどかっこよかった。