結果的に茅冬に一緒に来てもらったのは正解だった。特に移動中は愛琉と喋ることは出来ない。
 普段なら周りの人にバレないようにヒソヒソと話をしているが、春休みで大勢の人がいる中、独り言を言っているとも思われたくなかった。茅冬と二人で話し続けているのには、愛琉は不服そうにしていたがこればかりは仕方ない。
「じゃあ、ここから別行動ってことで。明日の夕方四時に待ち合わせな」
「本当にありがとう茅冬。もし何かあった時は連絡する」
 駅前で茅冬と別れると、その足で旅館へと向かった。本来なら夏に泊まる予定だった温泉旅館。広いエントランスに天井からは大きなシャンデリアがキラキラと輝いている。落ち着いたボルドー色の絨毯の上を歩きながらチェックインをするために受付カウンターを視線で探す。
『綺麗だな。当たり前だけど写真と同じだ』
「ようやく夢が叶ったな」
 何度も話し合った二人で旅行する夢。旅館の女将にお礼がしたいと伝えると、受け付けの人は呼び出してくれた。
「夏に泊まる予定だった者です。事故に巻き込まれて突然キャンセルしてしまい、すみませんでした」
 お辞儀をして謝罪すると、女将は顔を上げてくださいと言って歓迎してくれた。夏の事故の情報はすぐにこの旅館にも入っていたらしく、宿泊客のキャンセルは他にも数組あったのだと教えてくれた。
「でも、お友達は亡くなられたのですね」
「はい。俺を助けようとして……本当に優しい友達でした。だから、どうしても行かなきゃいけないって思ったんです」
「こうして元気な深瀬様の姿が見られて、本当に嬉しいです。精一杯のおもてなしをさせて頂きます」
 女将が深々と頭を下げた。
 部屋に通されると、想像していた何倍も綺麗で広くて、露天風呂までついている。高校生が泊まるような旅館ではないが、学生でなければ出来ない贅沢のような気もした。
『峻、もう喋ってもいい?』
「大丈夫だよ。もうスタッフの人も出て行ったし」
 愛琉はうんと背伸びをして雄叫びのように声を発した。
『俺には黙っているなんて無理だわ』
「ごめんごめん。念には念をで黙っておいた方が良いだろう? それにしても、ここに泊まる予定だったなんて。改めて考えると思い切ったよな」
『本当に。家族で泊まるような部屋じゃん。露天風呂、入りたかったな』
「今から入ろうよ」
『だって、峻は一緒に風呂入るの嫌なんだろ?』
「そりゃ家の狭い浴室で見られてるだけなんて、羞恥心で何も出来ないよ。でも今日は特別じゃん」
『本当に!? でも俺は服脱げないし、入ったところで気持ち良さなんて分からないけどな』
「良いの良いの。こういうのは雰囲気と気持ちが大事だから」
 峻は荷物の整理もそこそこに、勢いよく服を脱ぐとお風呂にそっと足を入れてみた。
「良い湯加減」
 まだ肌寒い夜、少し熱めの湯はほのかに硫黄の匂いがして、なんかしら体に良さそうに感じる。愛琉を隣に誘うと、半信半疑でお湯に体を沈めた。
『あぁ〜! いい湯なんだろうな〜!』
「本当に、極楽〜」
 二人同時に腕を上に伸ばす。
『なんとなく温かい気がするよ』
「だろ?」
 得意げに笑う。
「今日、やっぱり来て良かったって思った。愛琉との思い出を過去に流すなんて俺には出来ない」
『俺、峻が好きで良かった。毎日毎日楽しくて、こんな姿になっても変わらず接してくれて。旅行も実現してくれた。本当に、何もかもありがとう』
「照れるよ。愛琉って雰囲気に流されるタイプだっけ?」
 不意に愛琉が黙り込む。
 胸騒ぎがした。愛琉が良からぬことを言い出すのではないかと。なんとなく峻から離れていきそうな気がして、峻は必死で会話を繕う。愛琉は返事をしながらも、思い詰めた表情は変えなかった。
「愛琉……?」
『峻、俺決めた』
「そ、そう言えば、写真と同じだと夕食も豪華そうだよな」
『ねぇ聞いて』
「明日はいっぱい歩くから、今日はしっかり休まないと。後で予定の確認しなくちゃ」
『峻っ!!』
 目を伏せている峻の肩をガッチリと掴み、愛琉と向き合わせた。
「……嫌だ。聞きたくない」
 温泉に浸かっているにもかかわらず、峻は顔色を失っていく。愛琉が決意したことが峻にとってよくない内容であるのは確定したようなものだった。唇が震え、焦りは募るばかりでこの場を誤魔化そうにも何も思いつきもしない。愛琉から意地で視線を逸らし、聞き入れられないと態度で示すので精一杯だった。
 愛琉はそっと峻の胸に手を添えた。
 緊張と不安で心拍数の上がっている鼓動を感じとっているのだろうか。目を閉じて、峻の心臓の音に耳を澄ましている素振りを見せた愛琉が、静かに呟く。
『……生きてる』
「めぐる?」
『峻は、ちゃんと生きてる』
「何が……言いたいの」
 聞きたくないと言いながら、真相を促す言葉を返してしまったことを直後に後悔した。愛琉は今までで一番優しく微笑み、瞳を潤ませた。
『峻が生きてて、突発的に変な能力を持って、こうして再会できて告白も成功した。それだけじゃなくて旅行する夢まで叶った。充分すぎる時間を、俺は与えてもらった気がするんだ。でも峻が頑張って生きてるみたいに、俺も頑張らないといけないことがあるって思うんだよね』
「……ない……ないよ、そんなの。ずっと一緒にいるって約束したじゃん」
『約束した。だから、その為に俺も前を向かなくちゃ』
 愛琉はいつから考えていたのだろう。この逃れられない問題を、もしかすると再会したあの瞬間から、覚悟していたのかもしれない。そんな素振りを見せたことは僅かにもなかった。峻は愛琉の楽天的な態度を間に受け、深く考えもしなかった。こんな時になって頭を鈍器で殴られたように現実を突きつけられた。
 愛琉は死んでいるのだ。
 理解していたつもりだったが自分の都合のいいように解釈し、いつまでも、大人になっても一緒にいられるのだと勝手に思い込ませていた。愛琉が次に口を開いた時、きっとその言葉を口にする。決意が揺らがないよう、必死に涙を堪えている愛琉を、峻は抱き寄せた。
「嫌だ。嫌だよ、愛琉」
 最後の抵抗に、先に峻の瞳から涙が溢れ出す。このまま踏みとどまってくれないかという期待も虚しく、愛琉は震えた声で言った。
『旅行から帰ったら、今度こそ成仏する』
 やっぱりか……と思ったが、言葉が出てこない。
 愛琉は峻を抱きしめ返した。
『別れるんじゃない。こうして峻と二人で過ごして、やっぱり生きて峻の隣にいたいって思った。触れても、体温までは感じられないのが悔しくてもどかしくてやるせなかった。だから俺は、最短で生まれ変わって峻に会いにいく。次こそ離れなくても良いように』
 愛琉の決断を応援したい。それでもなかなか頷けなかった。エゴで背中を押してあげられない自分に腹が立つ。それは重傷を負っても生きていた自分と、命を落としてしまった愛琉との価値観の違いを表しているようなものだ。結局、峻は生きているということに驕っている気さえし、今度は後悔の念が押し寄せる。
「何も考えてなかった自分がムカつく。愛琉だけを悩ませてたなんて」
『そうじゃないよ。俺が峻を好きすぎるってだけだ。どんな反応が返ってくるのか怖かったけど、真剣に考えてくれて嬉しかったよ』
「直ぐに、逝っちゃうつもり?」
『そうだな。決意が揺らだ分、生まれ変わるのに時間が掛かるのは困るから』
「どのくらい掛かるの?」
『都市伝説だと早くて三年とか? 信憑性はないけど。でも流石の矢武さんでも知らないだろうな。一応、明日会えたら聞いてみるか』
 明日は病院にもお礼を言いに行こうという計画になっている。峻ももし矢武に会えれば、謝罪をするつもりでいた。すっかりいつも通りになった愛琉のお陰で、徐々に冷静さを取り戻してきた峻はようやく愛琉を送り出す覚悟が決まった。
 お風呂から出ると、浴衣に着替えのんびりと翌日の予定を確認しながら夕食までの時間を過ごす。午前中のうちに病院に行き、その後は巡るハズだった神社や店をいくつかピックアップしている。茅冬との待ち合わせ時間が夕方四時だから、全部は回り切れない。
「急いで制覇するより、じっくり堪能したい」という意見が合致し、優先順位と地図を確認する。

 翌日、病院に行くと担当医には会えなかったが、世話になった看護師とは会うことができた。みんな峻の姿に喜んでくれたのが嬉しかった。峻が看護師と話している間、愛琉は矢武を探しに離れていた。
 挨拶を終え、手土産を渡した峻がエレベーターへと向かうと、そこに愛琉と矢武が談笑していて同時に峻に視線を向ける。周りに人がいないのを確認し、峻から話しかけた。
「あの、入院中は失礼な態度をとってすみませんでした」
『大丈夫。怖がらせた、ごめん』
 矢武は友達と会えて良かったと柔らかく微笑んだ。こうして見れば怖さは感じない。あの頃は幽霊が見えたばかりで、冷静ではなかったのだ。愛琉とは輪廻転生について話していたらしいが、矢武も詳しくないとのことだった。成仏した人にしか知り得ないということか。
 病院を出るとそのままバスに乗り観光へと出かけた。一先ず愛琉の成仏の件は忘れるよう努め、楽しむことに意識を向ける。沢山を写真撮ってカメラフォルダーに収めた。ただそこには峻も愛琉も映っていない。カメラを愛琉に向けた時、何も映し出されないことを実感したくなかった。愛琉の今の姿は記憶に焼き付けておく。色褪せないように。
 
 その後、茅冬と合流し地元へと帰った。
「このまま、愛琉の墓に行く」と言うと、茅冬も全てを悟ったらしく複雑な心境を口にした。
「でも愛琉が決めたことなら、反対はしない」
 茅冬は新幹線の席に座ったまま膝の上で拳に力を込めた。峻と愛琉が決めたことに自分の意見を言いたくないのだと伝わってくる。
「霊園までは同行させて」と言って、駅を降りて荷物を抱えたまま移動する。
 入り口で茅冬は待っていてくれた。
 愛琉の墓に来るのは二回目だ。今日は騒がしく感じる。人魂は近くを飛び交っているし、墓の影から何人かの顔がこちらを覗いている。
『みんな俺が帰ってきたから驚いてるんだろな』
「うん……」
 愛琉の冗談を可笑しく返せない。これで本当に終わってしまう。緊張と寂しさと悲しさに押しつぶされそうなのを必死で耐えている。
 遂に墓の前まで来たとき、愛琉はとびきりの笑顔を見せた。
『峻も笑ってくれ。最後の記憶はお互い笑ってたいから』
 愛琉は多くは語らないと決めていたようだ。ここで時間を惜しむほどに離れられなくなるのを自覚している。一秒でも引き止めたい峻だったが、愛琉に従い無理矢理笑った。同時に大粒の涙も溢れて、ぐちゃぐちゃの感情を向けてしまった。こんな下手くそな笑顔でも愛琉は喜んでくれ、さらに破顔して笑った。
『じゃあ、またな!』
「愛琉……めぐる!!」
 手を伸ばしても愛琉はするりと躱し墓石の中へと消えた。
 辺りは静まり返っている。周りの墓から心配そうな視線を感じる。もしかすると愛琉が消えればこの能力も消えるんじゃないかとも考えたが、そうではないらしい。
 その場から動けなくなってしまい、墓の前にへたり込む。最後の愛琉の笑顔が脳に焼き付いている。自分ももっと笑えば良かった。消えるまで泣くのを我慢すれば良かった。「またね」とか「待ってるから」とか、かける言葉は色々あったはずなのに、何一つ伝えられなかった。
 泣いて泣いて、ひとしきり泣いた後、墓を見上げる。
「なぁ、愛琉。俺は後悔ばかりだ。だから、リベンジしたいから、愛琉を思い切り笑わせたいから、絶対、絶対、俺のところに帰って来てよね」
 地面に水の跡が水玉模様を描いていく。墓を濡らし、峻の髪も服も濡らしていく。雨は少しずつ勢いを増していたが、どうしても体が動かなかった。
「峻!! 風邪引く」
 慌てて駆け寄った茅冬が、峻に傘を差してくれた。
「峻、笑え。ちゃんと笑って愛琉を安心させてやれよ。でないと、あいつ成仏しようにも出来ないだろ。誰よりも過保護なんだから」
 持っていたタオルで峻の顔をガシガシと拭き「もう泣くの禁止」と強めに言ってくれたお陰で、なんとか気を気を持ち直せた。
「行こう」
 力の入らない脚を奮い立たせ立ち上がる。次に会う時には強くなった自分でいたい。今度こそしっかりと笑顔を見せ、家路に着く。
 雨は通り雨だったようでやがて止んだ。
 茅冬と並んで歩く目の前に、大きな虹が輝いている。
 愛琉から峻に贈る、最後のプレゼントのように感じた。