にゃー"

ん?
僕は振り返った。
微かに猫が鳴く声がしたから。

でも、目の前に現れたのは、向日葵みたいな黄色いスカートを履いた女の子だった。

「ねぇ?なに、読んでるの?」
突然そう聞かれて、すぐに返事ができなかった。
「ねぇ、それなぁに?」
彼女がのぞき込んできた
「ぇ、あ、いゃ…学校のテキスト…だけど」

"嘘だ…本当は母さんの遺した日記だ"

「へぇ~、ボロボロだね。勉強好きなの?」
「いや、そういうわけでは…」
「なんだ、そっか。教えてもらおうと思ったのに。」
「…ごめん…」
僕は俯いて、そっと背に隠した。

彼女は僕のとなりに腰をおろすと、目を細めて川を眺めていた。

川面が陽ざしを反射してキラキラ輝く。

"誰だ?同じ学校の子?なんだ突然?"
僕の頭の中では「?」がぐるぐる回っている。
チラッと彼女の横顔を見たけれど、まったく検討がつかない。

恐る恐る聞いてみる。
「ぁの…同じクラスだっけ?」
彼女は振り向くと笑顔で答えた。
「ちがうよ」
「ぇ…ちがうの…か…ぇえーっと…」
僕が困惑しているのを見て彼女は笑った。
「あははっ笑。私、ジジ。」
「ジジって…」
「私の名前だよ」
「ぁ、そう…なんだ」
「うん。」

変わった名前…
こんな子いたかなぁ…
あ!海外から来た、とか?

僕は十数年この街に住んでいるし、この川辺には毎週のように来てるのに、見かけたことがない。

「こうやって見てると、穏やかで綺麗な川なのにね。」
彼女は、ボソッとそんなことを呟いた。

「え?」

さっきまで明るかった彼女の顔が少し雲って見えた。

「私ね、昔、この川で流されそうになったの…。あの日は大雨の後で水嵩が増してて、でも晴れてたから、当時の私は何にも知らなくて…。」
彼女が話す言葉は、だんだん僕の記憶を10年前のあの日に引き戻した。


あの日、僕は駅から家まで堤防の道を母さんと歩いていた。
雨の続く毎日で、またいつ降り出すか分からないからと、僕は母さんに合羽を着せられていた。だから、動くたびにガサガサしてちょっと歩きにくかった。
川は、降り続いた雨のせいで水位がいつもより上がっていて濁っていた。6歳にもなって手を繋ぐなんて恥ずかしくて、始めは拒んだけれど、母さんはしっかり手を握ってきた。母の手は温かかった。

"わぁ~ん、ぁ~、ぅ、わぁ~、待ってぇ"

突然、そんな声が聞こえてきた。
女の子が泣いてる。
僕は、声がした方を振り返った。

"どうしたの?"

母さんは僕の顔の前で、人指し指を左右に動かした。
僕は母さんから手を離すと
『声』『女の子』『泣いてる』
と、なんとか覚えている単語を示して、川の方を指差した。
母さんはすぐに理解してくれたようで、川辺の方を見渡した。
そして、僕を振り返ると、一ヶ所を指差した。

母さんの指の差す方にいたのは、川の方を見て泣きながら、手を伸ばしているおさげの小さな女の子だった。
手を伸ばした先には、木の切れ端に必死に捕まっている小さな黒猫がいた。

流れが早い。

「お母さんっ!」
呼び止めた声は、母には聞こえない。
母は走って堤防を下りていき女の子の肩を抱くと、すぐに近くに落ちていたトタンの端くれで、猫の捕まる木をたぐりよせようとした。
僕も走ってようやく追い付いて、母の横に立った。
女の子は泣き止んで、じっと見つめていた。
母は洋服が汚れるのも気にせず膝まづき、両手を伸ばしている。何度か近くまで来ては押し流されを繰り返した。猫も必死でしがみついていた。

「んぁっ」

言葉にならない母の声が聞こえた。

一瞬だった。

トタンから猫は岸へ飛び移り草むらへ走って逃げていった。

母は・・・濁流にのみ込まれた。

「勇希」

母に呼ばれた気がして川に入ろうとした僕を、がっちり抱きとめる腕があった。

「ダメだ」

また横で、おさげの女の子は泣き出した。

「イヤだ、いやだ、はなして! お母ぁぁ~さん・・・」



その後のことは正直あまり記憶にない。

消防車や救急車のサイレンが鳴り響いて、知らない大人たちが騒がしかった。

空は暗く鈍よりとしていて、ゴオーゴオーと濁流が流れる音が耳に残っている。

おまわりさんに連れていかれ、いろいろ質問されたけれど答えられていたか分からない。

気が付いたら、見覚えのある男の人と女の人に連れられて、どこかの家に来た。膝を抱えたまま動こうとしない僕を抱き締めて、女の人が「大丈夫だよ」と言ってくれた。母の声に似ていた。


あれから10年が経つ。


そのとき迎えに来てくれたのは、母の実妹夫婦で、政子おばさんと敬さんだ。

その頃子どものなかった2人は、僕のことを実の息子のように迎え入れてくれた。

政子おばさんは僕のことをよく知っていて、たぶん母から聞いていたのだろう、毎晩夕食には僕の好きなおかずが並んだ。

敬さんは休みになると、公園でサッカーの相手をしてくれた。

夏休みにはよくどこかへ旅行に連れて行ってくれたりもした。

学校の行事には2人揃って参加してくれて、僕は他の子供たちとなんら変わらない小学生活を送れていた。

ただ、僕の名字は母の名字のままだった。クラスメイトからは“捨て子”だとか心無くからかわれたりしたけれど、名前を変えることは母を忘れてしまうように思えた。2人は何も言わなかった。


ポタッ



“ん?”

僕は後ろに立てかけてある自転車を見た。サドルに雨のまあるい跡が付いているのが見えた。

雨だ。空を見上げると、さっきまで晴れていた空に、いつのまにか灰色の雲が広がっていた。

慌てて立ち上がって母の日記をポッケに突っ込んだ。

そして、ふと横を見て、彼女がいなくなっていることに気が付いた。彼女が座っていたところにはきれいに折りたたんだハンカチが置かれていた。スカートと同じ色の黄色いハンカチ。僕は、そのまま置いていけず手にとった。

"また会えたら、渡そう"

自宅に着いて、自転車をガレージにしまう。
走っているうちに、かなり濡れてしまった。
"また、おばさん、心配するな…"

「ただいまぁ」

玄関をそっと開けた。
すると、パタパタパタ、奥から早足でくるスリッパの音がした。

「勇くん!どこ行ってたの!ずぶ濡れじゃない!」
「こらっ!ゆう兄!ママを心配させちゃダメでしょ!」

政子おばさんの後ろから、ひょっこり顔をだし、おばさんと同じ口調で叱ってきたのは5歳の杏奈だ。おばさんと敬さんの本当の子。
僕が中学生のときに生まれてきた。
おばさんたちと同じように、僕のことを兄とし受け入れてくれている。

「ごめん、ごめん」
僕はダブルで怒られて苦笑いをした。
「ほら、すぐシャワー浴びてきて!」
「はーい」


シャワーから上がると、居間の掃き出し窓に2人が張り付くようにして外を見ていた。
「雨、ひどくなってきた?」
僕は冷蔵庫からお茶を出しながら、声をかけた。

「ちがうよ、猫ちゃん」
「え?猫?」
「そうなの、勇くん。あのこ、ずっとガレージから動かないの。」

僕が窓からガレージを見ると、まるまっていた猫の耳がピクピクと動いた。そして、横たわっていた猫は起き上がると、こちらに向き直り「ニャー」と鳴いた。
まるで、僕を待っているみたいだった。

僕は咄嗟にタオルを頭にかけ、庭に出ると、猫に近寄った。

「にゃー」

もう一度、彼女は小さく鳴いた。

僕が後ろを振り返ると、政子おばさんが「うん!」と頷いた。
それを確認して、僕はかけていたタオルで猫を包んで抱き上げた。
彼女は僕の腕の中で丸まって目を閉じた。




―新学期-

「あれ?勇希、お前、名前変わったの?」

「あ、うん。夏休み中に・・あ、オレ、これからは小川だから、よろしく」

「あ、そう。」

クラスメイトでずっと小学校から同じヤツに聞かれて、ちょっと言葉に詰まった。心臓がドクドク言っている。なんだって彼は、おばさんたちと名字の違う僕を詰ってきた張本人だからだ。

また何かいわれるのかと少し身構えた。でも、彼は“あ、そう”それだけだった。

ずっと過去に囚われていたのは僕一人だったのかもしれない。


あの日、ヒマワリみたいな黄色いスカートの彼女にあった日、僕の家にやってきた猫は我が家の家族になった。動物病院で診てもらったところ、メスの10、11歳くらいだとのこと。人間の年齢にかえたら、おばあちゃんだ。
大きな病気やケガはなかったけれど、やせ細って、雨に濡れて汚れていた。

僕が体を洗って杏奈がかわかし、ミルクや柔らかいキャットフードをあげた。毎日2人で世話をした。少しずつ少しずつ、彼女は夏休みが終わる頃にはすっかり元気になって、家の中を走り回れるくらいになった。

そのあいだ、僕はもう一つ、毎日していたことがあった。あの川の堤防へ黄色いハンカチを持って通った。なぜか彼女に会って、猫の話をしたかった。

けれど、あの日以来、彼女に会うことはなかった。


夏休み最終日、もう毎日、あの堤防に行くことはないだろうから、僕は黄色いハンカチを猫の首に巻いた。黒く艶やかな毛に黄色はお月さまのようだった。

「ねえ、ゆう兄、まだ名前決まらないの?もう“ネコちゃん”はいやよ。あたし、笑われちゃう。」

猫の名づけの権利を杏奈とジャンケンで決めた。もう高校生の男子が保育園児に真剣勝負とは大人げないかもしれないが、どうしても譲りたくなかった。

「じゃあ、ジジ」
「え?女の子なのに、ジジ?」
「そう、ジジ!な、ジジ」

僕はそう言って、彼女を抱き上げた。
また彼女は「ニャー」と答えた。


朝から雨降りのある日、ジジは部屋の端っこで震えていた。
僕は彼女を膝のうえに乗せてソファに座ると彼女に「大丈夫だよ」と声をかけ背中を撫でた。
そのままい、うとうとしてしまった。

「勇くん?どうしたの?」

肩をたたかれ、はっと目が覚めた。

心配そうに僕をのぞき込む政子おばさんの姿があった。おばさんは買い物袋を床に置きながら「どうしたの?」ともう一度きいた。

僕の頬には涙の跡があった。


夢に母が出てきた。何年ぶりだろう。

母は当時のままで、小さい僕の手をしっかり握りしめていた。
母の手は温かかった。

「勇希、ごめんね。今までよく頑張ったね。もう大丈夫だよ。」

母はそう言っていた。言葉の話せない母がはっきりとそう言っていた。僕は泣いた。

押し殺していた寂しさからなのか、もういいんだという安堵感からなのか分からないけれど。

僕がひとしきり泣いた後、母の後ろから彼女が現れたんだ。

「ジジ・・・」

彼女は母に背中を押され僕の前に立つと頭を下げて、こう言った。

「勇希、ごめんね。勇希のお母さん、私の代わりに死んじゃった。私、こうして生きてるよ。ずっとずっと謝りたかった。お母さんに勇希の居場所、教えてもらったの。これからは、私が勇希のそばにいるよ。」

母とジジは微笑んだ。



そのとき、肩をたたかれ僕は目が覚めた。

心配そうな政子おばさんと膝の上で安心して寝ている黒猫のジジ。

政子おばさんが僕を抱きしめてこう言った。

「もう大丈夫だよ」

「…母さん…」
僕の目はまた涙でいっぱいになった。


それから、しばらくして、僕は政子おばさんと敬さんに話をした。名字を小川に変えると。

ちょうど4人で夕飯を囲んでいるときで、2人はあんぐり口を開けたまま固まってしまった。

「なに?」

僕は、そんな2人の様子に内心イラっとして、ぶっきら棒にきいた。

敬さんが口を開いた。

「無理…しなくていいんだよ」

「無理じゃないよ。っていうか、ずっと無理してきた。素直になりたい。」

僕は箸を置き、敬さんの方を向き直り頭を下げた。

敬さんは「ありがとう」そう言って、僕の頭をくしゃくしゃっと撫でてきた。

「なあに?杏奈も~」

まだ難しい話は分からない妹を母はにこにこしながら抱っこした。



ピンポーン

始業式も終え帰宅し、ジジと猫じゃらしで遊んでいるとチャイムが鳴った

「はーい」

僕はジジを片手に抱き、玄関のドアを開けた。

「え?」

そこには、クラスの中でも“陽キャ”の存在の女子が立っていた。

“なにか用事?”と言いかけた僕を遮って、彼女が叫んだ。

「アーッ!!やっぱり、朝柄のじゃーん。」

「え?」

「あ、ほら、これこれ。この猫の写真。裏に“ジジ”って書いてあるじゃん。この字、朝柄っぽいな~って思って届けにきた。ほら、このニャンコ、この子でしょ?」

女子は僕が抱いてるジジを指さした。

その途端、ジジはするりと腕から降りて家の中へと消えていった。

「あ、ありがとう」

「うん、どういたしまして。」

彼女は突っ立ったままだ。

「…ん?」

「あ、いや、えーと、じゃあ、また明日ね!」


それが、彼女・水帆との始まりだった。


翌日から水帆はよく話しかけてくるようになった。僕は“陽キャ”でもないし特段目立つようなタイプではなかったのに、水帆はすぐに僕をみつけては駆け寄ってきた。

帰宅方向が偶然にもいっしょで、ときどき一緒に帰るようにもなった。

「朝柄、テスト勉強してる?」
「ちがう、小川!」
「あ、ごめん」
「別にいいよ。テスト、まあまあかな」
「このあいだ、英語の小テスト100点取ってたよね?」
「なんで知ってるの?」
「ふふふ、私の情報網を甘くみるでない。前の定期テスト20番内に入ってたでしょ」
「はー?こわッ。貼りだされるん10番までじゃん」
「へっへ。いいな~頭良いの。あたし、保育士になりたいんだよね~。こう見えて子供好きでさ。でも、勉強きらーい 笑」
「ふーん、そうなんだ。」

水帆がチラッとこちらを見たのがわかった。
なにか言いたそうだ。
「なに?」
「あー…えっとさ…勉強教えてくれたりしませんか?」
「ぇえ?僕が?」
「お願いっ!今度、ニャン吉カフェ、奢るから!」

"ニャン吉カフェかぁ~…それは行きたい。街で唯一の猫カフェだもんなぁ"

「ん~…仕方ないなぁ。でも、上手く教えられるか…」
「いい!ユーキが教えてくれるなら、なんでも上手!やった!じゃあ、次の日曜ね!」
あっという間に、彼女は約束を決めてしまった。

そんなこんなで日曜はやってきた。

ピンポーン

チャイムが鳴った。
「はーい」
僕は横で香合座りをしていたジジを抱き上げようとした。なのに、またもやジジは上手く交わして行ってしまった。
僕は仕方なく、一人、玄関に向かった。

「どうぞ」
「ありがとう。お邪魔しまーす。」

水帆は家に上がると、廊下をキョロキョロ見渡した。
「どうしたの?」
「あれ?今日は、猫ちゃんいないの?」
「いるよ。さっきまでソファで寝てたけど、どっか行った」
「そうなんだ。」
「さ、どうぞ」
僕は部屋に案内した。
「失礼しまーす」
「適当に座って」
「あ、うん。ありがとう。」
「あ、そうだ、これ。母親から。都屋のパイ。ユーキのお母さん、好きってきいたから。」
水帆は持っていた紙袋を差し出した。
「ぁ、ありがとう。」
「ぅ、うん」

……

2人の間に、わずかな間ができた。

"ん?なんか不味いこと言ったかな?俺…

そのときだった。

「にゃーん」
ジジの鳴き声がした。

「え?いるの?あ、ユーキ、これ、猫じゃらし」
彼女の足元に、ジジのお気に入りが落ちていた。
「使ってい?」
「うん。」

彼女はカバンを置いて、猫じゃらしをフリフリしながら声をかけた。
「ぉーい、猫ちゃん、どこ~」
「名前、ジジだよ」
「あ、そっか。男の子?」
「いや、女の子」
「え?そうなの?女の子なのに、ジジぃなんて、飼い主さん、失礼ね~、どこ~?」
「ジジぃじゃないよ、ジジ!」
僕はちょっとムッとした。

「にゃー?」

はっ!2人が目を合わせた。 

「こっちから聞こえたよね」
「うん」
「ジジちゃ~ん」
2人でソファの下を覗きこんだ。

一生懸命探している水帆を見て、こんな時間がずっと続けばいいな、と、ふと思った。


ジジに出逢って、僕の毎日が変わり始めたんだ。