だとしたら、魔法によって隠されてきた距離なのだろう。
 僕はもうそれ以上、彼女になにも告げることができなくなっていた。
「元気でね」
 と、僕に一言だけ告げた彼女は、彼女が望んだ道を歩いて行く。
 僕はその背中を、ただただ遠くから見守ることしかできなかった。
 僕は、いつも彼女が自分の傍らにいると自惚れた考えを持っていたのかもしれない。けれど、実際の彼女は、確かな自分の意志を持って、僕のそばから離れていく――。
 翌日、彼女は学校にこなかった。
 一週間後には、彼女が高校を自主退学した旨が、クラスに広まっていた。
 いろいろな憶測が流れた。男と駆け落ちしただとか、親が借金を作って蒸発しただとか、無責任でいい加減な噂話も広まった。
 そんな中、彼女の友人である藤宮春香から、僕は彼女が抱えていたとてつもなく大きな秘密を知らされることになる。
 彼女には九つ歳の離れたお姉さんがいた。お姉さんは、若くして進行性の心臓病を患っており、二十代半ばでこの世を去っていた。
 彼女と僕が出会う、一年前のことだった。
 そして、彼女のお姉さんの命を奪った病は、遺伝性のものであったらしい。
 ここで僕は、一つの可能性に思い当たる。
 彼女は、時間がないと言っていた。
 もし彼女が、お姉さんと同じ病気を患っていたとしても、いなかったとしても、そう思うに足るだけの理由にはなる。
 その事実に気づいたとき、僕はどうしようもないほどの後悔の念に襲われた。
 なぜ、彼女をもっと支えてあげられなかったのだろう? なぜ、彼女の覚悟を後押しすることができなかったのだろう?
 自分の中にある凝り固まった価値観を呪いたくなった。
 確かに彼女の言う通り、人はいつ死ぬかわからない。
 差し迫った命の危機があろうがなかろうが、どう生きるかを決めるのは、自分自身なのだ――。

          *

 こうして、僕はその後、彼女のいない三年間を過ごした。
 目標としていた大学受験に失敗し、浪人生となり、うだつの上がらない日々を送る中で、書店で偶然、彼女と同姓同名の作者が書いた本を見つけた。
 その本を手にしたとき、僕の足は、自然と彼女と通ったあの河川敷へと向かっていた。
 恐れや安堵、その他いろいろな感情がないまぜになりながら、乗っていた自転車を降り、橋のたもとに腰を下ろした僕は、その本の一ページ目を恐る恐るめくった。

         5.

 彼女の書いた小説を中盤まで読み終えたところで、僕は傍らにおいてあった天然水のペットボトルに手を伸ばし、一口喉を潤した。
 次いで、眼前に広がる川の水面に視線を移す。
 九月の河川敷。
 ふと脳裏に過るのは、取材と称して彼女と出かけた数々の思い出の場所――。
 それは不思議な感覚だった。
 彼女が本にして紡いだ物語は、一組の高校生男女が旅をする、ロードノベルだった。
 主人公の少年少女の姿は、あの時代にいた僕と彼女の残影のようで、読み進めるうちに、たまらなく胸がせつなくなった。
 旅先で彼らが立ち寄る場所は、僕らが訪れた場所と重なる。
 彼女が書きたいと言っていたものが形となり、実際にそれに触れた瞬間、僕は言いようのない幸福感に包まれていた。
 同時に、自分勝手にも彼女のことが恋しくなった。
 彼女は今、どこにいるのだろう?
 そんな疑問が、極自然と湧き起こる。
 本当に、今さらなことだった。
 彼女と別れたあと、彼女は本当に姿を消してしまった。一度、電車に乗って彼女の自宅を訪ねたことがあったけれど、そのとき応対してくれた彼女のご両親によると、彼女は長期に不在だとのことだった。その後も、彼女の行方を追い続ければ、顔を合わせることぐらいはできたかもしれない。
 けれど、彼女の本心を察した僕は、彼女に顔を合わせることができなかった。
 あのとき、肝心なところで彼女の力になれなかった僕は、友人としても、担当編集としても、一番そばにいた男としても、彼女と顔を合わせるには不適格な存在だと思えてならなかった。
 散々自分を責め立てても、後悔がなくならないことくらいわかっている。
 ただ、今は少しだけ安らいだ気持ちでいた。
 彼女の成功を知り、彼女の書きたかった物語に触れ、彼女が生きていることを知った。それだけ十分だった。もう一度彼女に会いたいだなんて、それはあまりに自分勝手の過ぎることだと、頭の中ではわかっていた!
 でも、会いたい。
 もう一度だけでも、彼女に――。
「……………」
 膝を立てて地面に座っていた僕は、その上で両手を組み顔を埋める。
 視界が暗がりに閉ざされていった。
 そのとき、

「やっと見つけた」

 声がした。
 嘘だろと、思った。
 視界はまだ埋めた両腕によって遮られている。
 顔を上げることが、できない。
「もしもーし」
 それでも声は聞こえてくる。
 懐かしい声。
 ずっとずっと聞きたかった声。
「久しぶり」
 顔を上げると、眩い日差しが邪魔をして、声の主の顔をまともに拝むことができなかった。
 徐々に光に慣れていく視界のなかで、傍らに立った人物の姿が明らかになっていく。        
 清潔感のある白いシャツに、山吹色のデニムパンツ。
 肩まで伸びた髪が、軽やかに風になびいていた。整っているのに、どこか愛嬌を感じさせる柔和な顔立ち。大きな瞳の奥には、好奇心の光が宿っているように見えた。
 彼女だった。
 一ノ瀬茜が、そこにいた。
 まるで魔法のように――。
「どうして……?」
 と、立ち上がろうとする僕を片手で制して、彼女は僕の隣りに座った。
 以前より少し大人びた彼女は、昔と変わらないひまわりのような笑顔を見せる。
「探したからに決まってるよ。君の家、留守だったもん。仕方ないから、歩いて君のいそうな場所を見て回ってたの。まあこんなにあっさりと見つかるとは思わなかったけどね」
「偶然?」
「うん。でも、今日がダメなら明日も探すつもりでいたんだよ。明日がダメならその次も」
「……奇跡だ」
 僕は呟いた。
 彼女は照れたように、また笑みを見せる。
 また、二人で並んで、この場所に居れること。それは間違いなく奇跡だった。
「君は……」
「うん?」
「本当に旅をしたの?」
 彼女は自信満々に頷く。
「したよ。日本各地から、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸まで」
「そうなんだ……」
「印税が入ったから、少しずつ両親にお金返さなきゃだけど……」
「……本」
「えっ?」
「今読んでる。すごいね、夢を実現させた」
「えへへ」
「……僕なんかがいなくても君は」
「それ違うよ」
 彼女は、僕の言葉を遮った。
 穏やかだけど、力強さのこもった口調で。
「この本を書けたのは間違いなく君のお陰。君という編集者がいなければ、わたしはこの物語を書き上げることはできなかった。それだけは自信を持って言える」
「……………」
「……ずっと言いたかったの、あのときはわたしの自分勝手に、君を巻き込みたくなかったの。ごめんね」
 彼女の言葉に、胸の中にずっとつっかえていたものが、塵となって去っていくような心地になった。
 彼女が使う言葉は、やはり魔法のようだった。
 いや、言葉だけじゃなく――。
 彼女は、様々な魔法を使う。
 彼女が笑えば、僕の心は不思議と軽やかになる。彼女が悲しんだり、怒ったりしても、僕の心は鮮やかにその時々で彩りを変えていく。
 これを魔法と呼ばず、なんと呼べばいいんだろう?
 昔と変わらない微笑みを見せる彼女に、僕は言った。
「やっぱり、君は魔法使いだね」
 そう。僕は、君という魔法使いに恋をした。
 そしてこれからも、この恋は続いて行く。
 ずっと、ずっと。

                                                       了