『あたし、東京で就職しようかなって』

どうしてあの日一緒にいたのかも、よく思い出せない。
なんの脈絡でそんな話題になったのかも、どんな天気でどんな服を着ていたのかも、そう言った京ちゃんがどんな表情を浮かべていたのか、自分がそれになんと返事をしたのかすら、思い出せない。
ほとんどなにも覚えていないんだ。

けれど確かにその瞬間から、俺の世界は徐々に薄暗くなっていき、京ちゃんがこの町からいなくなった三年前の春、とうとう世界は色を無くした。



「こら譲っ。ちょっとは手伝いなさいよ」

庭の物置きから引っ張り出してきたバーベキューコンロを両手に持った母は、汗だくになりながら、ソファーに寝転がる俺に言う。

読みかけの本にしかたなくしおりを挟んだのは、そんな母が哀れになったわけでも、自分に罪悪感が芽生えたわけでもない。

「俺、用事あったんだった。出掛けてくる」

「譲―!?ちょっと!!待ちなさい!!」

母の声を背に玄関を飛び出した。自転車に跨り俺が向かう先は、毎年同じだ。

この町一番の名物、代田町花火大会は、県内でも有数の大きな花火大会。俺は三年前の夏からずっと、花火大会の日の朝は、この川沿いの堤防で本を読むことに決めている。

「……あっちぃ…」

じわりと滲む汗。真夏の炎天下、いくら橋の下が日陰だとはいえ暑いものは暑い。それでも俺はここで本を読む。それっぽい顔をして、君の声を待ちながら。

「みっけ!やっぱりここだ」

間接視野に映りこんだ、ひまわり色。同時に鼻をくすぐる女の子っぽい香り。視線の先には、柔らかな笑顔の君。

「京ちゃん、おかえり」

「ふふっ。ただいま!」

今年もまた、見つけてくれた。年末に会ったときよりも、ほんの少し大人びた俺の幼馴染。
京ちゃんが隣にいるだけで、俺の世界は途端に色鮮やかになる。

空の色と目の前を流れるしらら川が、一つになりそうだった。



二軒隣に住む京ちゃんの家と俺の家は、祖父母の代からの付き合いらしく、少し歳の離れた俺たちもまるで姉弟のように育てられてきた。

けれども俺は、京ちゃんを姉のようだと思ったこともなければ、友達だと思ったこともない。かといって愛おしさに狂うような感情もなく、ただ気付けば隣にいるだけの存在だった。

京ちゃんに対して抱く感情は、一言で言えば『無』だ。

「ゆずくん?聞いてる?」

「……ごめん全然聞いてなかった」

「もー!!ほんっとそういうとこ、昔から変わんないよね!あたしの話右から左なの」

それが、だ。
不服そうに膨らました頬を指で突っついてみたいとか、単純にその姿をかわいいとか、そんなふうに思うようになったのは、それもこれもあの日。京ちゃんが東京に行くと言い出した日から始まった。

「うちの近くにも川が流れてるんだけどね、やっぱりしらら川は綺麗だよねって話!」

「へー。毎日見てるとわかんないけど。やっぱ田舎だからかな」

「……田舎だからなのかなぁ」

「いやわかんない。俺東京行ったことないし。東京の川汚そう」

「偏見!」

さっきまで頬を膨らませ口を尖らせていたくせに、あっという間にひまわりみたいに笑う。昔からそうだ。
さっきまで泣いてたかと思えば、急にけらけら笑いだす。
京ちゃんといると、自分の感情の持ち合わせの少なさを、自覚せざるを得ない。

ふと視線を隣へやったとき、京ちゃんの首筋を汗の粒が滑り落ちた。

「……暑いね。家帰ろっか」

「えっ、もうちょっといようよ」

「いいけど……暑くないの?」

まあまあ、となぜか俺の問いかけは受け流され、京ちゃんは俺の手の中を覗き込んだ。
柔らかな髪の毛先が、ほんの僅かに俺の親指をかすめる。それがくすぐったくてもどかしくて、俺はやっぱり帰りたいなと思うのだった。

「……なに」

「これ、あたしがあげたやつでしょ?読んでくれてるんだなぁって」

「まぁ…。ちょっとおもしろそうだったし」

なんて、本当はまだ半分も読んでないし、なんなら話の内容なんて大して頭に入ってない。俺がこの本に見出す価値は内容じゃないのだけれど、それはまだ言えずにいる。



京ちゃんが東京で学校の先生になるとこの町を出て行く日、俺は見送りに行けなかった。ちょうど予備校の春期講習に通いだした頃で、俺は体よくそれを理由に行かなかったのだ。

行きたい大学じゃなくて、行ける大学に行こうと思っていた俺にとって、それはさほど重要なことではなかったのに、だ。

そしてあの日、家に帰った俺の部屋の机には、十冊の本が平積みされていた。

『ゆずくんは自分の気持ちを伝えるのが苦手だよね。本読んで、ちょっとは感情的になってみたらいいんじゃない?あたしのおすすめ置いてくから、次に会ったら感想文提出ね!』

俺はそのメモ紙を手にしたとき、自然と涙が溢れていた。そんなことは初めてだった。
寂しいとも悲しいともちょっと違う、それが嬉しいだったと気付くのは、その年の夏。花火大会の日の朝。

この日に京ちゃんが帰ってくることは、母から聞かされて知っていた。
どんな顔して会えばいいのかわからなくて、でも会いたい気持ちも抑えられなくて、たまらず家を飛び出してここへ逃げてきていた俺を、京ちゃんは見つけてくれた。

『ゆずくんっ!!』

聞き慣れたその声に振り返って、そこに京ちゃんが立っていたあの瞬間、俺はまごうことなく『嬉しい』と思ったんだ。俺はあの日、嬉しかったんだ。

もう二度と会えないなんて思ってはなかったけれど、京ちゃんが俺の名前を呼んだことが嬉しかった。俺がここにいるとわかってくれたことが、嬉しかった。

『ここで見るしらら川は、キラキラしてるんだよ』

いつだったか、とにかく冬の寒い日。午後から雪が降るなんて予報だった気がする。そんな日に京ちゃんは、この堤防に俺を連れてきて、そう言った。

キラキラ、俺にはどこで見ても同じ、なんの変哲もないただの地元の川に見えたけど、京ちゃんにはそう見えるんだなと不思議に思ったものだった。

それから度々、俺たちはこの堤防で暇を持て余した。
家に帰ったってどうせやることもなくて、むしろ親に畑仕事の手伝いをさせられたり、買い物に付き合わされたり、ろくなことがないのは一緒だったから。
ここでなにを話したり、話さなかったり。本当にただ隣にいるだけの、一緒とも言えないような時間を過ごした場所。

俺はあの夏以来、毎年花火大会の日の朝はここへ来る。うだるような暑さの中、京ちゃんが置いていった本を片手に、君が見つけてくれるのを待っているんだ。



「京ちゃん、いつまでこっちいるの?」

聞いたところで、どっか出掛けようとか気の利いたことも言えないのだが。

「今年はちょっと早めに帰らなきゃなんだよね。明後日には帰るよ」

「えっ…、あそうなの」

声色に気持ちが乗ってしまっていそうだ。いつもならぎりぎりまでこっちにいるのにな。

「覚えてるかな~。あたしが高校のときよく一緒にいた、みやびちゃん。みやびちゃん結婚するんだよ。式がちょうど夏休み中にあってさ」

むんっと自分の膝の上に頬杖ついて、幸せそうに目を細める京ちゃん。

みやびちゃん、の顔はうろ覚えだが、あまり決まった人とつるまない京ちゃんが珍しく一緒にいたのが、彼女だったと記憶している。

「へえ。みやびちゃんも東京にいるの?」

「うん。家近いんだよ!旦那さんの地元でね、よくみんなで一緒にご飯行ったりしてるの」

「……ふーん」

なんでか脳裏に過る、得体の知れない男の姿。
三人で、と言わないところが京ちゃんの罪なところだ。わざわざ俺に言う必要もないと思っているのだろうけど。

「京ちゃんも結婚したりするの」

手元の本に視線を落として、なんとなく活字を目で追ってみるけれど、もちろんなんにも読めてなどない。
「彼氏がいるの?」と聞けないところが、俺の面倒なところだ。

「えー?そりゃいつかはする…したい、よね。できるかわかんないけど」

「珍しく自信なさげじゃん」

「だって、相手いないもん。全然その気なさそうだし」

……その気、ってなんだ。

「え、なに…?好きな人はいるってこと?」

さっきまで心地よかった川の音とセミの鳴き声が、急に耳にうるさい。焦燥を煽ってくるな。

「……いるよ。でも全然、なんにもないって感じ」

お山座りで膝を抱え込んで丸まった背中を、どうしてやろうかと思った。
このまま抱き締めたら、どんな顔をするのか。それとも優しく撫でたりしたら、喜んでくれるのか。

俺は、弱った京ちゃんになにができるのか。なにをしてあげたいのか。

頭で考えても、よくわからなかった。俺は大体いつもそうだ。たぶん今日のことも、あと数年経って初めて、答えがわかるのだろう。

京ちゃんがこの町を出て行くと言った日も、東京へ行ってしまった日も、俺はいつも終わってから気付くんだ。あのときどうしたらよかったのか、どうしたかったのか、自分の本当の気持ちに。

「ふふっ。ごめんね、こんな話。お姉ちゃんの恋愛話とか嫌だよね」

そうやってぐるぐる考えているうちに、結局こうして京ちゃんが助け舟を出してくれるんだ。いつだってそうだ。

「別に…京ちゃんのことお姉ちゃんとか思ったことないよ」

「え、それはひどくない?あんなにお世話してあげたじゃん!」

「覚えがないなぁ」

「言っとくけど、あたしゆずくんのオムツだって変えたことあるんだからね!?」

「うるさっ。いつの話してんだよ」

五つ年上の京ちゃんは、たしかに俺の手を引いてくれる存在だった。
だけど自分よりもずっと小さくて頼りない京ちゃんを、到底姉とは思えなかったし、思い描く年上の女性像とはだいぶかけ離れていて、そういう対象でもなかった。

でも、今は違うだろ。

「……京ちゃん」

今はもう、違う。年上とかお姉ちゃんとか幼馴染とか、そのどれも違う。違うってわかっていた。

俺の隣にいて欲しいって思ってる。
それがどういうことなのかは、京ちゃんの置いていった本が教えてくれたんじゃないか。

「俺さ…、東京、行くから」

まわりくどいけど、少しでいいから、伝わっていて欲しい。

ほんの少しでいいから俺の気持ち、伝わっていてくれ。京ちゃんが好きな人となんにもないなら、利用していいよ。利用していいから。

願うように、俺はぎゅっと視界を閉じて、川の音とセミの鳴き声に耳を傾け続けている。

いつもなら沈黙に耐え切れなくなった京ちゃんが助け舟を出してくれるのに、今はうんともすんとも言わないし、俺は俺で前も横も見れないし気の利いた言葉も言えない。

肩を並べて押し黙った俺たちは、まるで暇を持て余していたあの頃みたいだった。



「……しらら川、キラキラしてるんだよ」

そしてやっと口をひらいた京ちゃんは、またその話だ。

「……うん。さっきも聞いた」

「東京の川ね、別に汚くないよ」

そのとき、京ちゃんの小さな肩が、俺の腕にくっついた。じわじわと熱くなる右腕をどう逃がしたらいいかと考えているうちに、その熱が離れていく。

「東京の川だって、普通に綺麗だよ。あたしは今住んでるとこ、結構好きなの」

「へ、へえ。そうなんだ」

俺が動揺しているせいなんだろうか。
ちっとも京ちゃんの言いたいことがわからない。

「……ここから見るしらら川、あたしには特別綺麗なんだ」

ん…?これって、もしかして……

「えっ、京ちゃんもしかして、こっち戻ってくるの…!?」

さっきから何度も、しらら川の魅力を説いてる気がする。だからそう聞いたけれど、どうもそれは見当はずれだったようで、鼻で笑われてしまった。

「違う違う。んー…どうしよ…どうなんだこれ…」

一人でぼそぼそと話しだしたかと思えば、また黙り込んでしまった京ちゃん。
手持ち無沙汰な俺は、すっかりぬるくなったペットボトルの水を口に含んだりしてみた。

「あ、それ…ひと口欲しい」

「ん。ぬるいからおいしくないと思うけど」

こんなことだって、生まれたときから一緒なのだ。幾度となくしてきたことだ。
けれど俺は、もうそれを下心でしか見れなくなっていて、そんな俺に気付いて欲しいような欲しくないような、複雑な感情を抱えている。

ひょっとして東京の男にも、こんなふうに当たり前みたいな顔して、飲みかけのペットボトルをねだったりするんだろうか。

俺はピンク色に染まった京ちゃんの横顔を、じっと見つめていた。

「もう帰ろ。暑いでしょ。花火の前に倒れちゃうよ」

そう声を掛けても、京ちゃんは動こうとしない。
どうせ家に帰ったって、夕方からは俺の家の庭で一緒にバーベキューをするのに。毎年の恒例行事じゃないか。

「っ、だからね!だから…その…」

文脈がめちゃくちゃだけど、京ちゃんはなにか言おうとしていた。国語の先生だっていうのに、こんな話し方で普段大丈夫なんだろうか。

それともさっきの、俺のまわりくどいアレが、多少は伝わっているのだろうか。

そしたら、もしかしてこの間は、その返事ってこと……か?

「あー…、東京行くのはさ。就職、こっちだとあんまりいいところないしってことで…家継ぐのはまだ決められないっていうか…そういうあれだから…」

そういうあれ、ってなんだ。

伝わっていて欲しいなんて願いながら、俺はなにより怖いのだと今知った。
京ちゃんが俺の隣にいてくれないことが、一番怖い。
姉とか幼馴染とかそれじゃないなにかとか、形なんて割とどうでもよくて、俺はただ、京ちゃんにずっと隣にいて欲しいだけなんだ。

この間が……怖い。

「……そういうあれ、なの?」

その声色に驚いて隣を見れば、ほんのわずかに、たぶん幼馴染の俺にしかわからないくらい、少しだけ唇を前に突き出して、なんだか不満げな横顔の京ちゃんがいた。

「えっ…なに」

「そういうあれなのって聞いてる」

「えー…えー…??」

拗ねてる…わけないよな。じゃあなんだ?
なんでそんな横顔で俺の隣に座ってるんだ?

「そういうあれ…だけじゃないよ」

俺が絞り出した返事を聞いて、京ちゃんはちらっと視線を俺の目に合わせた。
潤んだ瞳がなんだかまるで子犬のようで、ちっともお姉ちゃんなんかじゃない。

京ちゃんは、一つ大きな溜息をついてから身体を起こし、いわくキラキラしているらしい、しらら川を眺めたまま、小さな唇をわずかに動かした。
隣にいてもセミの声にかき消されて、なんと言ったのかまではわからなかった。

「…ゆずくんが東京きたら、きっと荒川もキラキラして見えるなって」

「へ?」

「なんでかわかる?」

問いかけと同時に、京ちゃんは頬杖をついて、俺の顔を覗き込んだ。
その目が、俺を試すような視線が、なにを意味しているのか期待しそうになる。
そんな顔、ただの幼馴染に向けていい顔じゃないだろ…!

「わ、わ、わかんない」

このとき、初めて思い知った。
京ちゃんはちゃんと大人だ。ちゃんと年上の女性だったらしい。

たまらず京ちゃんから視線を逸らし、次に目の前を流れるしらら川が視界に入ったとき、俺は初めて、ただの地元の川がキラキラと輝くのを見たんだ。