「君はこの辛麺を食べる前まで、この料理にどんなイメージを持ってたの?」
「……辛い料理」
「今は?」
「辛くて……熱くて痛い料理」
「ほら!」
「えっ?」
「表現の幅が広がった」
 鬼の首を取ったように勝ち誇る彼女。
 脊髄反射で僕は言う。
「それ、こじつけ過ぎない?」
「まさか。なにごとも実際に経験してみないと的確な表現はできないでしょ? わたしは作家に必要なスキルを磨きたくて、この店をあえて選んだのです!」
「……さっき前々から食べてみたかったって言ってたじゃん」
「てれれてっててー! わたしと君はレベルアップ! かしこさが一上がった、魔力が一上がった、君はついでに減らず口も一上がった!」
「どこかのRPGみたいにごまかすなよ」
 結局、僕の舌が正常な感覚を取り戻したのは、ほとんど麺を食べ終えてしまった後だった。
 彼女はといえば、すりおろされた唐辛子の怨念がたっぷりと入ったスープを一滴残らず飲み干してしまったのだから、おぞましいことこのうえない。きっと、彼女の舌と胃と腸は鋼でできているのだろう。ついでにメンタルもそうに違いない。
 いろんな意味で貴重な経験となった食事の代金は、約束通り僕が払った。
 食事を終えた僕らは、目的もなくぶらぶらと商店街を歩く。唐辛子を摂取したことで代謝が促進されたのか、食事前より体が熱い。額から次々と汗がにじみ出てくる。
 これからの予定を僕とは対照的に相変わらず涼しい顔をした彼女に尋ねると、
「ここからはノープランなんだよねー」
 と、のんびりとした返事が返ってきた。
「でも、しいていうならデザートを食べたい気分だよね。君はどう思う?」
「デザート……」
 辛く熱く痛い思いをしたせいか、その言葉は魅惑的に僕のハートを揺さぶった。
 彼女はそんな僕の心の動きに気づいたのか、おかしそうにくすくすと笑う。
「わたし、ドーナツが食べたい気分だな」
「……異論なし」
 とりあえず、甘いものならなんでもいい気分だった。涼しい場所も恋しかった。
 本屋のあった駅の商業施設に全国チェーンのドーナツショップがあることを彼女が教えてくれたので、僕らはそこに腰を落ち着かせることにした。
 来た時よりもしんどくなった足取りで、街並みを遡る。距離にすれば一キロにも満たない平坦な道なりであったけれど、脳内では砂漠を進む三蔵法師一行のイメージが再生された。たどり着いたドーナツショップは、まさに天竺だった。この場合、三蔵法師は僕で、彼女はトラブルばかり巻き起こす孫悟空と言ったほうがいいだろう。
 僕と彼女は、商品ケースから好みのドーナツをセレクトしトレイに載せると、レジで別々に料金を支払い、注文したドリンクを受け取ってテーブルに着いた。
「うはー、ドーナツ、ドーナツ!」
 と、いつにも増して騒々しいリアクションを示す彼女。
 僕のトレイにはアイスコーヒーとオーソドックスなチョコレートドーナツとバター風味のマフィン、彼女のトレイにはオレンジジュースとアップルパイと特徴的な花の形をしたドーナツが三種も載っていた。このドーナツをたてがみに見立てたライオンが、テレビCMでも登場する有名なマスコットキャラになっている。
 幼い子どものようにドーナツをパクつく彼女を見て、僕もマフィンを一口食べる。次いでブラックのアイスコーヒーをストローで吸って口に含む。甘味から苦味へのグラデーションを楽しむ、至福の瞬間だった。
「そういえば、訊こう訊こうと思ってずっと訊きそびれてたんだけど」
「なに?」
「君は、小説を書いてみようとは思わないの?」
 ダイレクトな質問に面食らい、僕は一瞬言葉を失う。
 彼女とはもうすぐ半年近くの付き合いになるけれど、そういった話はしてこなかった。
 小説を書くこと……。
「……僕には向いてないよ」
「そう? 毎回思うけど、君の指摘は的確だし、君のお陰わたしの文章力もぐんぐん上がってると思う。逆に、君が小説を書いたとしたら、わたしよりもずっと早く出版社の目に留まるんじゃないかって、そんなこと思うんだよね」
「……買い被りだよ。 逆に聞くけどさ、君はどうして作家になりたいの?」
 知り会って半年近くになるけれど、こういうふうにずっと疑問に思っていたことを面と向かって尋ねるのも初めてだった。
 大口でアップルパイにかぶりつこうとしていた彼女は動きを止め、ニンマリ笑って僕を見る。
「え? 知りたい?」
 待ってましたと言わんばかりの表情だった。それがなんだか悔しくて、僕はコーヒーをもう一口すすってから言葉を返す。
「まあ、是非にとは言わないけど……」
「そこは是非にって言ってよね」
「……はいはい、じゃあ是非に」
 わざと投げやりに言った僕の言葉に、彼女はじとーっとした視線を向けてくる。
 一瞬機嫌を損ねてしまったのかと、ぎくりとするがどうやら違ったようだった。
 彼女は穏やかに微笑していた。
「ほら、例えばさ、わたしが死んじゃったら写真とか形見の品とか、わたしを知っている人が、わたしを懐かしむための思い出の品は残るじゃない?」
「……君はなに? 近々天に召される予定でもあるの?」
「今のところはないよ。でもいつかはくるかもしれない」
 その声は、周囲の喧騒から切り取られたように、はっきりと僕の耳に届いた。
 僕は彼女の目を見る。彼女はなにか、意思を込めた視線で僕を見ていた。
「わたしが物語を書きたいのはね、なんていうか、わたしの頭の中のことをこの世界に残したいの。わたしが感じたものや、思ったもの。人によってはまったく共感のできない価値観だったとしても。いつかは忘れられて消え去ったとしても、挑戦してみたい。だから、物語を書きたいと思ってる。誰かの心に残る、魔法のような物語を」
「……………」
 彼女の考えを聞いた僕は、やはりどこかむず痒い心地になった。
 その考えは、あまりにセンチメンタルで無謀で、ロマンに満ちていた。
 自分の魂を本に込めてこの世に残したいという彼女の願望は、生き生きと今を生きる彼女が、これから先も未来永劫この世界のどこかに存在し続けるために抱いた、壮大な野望だと言い換えても過言ではなかった。
「……本当に君は、どこまでも君らしいね」
 気づくと、素直に思ったままを言葉に変え、彼女に送っていた。
 彼女が僕の言葉をどのように受け取ったのかは、顔を見ればすぐにわかる。
「それ褒めてるの? 照れちゃうなぁ」
「……そういうことにしといてあげるよ」
 甘くなった口元を整えるためコーヒー飲む。
 その後も、話題に上るのは本に関することばかりだった。直近で彼女が読んだおすすめの三冊の紹介に始まり、僕は過去に自分が読んだ鉄板の三冊を紹介した。彼女が紹介したうちの一冊、僕が紹介したうちの二冊は、お互いが読破していたため、推しキャラについて意見を交わしたり、心に残った台詞の解釈を議論しているうちに、手元のスイーツはなくなり、グラスは空になっていた。
 さんざん語り合ったのち、話に切りがついたところで店を出ると、時刻は午後三時を過ぎていた。
「ふぁーあー」
 と、唐突に両手を突き上げ背中を伸ばす彼女。
「ふぁふぁし、なんだか眠くなってきちゃったー」
「うん、僕も同感」
 昼食を終えたあとにたらふく糖分を摂取したせいか、血糖値の上がった体が休息を求めていた。
 このあとの予定は未定だったこともあり、僕らはどちらからでもなく、今日はもう帰宅する方向で、駅のホームへと向かった。
 電車に乗り、並んで座席に座っていても、僕らはほとんど言葉を交わさなかった。お互いに、脳内が眠気に支配されつつあったし、特段しゃべる必要性があるとも思わなかった。語りたいことは語り合ったし、こうしていつもおしゃべりな彼女とぼんやり時間を共有するのも悪くないと思えていた。彼女がどう考えていたかはわからないけれど、少なくとも僕の隣りで眠たげな子どものように頻繁に瞼をこする彼女から、不服の色を示す気配は感じなかった。
 先に、電車が彼女の地元の駅に着いた。席を立つ彼女に「じゃあまた明日」と声をかける。
「……うん。また奢ってね」
 いつもより口調が穏やかなのは、きっと、彼女の体に睡魔が覆いかぶさっているせいだろう。
「わかったよ」
 と返事をすると、彼女は面白い夢でも見たかのように微笑し、電車を降りた。
 僕は間もなく到着する自分のホームタウンまで眠らないように、通り過ぎていく窓の景色を眺めることにする。
 今日一日の彼女との会話を思い出しながら電車の走行に身を委ねていると、幸いにも寝過ごすことなく地元の駅に帰り着くことができた。
 席を立つとき、隣に座っていた眠たげな彼女の残像を見た気がして、思わず口元がほころんでいた。