3.

 その後も取材と称して、彼女は頻繁に僕を色々な場所へと連れ出した。
 あるとき僕たちは郊外の寂れた田舎にある廃墟となった病院に向かった。
 なんでそんなところに出向くことになったかというと、彼女の言い分はこうだった。
「だってほら、いつかはホラー要素のある小説を書きたくなるかもしれないでしょ? おぞましい体験の一つや二つしておかないと」
 ところがいざ向かった廃病院には、すでに工事が入っていた。なんでも引取り手がなかった病院跡地を市が買い取って老人ホームにするのだとか。
 僕らは未だ残暑の厳しい夕暮れの中、無駄に汗をかきながら、傾斜のきつい田舎道を引き返す羽目になった。
 またあるとき、彼女は過去にUFOが目撃されたという海岸に僕を誘った。
「だって、ひょっとしたらSFを書きたくなるかもしれないでしょ? UFOの目撃時間は日が昇る明け方に集中してるらしいからさ、朝の五時にここに集合ね」
 そう言って彼女が見せたスマートフォンの画面には、自転車で自宅から片道一時間はかかる県内のとある海岸が表示されていた。早朝かつ肉体を酷使しなければならない悪条件に、僕は思いきり難色を示したが、
「もー、なに言っちゃってるの? 君の編集者根性はそんなものだったの? しっかりわたしについてきて!」
 そう意気込む彼女は、なんと現地にタクシーでやってきた。僕は片道一時間の遠路を、自転車に乗って独力で踏破したというのに、彼女は眠たげではあるけれど涼しげな顔で、やつれた僕の目の前に十分遅刻して現れた。
「ふぁーあ。おはようー。はいこれ」
 手渡されたスポーツ飲料のペットボトルの蓋を開けると、僕はカラカラになった喉に勢いよくそれを流し込んだ。早朝とはいえ体中がまたも汗だくだった。日頃から運動をしない僕にとって、この日の取材は苦行中の苦行だと言えた。
 悲鳴を上げた体に水分が回り、けいれんしかけていた太ももの筋肉が落ち着きを取り戻すのを待って、僕らは車道から砂浜まで歩いて降りた。
 朝焼けの海に、UFOは現れなかった。ただ空と海が濃い紫から群青の混じった橙色に染まる様子を、立ち尽くして彼女と眺めていた。
「今回は空振りだったね」
 そう言ってはにかむ彼女に、恨めしさを視線に込めて僕は言った。
「今回どころかこれで最後にしてほしいよ……」
「またまたぁ、そんなこと言っちゃって」
「……僕は本気だよ」
「わたしは、今回の取材でまた一つ作家としての重要な学びを得たんだよ?」
「……それはなに?」
「日頃運動しない男子高校生が」
「うん」
「自転車を一時間漕げば疲れる」
「……頭はたいていい?」
「ああっ! 暴力反対っ!」
 彼女との取材と称した日々は、こんな感じに続いていったのだけれど、次回作へのしっくりくるインスピレーションを得ることはなかなかに難しいようだった。
 以降何本か短編小説を書いたのち、彼女は初めて作家としての壁にぶつかった。
 打ち合わせをして次回作のアイデアをともに練ったとしても、その内容を文字にすることができなくなったのだ。
 僕と彼女がコンビを組んだ当初から、翌年の四月にある大手出版社の長編小説賞を最大の目標として執筆活動を進めてきたのだけど、締め切りが2か月前に迫っても、彼女は一ページも筆を進めることができなくなっていた。
 彼女は悩んでいた。
 作家として、なにを書きたいのかを。
 それはきっと、プロもアマチュアもその双方を含めた大多数の作家が、ぶつかる壁であったと思う。
 僕らはまだ高校一年で、子どもと称されるのが当然の年齢だった。
 焦ることなく、ゆっくりと時間をかけていけばいい。そう思っていた僕とは対照的に、彼女は言いようのない焦燥感に襲われているように見えた。
 そして僕は、彼女がなにに焦っていたのかを知らずに、運命の日を迎えることになる。

          4.

 冬も深まった二月のある日のこと。
 いつも通り、僕は、彼女と件の河川敷の土手を歩いていた。
 夏場に比べて日暮れはずっと早く、黄昏は完全な夜に変わろうとしていた。
 緑に溢れていた季節よりも、宵闇に隠れた風景は、ずっと寂しくなっているはずだった。川岸を吹く風は冷たく、時として痛いくらいに容赦がなく、僕らのむき出しになっている肌を突き刺した。
 交わす言葉もそこそこに、首元に巻いたマフラーに顔を埋めながら歩いていると、土手道の終点に辿り着いたとき、ぽつりと彼女の声が響いた。
「早乙女くん」
 名字で呼びかけられるのは久しぶりのことだった。
 僕は不思議に思い、彼女に訊いた。
「……どうしたの? 改まって」
 離れた街明かりと、暗くなった空に浮かんだ月明かりによって、向かい合った彼女の表情が確認できた。
 彼女は、なぜか、寂しそうに笑っていた。
「……わたし、決めたんだ」
「なにを?」
「高校辞める」
「………………」
 突然の宣言に、僕は返す言葉を失った。
 頭の中がひどく混乱していた。
 彼女がそんなことを考えていただなんて、予想だにできなかったからだ。
「辞めるって……辞めてどうするつもりさ?」
「旅をしたいの」
「旅って……」
 旅行とは言葉のニュアンスが違っていた。
 彼女が思い立ったことだ。それは本当に、放浪するという意味での旅を指しているのだろう。
 馬鹿馬鹿しいと、僕は思った。
「馬鹿げてるよ……」
 実際に声に出して言うと、彼女は少しだけ顔に浮かべた寂しさの色を濃くした。
 それでも僕は怯まない。
「……どうしたっていうのさ? 君の突拍子もない思いつきにはいい加減慣れてきたつもりだけど、今回ばかりは看過できないよ」
 口調が少しだけきつくなった。こんな感情を彼女にぶつけるのも、初めてのことだった。
「そっか。そうだよね。わたしはいろいろ……君を巻き込んじゃったよね。ごめんね」
「そうじゃない。巻き込まれたなんて思ってないし、君と過ごした時間は楽しかった」
「……………」
「僕が言いたいのは、なんで今なのかってこと」
「それは……」
「なんで君はそんなに焦ってるの? 学校を辞めてまでして、する必要があることなの? 休めばいいじゃないか、それなら僕だってバイトしてお金貯めて、時間も作って君に付き合うよ。それじゃ駄目なの?」
 いつもより声を荒げた僕に対し、彼女は一度だけ弱々しく頷いた。
「駄目かな……」
「……どうして?」
「わたしはまず、日本中を旅したいの。そして、できれば海外にも行ってみたい。それは、今からしなきゃ駄目なの。わたしがわたしの書きたいものを完成させるためには、必要なこと」
「だから、なんで今――」
「わたしには、時間がないんだよ!」
「……………」
 その瞬間、彼女は僕の前で、初めてポジティブ以外の感情を声に込めた。
 僕は呆然とする。
 彼女はそんな僕を見て、抑えてきたものを吐き出すように言葉を紡ぐ。
「わたしの頭の中にはね、いつも強迫観念があるの。自分がもうすぐ死んじゃうんじゃないかって。例えば交通事故とか、災害とか、病気とか」
 それは、
「君にはわからないかもしれない。けど、わたしの近くにはそうやって夢半ばで死んじゃった人がいるんだよ! だから、わたしは、自分が決めたタイミングで、いろんなことをチャレンジしていきたい。人からは馬鹿げてるって思われても、そうやって生きていきたい!」
 僕が初めて見る、生身の彼女との邂逅だったのかもしれない。
 彼女だってこんなふうに不安定になるんだ。彼女だって八つ当たりみたいに怒るし、彼女だって差し伸べようとした誰かの手を払いのけようとすることがある。
 彼女の言葉を受けて、僕は悟っていた。
 言葉は確かに魔法だ。
 彼女の放った魔法は、僕と彼女の間に、確かな距離を作った。
 それはひょっとすると、初めから存在していた距離、だったのかもしれない。