「うはー、楽しみーっ! 君はどれ頼む? わたしはもう決まってるから、さっさと選んじゃってよ!」
「……あのさ」
「はい?」
 僕は大いに戸惑っていた。
「ここに載ってるラーメンって、みんな赤い色のしかないけど……」
「そりゃ、辛麺屋だからね。でも赤だけじゃないよ、溶き卵の黄色に、ニラの緑」 
「辛麺って、辛いラーメンのこと?」
「そうだよ、君初めて? 実はわたしも初めてなの。一度食べてみたかったんだー」
 呑気に彼女は言った。
 僕は力なく答える。
「辛いのはちょっと……」
「大丈夫だよ! 辛さ選べるし! 初心者はまず3辛くらいから頼めばいいんじゃない? まあわたしは辛麺の醍醐味を味わってみたいからそれなりのにするけどね。てへっ」
「……いやいやいや、てへっじゃないし。本当に苦手だって言ってるじゃん」
 こんな店に来るのは初めてだし、なによりも予想外だった。僕の頭の中では、女の子は少しこじゃれたカフェとか、ピザとかパスタとかのイタリアンを好むものだと勝手な固定観念が作り上げられていた。それが、こんな働きざかりのサラリーマンに好まれるようなにんにくとニラの入ったスタミナ系のラーメン店に連れてこられるなんて……。
「うふふ、早く決めてよねー」
「……………」
 彼女の新たな一面を知ったような、わからなくなったような、してやられたような心地になった。
「ほらほら、なににするのー?」
 店内に入って席にまでついてしまったのだから仕方がない、僕は甘んじて現状を受け入れることにする。
「じゃあ君の言う3辛……より少ない2辛で……」
「心得た!」
 まるで自分が調理するかのように勢いよく言って、彼女はテーブルに設置されてあるワイヤレスチャイムを押した。すぐさま店内に案内してくれた女性店員が僕らのもとにやってくる。
「ご注文はお決まりですか?」
「辛麺の2辛で……」
「辛麺のMAX、ニンニク抜きでお願いします!」
 耳を疑った。記憶違いでなければ、MAXとは日本語で最上限という意味だったはず……。
「君は、正気なの?」
 女性店員が注文を復唱し去っていくや否や、僕は彼女に尋ねた。
 彼女は神妙そうに眉を傾け、
「だよね。辛麺屋にきてにんにくを入れないなんて、正気の沙汰じゃないよね……。でも今日は君と一緒だし、わたしもほら、女の子だから……」
「いやいやいやいや、そうじゃない」
 全身全霊でそうじゃない。テレビ番組で見たことがあるけれど、こういう店で出される最上限の辛さは、おそらく常人の胃と腸を破壊する。
 わざとらしくしなを作る彼女が、得体の知れない妖怪に見えてきた。
「えっ? なんのこと言ってるの? あ、ニラを抜くの忘れちゃった。でもさすがにニラまで抜いちゃうと辛麺の醍醐味が……」
「……だからそうじゃないって」
「うん? あ、大丈夫。君からにんにくの匂いがしてもわたし嫌いになったりしないよ? わたしにんにく大好きだから」
「そうじゃな……ああ、もういいや」
「ええっ? なんのこと!」
 本気で困惑しているのはこっちなのに、なぜお前が戸惑うんだと言いたくなる。
 困惑が呆れに移り変わり始めた頃、店員がどんぶりを二つ手に持ってやってきた。 
「おまたせしましたー、こちら2辛のレギュラーです。こちらは辛さMAXのにんにく抜きですねー」
「……………」
「きゃーっ!」
 言わずもがな、僕と彼女は対照的な反応を見せた。初心者には3辛と彼女は言ったけれど、2辛でも見た目は十分に赤々しくて辛そうな感じだった。しかし、彼女の目の前に置かれたどんぶりは、その様子を遥かに凌駕していた。スープの色は赤というより深紅と表現したほうがしっくりくる。そもそも、スープそのものが液体というよりは唐辛子のペースト状になっている。目が染みるのは気のせいだろうか? 唐辛子に含まれる成分が彼女のどんぶりから周囲に漏れ出しているのではなかろうか? それはもう、食べものというより兵器に近いのではなかろうか?
 僕の混乱をよそに、彼女はキラキラした眼差しで僕の双眸を見つめてくる。
「ねえ、ねえ。早く一口食べてみようよ、きっとおいしいよ」
「えっ? ああ、うん……」
 目の前に置かれた自分のどんぶりには全然集中できないのだけれど、彼女に促され、僕はようやく箸を手に取る。
「いただきます……」
 と、お決まりの挨拶をしてから、恐る恐る麺を一口すする。
「あっ」
 おいしい、と思ったのもつかの間、遅れて舌先にピリッとした辛さが込み上げてくる。
「……………」
 しかし、まあ、
「……ぎりぎり食べられなくは、ないかな」
 辛いのは辛いのだけど、スープにはしっかり出汁が効いているし、溶き卵の効果なのか、辛味がまろやかになり、旨味が増しているような気がする。
「……………」
 ニラの歯ざわりもいい。にんにくはホクホクしているし、一口食べるとなにかもう一口、口に運びたくなる。辛いのは辛いのだけれど、癖になるというのか……。
「うふふ」
 二口目、三口目と麺をすすっているとおもむろに目の前の彼女が微笑んだ。ニヤニヤしながら僕の顔を見て、なにか言いたげにちゅるちゅると自分の手元の辛麺をすする。
「どうだ、おいしいでしょ?」
「……君のどんぶりを見てると、その思いも薄れていくような気がするよ」
「もー、素直じゃないんだからぁ」
 と言って、ちゅるちゅる、と彼女はまたマイペースに麺をすする。次いで、レンゲでその紅蓮色のスープをすくい口に含ませた。
「っはあ! この味! 想像以上だね!」
「……味なんてあるの?」
 僕の率直な質問に、彼女は一瞬目を丸くし、すぐにまたニヤニヤと笑みを浮かべた。
「一口飲んでみる? スープ」
 そう言って、レンゲでスープをすくって僕の顔の前に差し出す。
「はい、あーん」
「げっ。いいよ、もう口つけちゃってるじゃん」
「あれ? ひょっとして間接キスだとか思ってるの? もう、うぶなんだからぁ」
「君は馬鹿なんじゃない? 一度人が口をつけたものに手をつけるのははしたないだろ? 僕はこう見えて育ちがいいから、そこらへんはわきまえてる」
「まったまたぁ。げっ、ひょっとして私の唾液が汚いとでも思ってるの!」
「……食事中に唾液とか使うなよ」
「大丈夫だよ、きっと唐辛子の効果で殺菌されてるから。ほんとは興味あるんでしょ? だったらほら、言うじゃない、ひゃく、ひゃく……」
「百聞は一見にしかず?」
「そう。それ!」
「この場合は一見じゃなくて一口だよ」
 大好物を目の前にして脳内がバーストしているのか、彼女はそんな簡単なことわざまで忘れてしまったらしい。使い方まで微妙に間違っている。
「……………」
「……………」
 十秒ほど睨み合いを続けても、彼女はまだレンゲを引っ込めない。
 確かに、一口だけならばと、怖いもの見たさで味に興味があったのは事実だった。こんな刺激的な食べものは本当に僕の苦手な部類の食事に入るのだけれど、目の前にいる彼女があんまりおいしそうに食すものだから、気の迷いが生じていた。しかし、いくら親しい仲とはいえ後輩が口をつけたレンゲで「あーん」されるのは男として超えてはいけない一線があるような気もした。
 結局、このなんだかよくわからない膠着状態を打破するために僕が取った行動は、自分のレンゲで素早く彼女のどんぶりのスープを拝借する、という苦肉の策だった。
「あっ」
 と、虚を突かれた彼女の反応の直後、
「——っつ!」
 口の中に形容しがたい何かが襲来した。 
 辛い、というより熱い、そして痛い!
「噓だろ……」
 僕は無意識に呟き、どんぶりの脇に置かれていたお冷を一気に飲み干した。口の中がまだひりひりと痛んでいる。
 呆然と目の前の彼女を見る。
 彼女は、爆笑していた。
「あははは! 大丈夫?」
「僕は君が……」
「君が?」
「……君が怖いよ」
 その言葉を聞き、彼女はまたたまらなく嬉しそうに笑みを深くする。
「最っ高の誉め言葉だね!」
「どこがだよ」
 まったく彼女のポジティブさには恐れ入る。彼女の舌にも恐れ入る。彼女が食べているのは最早食べものではなく、毒物や劇物と表現したほうがしっくりくる。
 気を取り直し、自分の辛麺を食すが、味がよくわからない。さっきのレンゲ一杯で、僕の舌は完全に麻痺してしまっているのだろう。こんな経験初めてだった。
 彼女は涼しい顔をして血の池のようなスープから麺をすくってはすすっている。
「これってさ」
「……なにさ」
「いい経験だよね」
「へっ?」
 思わず間の抜けた声が出た。
 辛麺を食べたことがいい経験?
 彼女はレンゲでもう一度スープを飲む。
「君はこのスープを飲んでどう思った?」
「……辛い、というより、熱くて痛い……」
「ほら、それだよ!」
 待ってましたと言わんばかりに彼女は吼えた。