週に三日だったパートを四日に増やした。たった一日のことなのに身体に疲れが溜まっていくのを感じる。否、この疲れは仕事のせいなんかじゃない。安らげる場所を奪われてしまったせいだ。

 ――このまま真っ直ぐ帰っても、ねぇ……。

 勤務後、職場でもあるスーパーで買い物カートを押しながら、幸恵は溜息をついた。冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、目に付く食材をカゴに放り込んでいく。

 ――牛乳がちょっとしか残って無かったかしら? あ、アイスコーヒーは余分に買っておいた方がいいわね。

 ペットボトルに入った無糖コーヒーを二本手に取ると、まとめてカゴに入れる。幸恵自身はインスタントで作るカフェオレ派だが、夫はブラック派でアイスの方を好んで飲む。家に居る時間が長くなった分、和彦用のコーヒー消費量が格段に増えた。食べ物や飲み物だけじゃなく、トイレットペーパーやティッシュなんかの日用品も、家にいる大人が一人増えただけでも随分と減りが早い。
 そういった些細な変化に、いちいち苛立ちを感じてしまう。

 居間にある座椅子に凭れかかって新聞やテレビを見ていたり、二階の書斎に何時間も籠っていたり、退職後の夫の過ごし方はこれまでの休日と大差ない。今までだって週に二日はそうしていたはずなのに、この生活が延々と続くかと思うと煩わしさを覚えずにいられない。二日くらいなら耐えれたけれど、それ以上は……。

 夫が家にいるだけで、落ち着かない。同じ空間にいるのに、何も話すことがないのが苦痛でしかない。かと言って、無理矢理に話題を振っても「あぁ」の一言しか返ってこないのは目に見えていた。だから、幸恵の方からも必要以上に話し掛けることも減っていた。

 ――この生活って、続けていく意味があるのかしら……?

 子供達を産み育てて、独り立ちしていくのを見守るという使命は既に果たし終えた。この先も夫と共にいなきゃいけない理由は何だろう。
 還暦を過ぎてしまった和彦とは違って、幸恵はまだ四十代だ。残りの長い人生をこんな面白みのないまま過ごすのかと思うとウンザリする。自由に生きている美千代のことを思い出し、心底羨ましくなってくる。

「ハァ……」

 溜息が止まらない。かと言って、幸恵には一歩を踏み出す勇気はなかった。


「ただいま」
「……あぁ、おかえり」

 荷物が多いからと裏口から帰って来た妻に、和彦は少しばかり驚いている様子だった。台所の戸棚を開いていたところを見ると、小腹が空いてお菓子でも探していたのだろう。ダイニングテーブルの上にはグラスに注がれたアイスコーヒーが用意されている。

 シンク横に置いてあるカゴの中に、洗い終えた弁当箱が並べてあるのが幸恵の視界に入る。昼食を食べた後、夫はきちんと自分で洗っておいてくれていた。仕事をしている時も、たまに弁当を作ってあげれば、職場の給湯室でさっと洗ってから持って帰って来てくれる、そんな人だった。

 ――不満に思うのは、贅沢なことなのかしら……。

 退屈だから、詰まらないから。そんな理由で夫と別れることを夢見ている自分に、世間は呆れてしまうだろう。娘達だって、納得してくれはしないだろう。子供の目からもそれなりに良い父親だったのだから。

 けれど、今の状態は生殺しでしかない。何の楽しみもなく、ただ生きているだけ。別に夫のことを嫌いになった訳でもないのが、逆に辛い。
 それとも、残りの人生はただ静かに、目的も生き甲斐もないままに生きていくのが正解なんだろうか。もう何も願ってはいけないんだろうか。

 まだ夫が戸棚を物色している横で、買って来た物をエコバッグから出して冷蔵庫へと収納していく。あいにく今日は、彼が好きそうな菓子類は何も買ってきていなかった。
 夫婦で何の会話も無いまま、予備のホイルを引き出しに片付けている時、裏口のドアの向こうから聞き慣れた声が聞こえて来た。

「ナァー」

 甘えたような愛らしい鳴き声に、幸恵は急いで勝手口のドアを開きに走る。お天気の良い日にしか現れない三毛猫が、久しぶりに遊びに来てくれたのだ。いつものように声を掛けて迎え入れる。

「ミーコ、いらっしゃい!」
「ナァー」

 三毛猫は長く白い尻尾をぴんと伸ばして、幸恵の足に擦り寄りながら家の中へと入り込む。