家にいづらくなるといつもここに来る。
眼前に流れる渡竜川は僕らの住む町を東西に分けていて、岸辺はバーベキューができる河原や野球やサッカーのグラウンド、学生が生き物や植物の観察ができるようなエリアが整備されている。
しかし僕がいつも訪れるのはそんな人が集まりそうな場所ではなく、川にかかる橋の下。川に向かって作られた段差が座るにはちょうど良く、日陰になっているそこで読書をするのが休日の午前中の習慣となっていた。
そんな習慣ができて約半年。高校二年生の夏休みも残り一週間となった八月の酷暑の日、家にいづらいからといってわざわざこんな場所に来るのには理由がある。
きっかけは一年前、超巨大台風により渡竜川が氾濫したことだ。
渡竜川という名前の由来はその昔、川の流れる様がまるで竜が天を渡るようにうねっていたからということらしく、水害が多発していたため長い年月をかけて流れを直線に近づける工事が行われ、それに伴って様々なアクティビティができるように整備されてきた。ということを渡竜川流域の小学校の授業で必ず習うらしい。父親が転勤族だった僕は昨年の台風の一ヶ月ほど後に初めて聞かされた。それはもう得意気に。大変な目にあったというのに全くめげている様子もなく、はつらつとして、いつも目で追っていた姿そのままで、懇切丁寧に凪は教えてくれた。
工事をしていたと言っても想定外の自然災害相手には人間の無力さを痛感することしかできず堤防は決壊、川の西側地域は大量の泥水に飲み込まれた。数えきれないほどの建物が床上浸水し、堆積した泥を掻き出して清掃をしても居住を続けることができない住宅も数多くあり、引っ越しを余儀なくされた住民もいたらしい。
河西凪とその母すみれさんもそんな家庭の一つで、住んでいたアパートが居住不可能な状態になってしまい、十月になる直前に川の東側にあるマンション、僕と父が住む三〇二号室の隣の三〇三号室に二人で引っ越してきた。
「こんにちは。隣に越してきた河西です。つまらないものですが……」
大きな爪痕を残した台風が過ぎて一ヶ月。未だに終わらない復興の様子を中継している日曜の昼のテレビ番組を見ている時に来訪者がやってきた。
「水害で前に住んでいたところが駄目になってしまって、今まで仮設住宅に住んでいたんですけど運良くこのマンションに入れることになりまして……」
河西すみれと名乗ったその女性と玄関で話をしていた父に呼ばれ僕も挨拶に行くと、すみれさんの横に僕の高校の制服を着た女子生徒がいた。愛想の良い微笑みを浮かべて背筋をピンと張った綺麗な姿勢で清楚に佇んでいる。見慣れた制服なのに自分の家に制服を着た女子がいるというのは違和感があって緊張したが、その緊張は凪の顔を見るとさらに高まった。緊張以外の何かも胸の中で蠢いていた気がする。
河西凪は隣のクラスにいて、派手さはないが清楚な見た目と落ち着いた佇まいで密かに狙っている男子生徒が多い女子生徒だった。僕もそのうちの一人で入学当初に一目見た時から気になっており、隣の教室の前を通る時には必ず中をちらっと覗いて探してしまうほどには凪のことが好きだった。
だが接点は全くと言っていいほどなく、入学式からこの日までは、凪の教室の前を通りかかった時に中を覗こうとした瞬間、教室を出てきた凪とぶつかりそうになり「あ、ご、ごめん」「こちらこそ、ごめんなさい」というやり取りをしたことがあるだけだった。初めて目が合った、目が大きい、まつげ長い、肌綺麗、髪も綺麗、声も綺麗、何故だか良い匂いがする。あの時のあの瞬間は今も忘れられない。
接点がなかったのに名前を知っているのは、噂に聞き耳をたてたり隣のクラスの座席表を覗き見たりするなどの熱心な情報収集のたまものだ。
そんな憧れだった凪が目の前にいる。隣の部屋に引っ越してきた。緊張しているかどうかも分からなくなるほどに緊張していて何も話せない僕の代わりに父が僕のことを紹介してくれた。
「こちらは息子です。娘さん、えっと、凪さんと同じ高校の一年生です」
「あら、そうなんですか? この子も一年生なんです。凪、ご存じ?」
「うん、隣のクラスの川東守君。川東君、これからよろしくお願いします」
そう言って僕に向かって丁寧に頭を下げる凪に対し、僕はどぎまぎしながらなんとか頭を下げ返した。
「同じ学校に行くんだから一緒に行こうよ」
次の日の朝、玄関のドアを開けると凪が待っており、顔を合わせるなりこう言い放った。昨晩は緊張と興奮であまり眠れなかったが、緊張と興奮を上書きすることで眠気は吹き飛んだ。
僕らが通う高校は渡竜川の西側でも浸水被害を免れた場所にあり、僕は自転車通学だったが凪は徒歩。凪に合わせて僕は自転車を押して歩いた。
「自転車、買わないの?」
何か話題をと思って絞り出したつまらない質問を僕の二歩前を歩く凪の背中に投げかけると、凪は振り返って後ろ歩きをしながら答えた。
「それも考えたんだけどね。こういう風に歩くの好きだから、いらないかな」
「こういう風にって、後ろ歩きが好きなの? 変わってるね」
そんなわけないだろう。でもこれがこの時の僕にできる最大限のユーモアだった。
「ふふっ。川東君って面白いね」
凪は僕のくだらない冗談にも笑ってくれた。それだけで、僕も笑顔になった。
それからお互いに自己紹介をし合った。昨日の挨拶の時、休日なのに姿が見えなかったし話題にも出なかったからなんとなく互いに察していたが、僕の母は僕が三歳の時に病気で亡くなっていること、凪の父親は凪が生まれる前に交通事故で亡くなっていることを打ち明け合った。
僕らの間には妙な親近感が生まれた。
そして最近落ち着いたようだが僕の父は転勤族であり、今住んでいる町には中学二年生の時に引っ越してきたことを告げると凪は渡竜川のことを詳しく説明してくれた。
さらに凪が台風による被害のことや約一ヶ月の仮設住宅での暮らしのことを話し終えたところで僕史上最も楽しい通学路はゴールを迎えた。
通学に通常の二倍以上の時間がかかったがこの日は日直の仕事をするために早く家を出てきていたので遅刻とはならなかった。日直の仕事ができなかったペナルティで通常一日交代のところ今週一週間毎日日直の仕事をしなければならなくなったが、後悔などあるはずもなかった。
「同じマンションに帰るんだから一緒に帰ろうよ」
読書が趣味の僕は放課後は専ら図書室で区切りの良いところまで本を読んでから帰るのだが、本を読み始めて十五分ほどたった時に静かに、さりげなく、気配もなく隣に座った凪に声をかけられた。
「読み終わるまで待ってるよ」
凪はそう言って僕の隣で自分も本を読み始めたのだが、僕の胸は読書どころではないくらいに高鳴っていたため、今日は読書の気分じゃないと言って凪と一緒にすぐに帰ることにした。
放課後に図書室にいるなんて凪には言っていない。下駄箱の位置は今朝知ったから僕がまだ学校にいることが分かって探してくれたのだろうか。そこまでして僕と一緒に帰ろうとするなんてまるで凪は僕のことを……。図書室から下駄箱まで歩く間にそんなことを考え、今こそが人生の絶頂期なんて思っていたのだが、凪が下駄箱から出したまだ真新しいローファーを見て考えを改めた。
入学から一学期の間履いていたローファーは泥水に浸かってしまったから新しい物に買い替えたのだ。明るく振舞っていても凪は大変な被害を受けていて、無理をしている可能性だってある。不安を抱えているのではないか。そもそも今日は凪にとって新しい家からの初めての登校日。慣れない道を少しでも安心して歩くためにちょうど隣の家にいた僕を頼っただけではないか。
浮ついてはいけない、と自分の心の帯をギュッと締め直した。
そんな僕の決意とは裏腹に僕と凪、正確には川東家と河西家の距離は急速に近づいた。
僕の父は河西親子が引っ越しの挨拶に来た時に「困ったことがあったら何でも言ってください」と言っていたようで、その言葉通り、次の休日にすみれさんを車に乗せてスーパーに買い物に出かけて行った。すみれさんの車は水没してしまってまだ買い替えていないとのことで、父は嬉しそうにすみれさんの足となっていた。仮設住宅の時はすぐそばにスーパーがあったらしい。
その代わりにすみれさんは川東家のキッチンで夕食を作ってくれた。
いつも忙しいながらも作ってくれる父の料理をまずいと思ったことは一度もない。なかなか言葉にはできていないが感謝している。だけどこの時食べたすみれさんの料理は僕の中にあった料理に対する価値観を塗り替えるほど美味しくて、父共々その虜になってしまった。
そして当然ではあるがすみれさんと凪も一緒に食卓を囲んでいた。
「河西さんは毎日こんなに美味しい料理を食べられるの、羨ましいよ」
何気なくそう呟くと正面で食事をしている凪がまじまじと僕の顔を見つめた。と思うと、少しだけ眉間にしわを寄せて首をひねり出した。
「名前で呼んで欲しいな。お母さんも河西さんなんだし。私も名前で呼ぶから」
「う、うん。分かった」
その後は絶品料理たちの味に没頭し、父やすみれさんがどんな表情をしているのかを確認することはしなかった。いや、できなかった。
それから休日は毎回のように四人で夕食を共にした。
毎日凪と登下校をして、休日は夕食を共にする。とても不謹慎なことではあるのだが、渡竜川が氾濫したおかげで結果的に僕は凪と仲良くなることができた。
そんな生活が二ヶ月以上続き、父とすみれさんは買い物以外にも二人で出かけることが増えた。
「私のお母さんと守君のお父さんっていい感じだよね」
クリスマスを控えた二学期の終業式の帰り道で、凪が言った。
「守君もそう思わない?」
肩にかかるくらいの美しい髪の毛先と口元をすみれさんが手編みしてくれたというマフラーに埋めながら、凪は隣に並んで歩く僕を見上げる。隙間から漏れ出る白い息でさえも魅力的で、見えなくなるまで目で追ってしまった。
「聞いてる?」
結局凪と一緒にいると気持ちが浮ついてしまうのは直せていない。楽しくて、嬉しくて、幸せで、だから僕も凪と同じことを考えていたのだが、その意味についてはこの瞬間までしっかりと考えていなかった。
「ごめん、ちゃんと聞いてたよ。仲が良いことは良いことだよね。今はお互い独身なんだし見守ってあげようよ。僕はすみれさんが母親になるなら賛成かな」
「そうだよね。私も守君のお父さんみたいな人がお父さんになってくれたら嬉しいし、お母さん、ずっと一人で私を育ててくれたから幸せになって欲しい。それより二人が結婚したら私たち兄妹になるね。守君の方が誕生日早いからお兄ちゃんって呼ぼうか?」
「え?」
「あ、顔真っ赤。照れてるんだ」
「い、いや、寒いからだって」
「守お兄ちゃーん、冬休みの宿題やって欲しいなー。だめぇ?」
「うん……いや、駄目だよ。ちゃんと自分でやらなきゃ」
「迷ったね。今度から守君に何かお願いする時は妹モードでいこうっと」
それからしばらく歩き、凪と別れて自宅に入ると急に現実が押し寄せてきた。
父とすみれさんが結婚するということは妹かどうかはともかく僕と凪は家族になるということだ。
仕事が忙しい上に転勤族で様々な苦労がありながらも男手一つで僕を育ててくれた父の幸せを願っているのは凪と同じだ。優しくて料理上手でかすかに思い出に残る母に少し似ているすみれさんが新しい母になることに反対する理由などない。それらは紛れもなく僕の本心で、心の底から二人が結婚することになったら祝福したいと思っている。
それなのに、その本心とは別にもう一つの本心が僕の心に巣食っている。
凪のことが好きだ。恋人になりたいと思っていた。そしていつかはその先、家族という関係にだってなりたいと思うほどだった。
だけど僕らは、僕が望んでいたのとは違う形で家族になってしまいそうだった。
父から大事な話があると声をかけられたのはその日の夕食後、片付けを終え、凪とすみれさんが帰ってすぐのことだった。
「すみれさんと真剣に交際することになった。ゆくゆくは結婚したいと思っている」
僕は驚きもせず「応援する」と返した。
父は幸せそうに微笑んだ。
クリスマスイブにはいつもより豪勢な夕食を用意して四人でパーティーをした。
料理は父も僕も凪も手伝って、まるで本当の家族のように幸せな時を過ごした。
この日を境に夕食だけでなく昼食も共にするようになり、父はすみれさんの料理を手伝うようになった。川東家のキッチンで僕の目の前で仲睦まじそうに料理をする二人。本当に幸せそうで、僕も幸せだった。
でも、二人の仲が良ければ良いほど僕と凪が望まない形で家族になる時が近づいていることを僕に痛感させた。幸せなはずなのに、その光景を見るのがつらくなって、二人が料理をしている時には家から逃げ出すようになった。
初めのうちは冬だったこともありカフェや図書館など暖かくて静かで本が読める場所に行っていた。
三月に入って少しずつ外の気温も暖かくなってきた頃、たまには別の場所に行ってみようと自転車を気ままに漕いでいると渡竜川に架かる橋の下辺りに見慣れた後ろ姿を見つけた。
「凪さん」
背筋をピンと張った綺麗な姿勢で清楚に佇んでいる凪の背中に声をかけると、凪は振り返る。
春風に髪がなびいて、その髪を手で抑える仕草に何度目か分からないくらい惚れ直した。
「守君、どうしたの? こんなところに」
「それはこっちのセリフでもあるんだけど……僕はどこかで読書をしようと思って、カフェや図書館は飽きてきたから良い場所ないかなって探してたんだ。そうしたら凪さんを見つけた」
「そういえば、お昼前になるといつもどこかに出かかてたよね。読書してたんだ」
「いつもお昼ご飯だよって連絡してくれて感謝してるよ」
「いえいえ、それほどでもないよ」
「それより、凪さんはどうしてここに?」
「あったかくなってきたから散歩してたんだ。それであんまり人には言えないことを考えてた」
「人に言えないこと?」
凪は再び振り返って渡竜川の穏やかな流れを見つめた。
「私、今すごく幸せなの。川が氾濫したせいで今の状況になったっていうのに、それを幸せに感じてていいのかなって。私よりももっとつらい思いをして、今も苦しみ続けている人がいるかもしれないのに」
「凪さんが前を向けている証拠だよ。他の人に言うのが憚られるとしても僕には言ってくれていい。だって僕は……」
凪の家族になるんだから。家族には他人に言えないことを打ち明けて構わない。
言葉の続きは出てこなかった。
四月に入り僕と凪は二年生になり、クラス替えの結果僕らは同じクラスになった。川東家と河西家の詳しい状況など学校が知る由もなく、ただのお隣さんと認識されていたようだ。
一年生の頃から毎日一緒に登下校をしていたことから僕と凪は交際しているのではないかという噂が流れていたが、四月からすみれさんが僕のお弁当も作ってくれるようになり凪と僕のお弁当がまったく同じ中身であることがクラスメイトに気づかれた結果、その噂は決定的なものとなった。
凪が笑顔で肯定するものだから僕と凪はクラス公認のカップルということになった。
嬉しいはずなのに心の底から喜ぶことができなかった。
凪の意向で父にもすみれさんにもこのことは言っていない。
学校でも家族ぐるみの付き合いをしていて本当に家族になりそうだということは言っていない。
恋人らしいことと言えばなんとなく呼び捨てで呼び合うようになったことと、休日の午後に二人で出かけるくらいしかしていない。キスはおろか手も繋いでいない。
凪の真意が分からない。
僕らの関係にこの先はない。
父がすみれさんにプロポーズをしてすみれさんは受け入れた。
その報告を聞いたのが高校二年生の夏休みも残り一週間となった八月の酷暑の日。すみれさんは苗字を川東にすることを望んでおり、そうなると凪の苗字も川東になってしまい、いらぬ詮索を受けてしまうかもしれないということで籍を入れるのは僕らが高校を卒業してからということになった。転勤が完全に落ち着いた様子の父は今から新居の計画を立てている。
僕を男手一つで育ててくれた父と、凪を女手一つで育ててくれたすみれさんが結婚する。僕も凪も心の底から祝福している。
まだ一年半も先の話だ。でも、確定してしまった。僕と凪は兄妹になるのだ。
父とすみれさんが二人でお昼ご飯の準備を始めたのを見て、僕は家を出た。自転車を漕いで渡竜川の岸辺に行き、川に架かる橋の下の日陰で凪がそろそろお昼ご飯だよという連絡をくれるまで読書をするのだ。
それがささやかな現実逃避だ。
目が疲れたら川の流れを見る。
お前が暴れるからこうなったんだぞ、と心の中で恨み節を呟く。
気持ちを伝えられないまま、気持ちを確かめられないまま、どうしようもないところまで流されてしまった。
川の向かいにいた大好きな人と近づけたのに、川よりも大きな距離が開いてしまった。
せめて凪が僕のことをどう思っていたのか、それだけは訊いておけば良かった。
ズボンの右ポケットに入れていたスマホが震えた。凪からのメッセージだ。
【もうすぐお昼ご飯だよ】
【ありがとう。今から帰るよ】
いつもの連絡にいつも通り返す。本当に恋人というより家族みたいなやり取りだなと自嘲していると追加でメッセージが来たのでやり取りを続けた。
【いつものところ?】
【うん】
「お水、あったまっちゃってるんじゃない?」
静かに、さりげなく、気配もなく隣に屈んだ凪が言った。
凪とは反対側の隣に置いてあった天然水入りのペットボトルは日陰から飛び出して灼熱の太陽を浴びていた。本を読み始めた時には日陰に置いていたはずなので、太陽の位置が変わり日陰の位置も動いたのだろう。
「どうしたの? 迎えに来るなんて初めてじゃない?」
「お母さんと守のお父さんが婚約したから、私も守に言っておきたいことがあって」
凪は屈んだ状態のまま視線を僕にぶつけた。日陰で分かりにくいがほんの少しだけ顔を赤らめている。大きくて綺麗な瞳に見つめられるとドキドキする。
僕にはもうその資格はないというのに。
「連れ子同士って結婚できるんだよ」
凪は得意げに微笑んだ。
抱えていた鬱屈した気持ちは川の水に流されたようにどこかに消え去った。
顔に感じる熱は、熱中症のせいないことは確かだ。
眼前に流れる渡竜川は僕らの住む町を東西に分けていて、岸辺はバーベキューができる河原や野球やサッカーのグラウンド、学生が生き物や植物の観察ができるようなエリアが整備されている。
しかし僕がいつも訪れるのはそんな人が集まりそうな場所ではなく、川にかかる橋の下。川に向かって作られた段差が座るにはちょうど良く、日陰になっているそこで読書をするのが休日の午前中の習慣となっていた。
そんな習慣ができて約半年。高校二年生の夏休みも残り一週間となった八月の酷暑の日、家にいづらいからといってわざわざこんな場所に来るのには理由がある。
きっかけは一年前、超巨大台風により渡竜川が氾濫したことだ。
渡竜川という名前の由来はその昔、川の流れる様がまるで竜が天を渡るようにうねっていたからということらしく、水害が多発していたため長い年月をかけて流れを直線に近づける工事が行われ、それに伴って様々なアクティビティができるように整備されてきた。ということを渡竜川流域の小学校の授業で必ず習うらしい。父親が転勤族だった僕は昨年の台風の一ヶ月ほど後に初めて聞かされた。それはもう得意気に。大変な目にあったというのに全くめげている様子もなく、はつらつとして、いつも目で追っていた姿そのままで、懇切丁寧に凪は教えてくれた。
工事をしていたと言っても想定外の自然災害相手には人間の無力さを痛感することしかできず堤防は決壊、川の西側地域は大量の泥水に飲み込まれた。数えきれないほどの建物が床上浸水し、堆積した泥を掻き出して清掃をしても居住を続けることができない住宅も数多くあり、引っ越しを余儀なくされた住民もいたらしい。
河西凪とその母すみれさんもそんな家庭の一つで、住んでいたアパートが居住不可能な状態になってしまい、十月になる直前に川の東側にあるマンション、僕と父が住む三〇二号室の隣の三〇三号室に二人で引っ越してきた。
「こんにちは。隣に越してきた河西です。つまらないものですが……」
大きな爪痕を残した台風が過ぎて一ヶ月。未だに終わらない復興の様子を中継している日曜の昼のテレビ番組を見ている時に来訪者がやってきた。
「水害で前に住んでいたところが駄目になってしまって、今まで仮設住宅に住んでいたんですけど運良くこのマンションに入れることになりまして……」
河西すみれと名乗ったその女性と玄関で話をしていた父に呼ばれ僕も挨拶に行くと、すみれさんの横に僕の高校の制服を着た女子生徒がいた。愛想の良い微笑みを浮かべて背筋をピンと張った綺麗な姿勢で清楚に佇んでいる。見慣れた制服なのに自分の家に制服を着た女子がいるというのは違和感があって緊張したが、その緊張は凪の顔を見るとさらに高まった。緊張以外の何かも胸の中で蠢いていた気がする。
河西凪は隣のクラスにいて、派手さはないが清楚な見た目と落ち着いた佇まいで密かに狙っている男子生徒が多い女子生徒だった。僕もそのうちの一人で入学当初に一目見た時から気になっており、隣の教室の前を通る時には必ず中をちらっと覗いて探してしまうほどには凪のことが好きだった。
だが接点は全くと言っていいほどなく、入学式からこの日までは、凪の教室の前を通りかかった時に中を覗こうとした瞬間、教室を出てきた凪とぶつかりそうになり「あ、ご、ごめん」「こちらこそ、ごめんなさい」というやり取りをしたことがあるだけだった。初めて目が合った、目が大きい、まつげ長い、肌綺麗、髪も綺麗、声も綺麗、何故だか良い匂いがする。あの時のあの瞬間は今も忘れられない。
接点がなかったのに名前を知っているのは、噂に聞き耳をたてたり隣のクラスの座席表を覗き見たりするなどの熱心な情報収集のたまものだ。
そんな憧れだった凪が目の前にいる。隣の部屋に引っ越してきた。緊張しているかどうかも分からなくなるほどに緊張していて何も話せない僕の代わりに父が僕のことを紹介してくれた。
「こちらは息子です。娘さん、えっと、凪さんと同じ高校の一年生です」
「あら、そうなんですか? この子も一年生なんです。凪、ご存じ?」
「うん、隣のクラスの川東守君。川東君、これからよろしくお願いします」
そう言って僕に向かって丁寧に頭を下げる凪に対し、僕はどぎまぎしながらなんとか頭を下げ返した。
「同じ学校に行くんだから一緒に行こうよ」
次の日の朝、玄関のドアを開けると凪が待っており、顔を合わせるなりこう言い放った。昨晩は緊張と興奮であまり眠れなかったが、緊張と興奮を上書きすることで眠気は吹き飛んだ。
僕らが通う高校は渡竜川の西側でも浸水被害を免れた場所にあり、僕は自転車通学だったが凪は徒歩。凪に合わせて僕は自転車を押して歩いた。
「自転車、買わないの?」
何か話題をと思って絞り出したつまらない質問を僕の二歩前を歩く凪の背中に投げかけると、凪は振り返って後ろ歩きをしながら答えた。
「それも考えたんだけどね。こういう風に歩くの好きだから、いらないかな」
「こういう風にって、後ろ歩きが好きなの? 変わってるね」
そんなわけないだろう。でもこれがこの時の僕にできる最大限のユーモアだった。
「ふふっ。川東君って面白いね」
凪は僕のくだらない冗談にも笑ってくれた。それだけで、僕も笑顔になった。
それからお互いに自己紹介をし合った。昨日の挨拶の時、休日なのに姿が見えなかったし話題にも出なかったからなんとなく互いに察していたが、僕の母は僕が三歳の時に病気で亡くなっていること、凪の父親は凪が生まれる前に交通事故で亡くなっていることを打ち明け合った。
僕らの間には妙な親近感が生まれた。
そして最近落ち着いたようだが僕の父は転勤族であり、今住んでいる町には中学二年生の時に引っ越してきたことを告げると凪は渡竜川のことを詳しく説明してくれた。
さらに凪が台風による被害のことや約一ヶ月の仮設住宅での暮らしのことを話し終えたところで僕史上最も楽しい通学路はゴールを迎えた。
通学に通常の二倍以上の時間がかかったがこの日は日直の仕事をするために早く家を出てきていたので遅刻とはならなかった。日直の仕事ができなかったペナルティで通常一日交代のところ今週一週間毎日日直の仕事をしなければならなくなったが、後悔などあるはずもなかった。
「同じマンションに帰るんだから一緒に帰ろうよ」
読書が趣味の僕は放課後は専ら図書室で区切りの良いところまで本を読んでから帰るのだが、本を読み始めて十五分ほどたった時に静かに、さりげなく、気配もなく隣に座った凪に声をかけられた。
「読み終わるまで待ってるよ」
凪はそう言って僕の隣で自分も本を読み始めたのだが、僕の胸は読書どころではないくらいに高鳴っていたため、今日は読書の気分じゃないと言って凪と一緒にすぐに帰ることにした。
放課後に図書室にいるなんて凪には言っていない。下駄箱の位置は今朝知ったから僕がまだ学校にいることが分かって探してくれたのだろうか。そこまでして僕と一緒に帰ろうとするなんてまるで凪は僕のことを……。図書室から下駄箱まで歩く間にそんなことを考え、今こそが人生の絶頂期なんて思っていたのだが、凪が下駄箱から出したまだ真新しいローファーを見て考えを改めた。
入学から一学期の間履いていたローファーは泥水に浸かってしまったから新しい物に買い替えたのだ。明るく振舞っていても凪は大変な被害を受けていて、無理をしている可能性だってある。不安を抱えているのではないか。そもそも今日は凪にとって新しい家からの初めての登校日。慣れない道を少しでも安心して歩くためにちょうど隣の家にいた僕を頼っただけではないか。
浮ついてはいけない、と自分の心の帯をギュッと締め直した。
そんな僕の決意とは裏腹に僕と凪、正確には川東家と河西家の距離は急速に近づいた。
僕の父は河西親子が引っ越しの挨拶に来た時に「困ったことがあったら何でも言ってください」と言っていたようで、その言葉通り、次の休日にすみれさんを車に乗せてスーパーに買い物に出かけて行った。すみれさんの車は水没してしまってまだ買い替えていないとのことで、父は嬉しそうにすみれさんの足となっていた。仮設住宅の時はすぐそばにスーパーがあったらしい。
その代わりにすみれさんは川東家のキッチンで夕食を作ってくれた。
いつも忙しいながらも作ってくれる父の料理をまずいと思ったことは一度もない。なかなか言葉にはできていないが感謝している。だけどこの時食べたすみれさんの料理は僕の中にあった料理に対する価値観を塗り替えるほど美味しくて、父共々その虜になってしまった。
そして当然ではあるがすみれさんと凪も一緒に食卓を囲んでいた。
「河西さんは毎日こんなに美味しい料理を食べられるの、羨ましいよ」
何気なくそう呟くと正面で食事をしている凪がまじまじと僕の顔を見つめた。と思うと、少しだけ眉間にしわを寄せて首をひねり出した。
「名前で呼んで欲しいな。お母さんも河西さんなんだし。私も名前で呼ぶから」
「う、うん。分かった」
その後は絶品料理たちの味に没頭し、父やすみれさんがどんな表情をしているのかを確認することはしなかった。いや、できなかった。
それから休日は毎回のように四人で夕食を共にした。
毎日凪と登下校をして、休日は夕食を共にする。とても不謹慎なことではあるのだが、渡竜川が氾濫したおかげで結果的に僕は凪と仲良くなることができた。
そんな生活が二ヶ月以上続き、父とすみれさんは買い物以外にも二人で出かけることが増えた。
「私のお母さんと守君のお父さんっていい感じだよね」
クリスマスを控えた二学期の終業式の帰り道で、凪が言った。
「守君もそう思わない?」
肩にかかるくらいの美しい髪の毛先と口元をすみれさんが手編みしてくれたというマフラーに埋めながら、凪は隣に並んで歩く僕を見上げる。隙間から漏れ出る白い息でさえも魅力的で、見えなくなるまで目で追ってしまった。
「聞いてる?」
結局凪と一緒にいると気持ちが浮ついてしまうのは直せていない。楽しくて、嬉しくて、幸せで、だから僕も凪と同じことを考えていたのだが、その意味についてはこの瞬間までしっかりと考えていなかった。
「ごめん、ちゃんと聞いてたよ。仲が良いことは良いことだよね。今はお互い独身なんだし見守ってあげようよ。僕はすみれさんが母親になるなら賛成かな」
「そうだよね。私も守君のお父さんみたいな人がお父さんになってくれたら嬉しいし、お母さん、ずっと一人で私を育ててくれたから幸せになって欲しい。それより二人が結婚したら私たち兄妹になるね。守君の方が誕生日早いからお兄ちゃんって呼ぼうか?」
「え?」
「あ、顔真っ赤。照れてるんだ」
「い、いや、寒いからだって」
「守お兄ちゃーん、冬休みの宿題やって欲しいなー。だめぇ?」
「うん……いや、駄目だよ。ちゃんと自分でやらなきゃ」
「迷ったね。今度から守君に何かお願いする時は妹モードでいこうっと」
それからしばらく歩き、凪と別れて自宅に入ると急に現実が押し寄せてきた。
父とすみれさんが結婚するということは妹かどうかはともかく僕と凪は家族になるということだ。
仕事が忙しい上に転勤族で様々な苦労がありながらも男手一つで僕を育ててくれた父の幸せを願っているのは凪と同じだ。優しくて料理上手でかすかに思い出に残る母に少し似ているすみれさんが新しい母になることに反対する理由などない。それらは紛れもなく僕の本心で、心の底から二人が結婚することになったら祝福したいと思っている。
それなのに、その本心とは別にもう一つの本心が僕の心に巣食っている。
凪のことが好きだ。恋人になりたいと思っていた。そしていつかはその先、家族という関係にだってなりたいと思うほどだった。
だけど僕らは、僕が望んでいたのとは違う形で家族になってしまいそうだった。
父から大事な話があると声をかけられたのはその日の夕食後、片付けを終え、凪とすみれさんが帰ってすぐのことだった。
「すみれさんと真剣に交際することになった。ゆくゆくは結婚したいと思っている」
僕は驚きもせず「応援する」と返した。
父は幸せそうに微笑んだ。
クリスマスイブにはいつもより豪勢な夕食を用意して四人でパーティーをした。
料理は父も僕も凪も手伝って、まるで本当の家族のように幸せな時を過ごした。
この日を境に夕食だけでなく昼食も共にするようになり、父はすみれさんの料理を手伝うようになった。川東家のキッチンで僕の目の前で仲睦まじそうに料理をする二人。本当に幸せそうで、僕も幸せだった。
でも、二人の仲が良ければ良いほど僕と凪が望まない形で家族になる時が近づいていることを僕に痛感させた。幸せなはずなのに、その光景を見るのがつらくなって、二人が料理をしている時には家から逃げ出すようになった。
初めのうちは冬だったこともありカフェや図書館など暖かくて静かで本が読める場所に行っていた。
三月に入って少しずつ外の気温も暖かくなってきた頃、たまには別の場所に行ってみようと自転車を気ままに漕いでいると渡竜川に架かる橋の下辺りに見慣れた後ろ姿を見つけた。
「凪さん」
背筋をピンと張った綺麗な姿勢で清楚に佇んでいる凪の背中に声をかけると、凪は振り返る。
春風に髪がなびいて、その髪を手で抑える仕草に何度目か分からないくらい惚れ直した。
「守君、どうしたの? こんなところに」
「それはこっちのセリフでもあるんだけど……僕はどこかで読書をしようと思って、カフェや図書館は飽きてきたから良い場所ないかなって探してたんだ。そうしたら凪さんを見つけた」
「そういえば、お昼前になるといつもどこかに出かかてたよね。読書してたんだ」
「いつもお昼ご飯だよって連絡してくれて感謝してるよ」
「いえいえ、それほどでもないよ」
「それより、凪さんはどうしてここに?」
「あったかくなってきたから散歩してたんだ。それであんまり人には言えないことを考えてた」
「人に言えないこと?」
凪は再び振り返って渡竜川の穏やかな流れを見つめた。
「私、今すごく幸せなの。川が氾濫したせいで今の状況になったっていうのに、それを幸せに感じてていいのかなって。私よりももっとつらい思いをして、今も苦しみ続けている人がいるかもしれないのに」
「凪さんが前を向けている証拠だよ。他の人に言うのが憚られるとしても僕には言ってくれていい。だって僕は……」
凪の家族になるんだから。家族には他人に言えないことを打ち明けて構わない。
言葉の続きは出てこなかった。
四月に入り僕と凪は二年生になり、クラス替えの結果僕らは同じクラスになった。川東家と河西家の詳しい状況など学校が知る由もなく、ただのお隣さんと認識されていたようだ。
一年生の頃から毎日一緒に登下校をしていたことから僕と凪は交際しているのではないかという噂が流れていたが、四月からすみれさんが僕のお弁当も作ってくれるようになり凪と僕のお弁当がまったく同じ中身であることがクラスメイトに気づかれた結果、その噂は決定的なものとなった。
凪が笑顔で肯定するものだから僕と凪はクラス公認のカップルということになった。
嬉しいはずなのに心の底から喜ぶことができなかった。
凪の意向で父にもすみれさんにもこのことは言っていない。
学校でも家族ぐるみの付き合いをしていて本当に家族になりそうだということは言っていない。
恋人らしいことと言えばなんとなく呼び捨てで呼び合うようになったことと、休日の午後に二人で出かけるくらいしかしていない。キスはおろか手も繋いでいない。
凪の真意が分からない。
僕らの関係にこの先はない。
父がすみれさんにプロポーズをしてすみれさんは受け入れた。
その報告を聞いたのが高校二年生の夏休みも残り一週間となった八月の酷暑の日。すみれさんは苗字を川東にすることを望んでおり、そうなると凪の苗字も川東になってしまい、いらぬ詮索を受けてしまうかもしれないということで籍を入れるのは僕らが高校を卒業してからということになった。転勤が完全に落ち着いた様子の父は今から新居の計画を立てている。
僕を男手一つで育ててくれた父と、凪を女手一つで育ててくれたすみれさんが結婚する。僕も凪も心の底から祝福している。
まだ一年半も先の話だ。でも、確定してしまった。僕と凪は兄妹になるのだ。
父とすみれさんが二人でお昼ご飯の準備を始めたのを見て、僕は家を出た。自転車を漕いで渡竜川の岸辺に行き、川に架かる橋の下の日陰で凪がそろそろお昼ご飯だよという連絡をくれるまで読書をするのだ。
それがささやかな現実逃避だ。
目が疲れたら川の流れを見る。
お前が暴れるからこうなったんだぞ、と心の中で恨み節を呟く。
気持ちを伝えられないまま、気持ちを確かめられないまま、どうしようもないところまで流されてしまった。
川の向かいにいた大好きな人と近づけたのに、川よりも大きな距離が開いてしまった。
せめて凪が僕のことをどう思っていたのか、それだけは訊いておけば良かった。
ズボンの右ポケットに入れていたスマホが震えた。凪からのメッセージだ。
【もうすぐお昼ご飯だよ】
【ありがとう。今から帰るよ】
いつもの連絡にいつも通り返す。本当に恋人というより家族みたいなやり取りだなと自嘲していると追加でメッセージが来たのでやり取りを続けた。
【いつものところ?】
【うん】
「お水、あったまっちゃってるんじゃない?」
静かに、さりげなく、気配もなく隣に屈んだ凪が言った。
凪とは反対側の隣に置いてあった天然水入りのペットボトルは日陰から飛び出して灼熱の太陽を浴びていた。本を読み始めた時には日陰に置いていたはずなので、太陽の位置が変わり日陰の位置も動いたのだろう。
「どうしたの? 迎えに来るなんて初めてじゃない?」
「お母さんと守のお父さんが婚約したから、私も守に言っておきたいことがあって」
凪は屈んだ状態のまま視線を僕にぶつけた。日陰で分かりにくいがほんの少しだけ顔を赤らめている。大きくて綺麗な瞳に見つめられるとドキドキする。
僕にはもうその資格はないというのに。
「連れ子同士って結婚できるんだよ」
凪は得意げに微笑んだ。
抱えていた鬱屈した気持ちは川の水に流されたようにどこかに消え去った。
顔に感じる熱は、熱中症のせいないことは確かだ。