早く地元に帰りたかった。一刻も早く、少しで愛琉の側でいたい。
 峻はリハビリが始まると、かつての部活動の時より熱心に取り組んだ。
「左脚の大腿四頭筋の負傷が酷くて、完全に元通りにはいかないかもしれない」
 そう説明を受けたが、また歩けるようになるならそれでいい。可能な限り、全力を尽くすのみだ。
 愛琉の命を託されたとも、少しずつだが考えられるようになってきた。
 リハビリは体の痛みと、思うように動かないもどかしさ。楽しいとか嬉しいという感情は持てないスタートであった。
 その上、このところ峻の集中を妨げる現象が頻繁に起こるのだ。
(また視線を感じる)
 リハビリテーションの窓の外から峻を見ている。いや、峻が見えている(・・・・・)と気付いていて、様子を伺っている。
 それは病室で見た顔色の悪い痩身の男性だ。
 ここにいる人の中で、彼が見えているのは峻だけだと思われる。そう、あの男性は死んだ人だ。
 おそらくこの病院で最期を迎えたのだろう。ブルーと白のストライプのパジャマはヨレヨレで、入院生活が長っかったことが簡単に想像できた。
 峻は霊感とは皆無の人生を送ってきた。なのにどういうわけか、事故をキッカケに見える(・・・)ようになってしまったらしい。信じがたいが、峻に見えているのはこの男性だけではない。病院に霊が多く存在しているという噂は本当だと、今なら証明できる。
 早く病院を出たい理由の大きな一つに、この霊たちから逃れたいというがあるのは確かだ。

 そんな峻をさらに驚愕される出来事が起きた。
 日課であるリハビリに向かう途中、不意に腕を掴まれる。振り返ると、あの男性がぐいと顔を寄せて口を開いた。
「ひっ……!!」
 車椅子ごと倒れそうになったのを何とか耐え、男性の手を振り落とす。男性は驚いたように消えてしまった。
 近くにいた看護師に声をかけられたが、幽霊に触られたなど言えるはずもなく「大丈夫です」と言うしかなかった。
「顔色が悪いわよ」
「いえ、手が滑ってビックリしただけです。リハビリに行ってきます」
 看護師は付き添いを買って出たが、断った。
 次に幽霊に反応してしまった時、誤魔化しようがないと思ったからだ。看護師と話をする間にも、幽霊は当然のように人の体をすり抜けていく。こんな光景をこれから一生見ないといけないなんて……峻は考えるだけで気が滅入ってしまった。
 この日のリハビリは全く集中できず、理学療法士から「疲れが出てるのかもね」と言われ、病室で休むよう言われてしまった。
(あの変な幽霊のせいで、時間を無駄にした。くっそ……今度出てきたら文句言ってやる)
 強がりでも悪態をつかなければやってられない。なるべく早く地元に帰らなければならない。
 愛琉の葬儀は、峻が意識を失っている間に終わってしまっている。お別れも何もできないまま、自分を納得させらるはずもない。
 なのにあの男性の幽霊は次の日も、その次の日も峻の前に現れた。
 腕を伸ばし、峻に触れようとしてくる。それを何とか交わしながら距離をとる。一日のうちに、何度も現れるようになると、さすがの峻も幽霊という存在に驚かなくなってきた。
 こちらから睨みつければ近寄ってこないとも気付いた。男性の幽霊を遠目に見つけては睨みを利かす。
 とはいえ、幽霊も不思議なほど峻に執着するように来る日も来る日も姿を見せる。
(もしかして、俺の体を乗っ取ろうとしてるとか?)
 そんな真似はさせない。移動の際は気をつけなければと気合を入れる。
 
 しかし幽霊はついに峻の病室に来てしまった。
 リハビリが終わり、疲れてうたた寝をしてる時だった。次に看護師が来るのは夕方以降のはずだった。なのに、あの時と同じように腕を掴まれた。感触だけでそいつだと分かった。体温のない、力むこともない、ただ少しの圧がかかるだけの感触。
 峻はベッドから飛び起きたいくらいだったがまだ万全ではないこの体では目を見開くだけで精一杯だった。
 それでもこちらを覗き込んでいる男性を睨みつけ「何しに来たんだ」と唸るように威嚇した。
「と……も、だち」
「は? 何?」
「とも……だちに……」
 ゾクリと背中が戦慄いた。
 もしかして、友達になってくれと言おうとしているのか。やはりこの幽霊は峻の体を狙っている。
「や……めろ……。やめろぉーー!!」
 思い切り突き飛ばす。
 幽霊の男性は窓に向かって飛びながら姿を消した。
 肩で息をしている。
「やっつけたのか」
 幽霊をやっつけるなど、除霊でもしなければ無理な話だろうが、この時の峻にそんなことを考える余裕はない。
 震える自分の手を見つめる。
「助かった? 俺、助かった……よな……」
 幽霊になんてなってたまるか。生きて帰って愛琉の墓参りに行かなければならない。行って、謝らなければならない。
 自分だけ、助かってごめんと。

 幽霊の男性は、それ以降忽然と姿を見せなくなった。