内装をリフォームした時に一緒に交換したという玄関扉は、古臭いタイル張りの外壁とは少しばかりミスマッチだった。良く言えばレトロな古臭い外観には、メタリックな扉だけが浮いて見える。
 持ち出してきた鍵を差し、その扉を引っ張り開けると、梓の足元にいた三毛猫がするりと中へ入り込む。まるで自分の家かのように、躊躇いなく奥へ入っていく猫。

「あ、ちょっと……」

 慌てて靴を脱ぎ、梓も後を追いかける。廊下の壁に飾られていた何枚かの絵は撤去されていて、何だかすっきりしている。薄っすらと日焼けしたクロスには、サイズが不揃いの額縁の跡が残っていた。全ての部屋のドアは開けっぱなしで、以前はソファーやテーブルが置いてあったリビングは、家具を置いていた床が少し凹んでいるのが見えた。

 片付けには途中までしか参加していなかったから、完全に物が無くなった状態は今初めて見る。ガランとした空間は、何か全く知らない場所に来たみたいだ。
 洗面所の横を通り過ぎ、二階へと続く階段を三毛猫は駆け上っていく。梓もその後に続いて、やや狭い階段を慎重に上った。

 上の階には祖父が寝室として使っていた部屋がある。体調が悪化して足腰が弱まったギリギリまで、入院する直前まで、亡き祖父はそこで寝起きしていた。一階にも使っていない部屋があるにもかかわらずだ。

 祖父がどうしても二階がいいと言い張った為、階段に木製の手摺りが設置された日のことを梓はよく覚えている。念には念をとホームセンターで買ってきた滑り止めシートを父と一緒に一段ずつ貼った記憶もある。
 本当に些細な思い出だけど、ここにはいろんな記憶を蘇らせるスイッチが詰まっていた。

 猫に誘導されて辿り着いたのは、祖父が寝室にしていた部屋だった。カーテンが取り外されたせいで西日が差すそこは、この洋館の中でも別段広いという訳でもない。二階の東側にある部屋の方が広さはあるはずだ。それもまた、祖父がここをメインに使っていたのが不思議な点だった。

「ナァー」

 部屋に入って、ウロウロと中を一回りした後、三毛猫は窓の下で鳴いた。西日がサンサンと入り込んでいるガラス窓を目を細めて見上げている。

「窓を開けたらいいの?」

 玄関でもそうだったが、猫は鳴けば人間が何でも開けてくれるとでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら、言いなりになっている風で、ちょっと解せない。そう思いながらも、つい言われるがまま開いた窓からは、ふわっと暖かい風が吹きこんでくる。締め切られて淀みかけていた空気が一掃されるかのように、とても心地良い。

 その優しい風に大好きな香りが含まれているのに気付き、梓ははっとした。さっき庭を横切った時に漂っていたのとは違う、強く甘い香り。

「あ、そうだったんだ……」

 窓の外を覗いた梓の目の前には金木犀の木があった。2メートルの木のてっぺんが視線の下に見える位置にある。地面から吹き上げてくる風に乗って、橙色の小花の香りがまとめて入り込んでくる。それは木の横で嗅ぐよりも、強く甘い。植木屋の剪定後だとは思えないほどはっきりした香りに、梓はとても幸せな気持ちになる。

 祖父も梓と同じように金木犀の香りが大好きだった。否、この場合は梓が祖父から好みを受け継いだといった方がいいのかもしれない。可愛がっていた猫の墓にこの木を植えることにした祖父の気持ちは、梓が一番よく理解できる。

 ――だから、この部屋だったんだね。分かるよ、お爺ちゃん。

 窓の真下で、三毛猫は吹き込んでくる風に白い髭を揺らしている。眩し気に目を細めながら、とても気持ちが良さそうだ。


「ねえ、お爺ちゃんの形見分けって、何でもいいの?」

 夕食時に両親へ向かって、梓が言った。大叔母達がやって来た時には結局何も貰いはしなかった。けれど今日、とても手に入れたい物が見つかったのだ。

「あら、欲しい物がやっと見つかった? 残ってる分は屋根裏に上げたから、勝手に探していいわよ」
「何でもいいぞ。梓が使うなら、お爺ちゃんも喜ぶだろ」

 もう使い道のない家具や衣類はリサイクルショップに引き取って貰った。細々とした雑貨類の一部は段ボール箱に詰めて、一旦は物置で保管している。欲しがっている物がその中にあるのだと思った両親は、一人娘の願いに耳を傾ける。

「お爺ちゃんが使ってた、二階の部屋が欲しいんだけど。解体するのやめて、私が使っていいかな?」

 空き家のまま放置するのはダメだからと誰かに貸す案も出たくらいだ、梓が住めば丁度いいじゃないかと訴える。別に一人暮らしがしたい訳じゃないから、食事もお風呂も今まで通り。ただ、離れのあの部屋がいいのだ。

 思いがけない娘の願いに、両親は困り顔で眉を寄せている。同じ敷地内の、ほんの数メートル離れただけの建物だから、心配という訳でもない。敷地の広さに余裕のある家が、子供部屋を別に建てていることだって別に珍しくはないから。

「……んー、まぁ、梓が住めば解体しなくて済むしなぁ」
「自分でちゃんと掃除できるなら、いいんじゃない?」

 壊すには勿体ないとは、二人ともどこかで思っていたのだろう。フルリノベーションしてからまだ十年も経っていないし、外装も少し補修してもらえば十分マシになるはずだ。


「ナァー」
「えー、また来たの?」

 玄関前で鳴いて呼ばれると、梓はバタバタと派手な足音を立ててから扉を開く。石畳の上でちょこんと行儀よく座って待っていた三毛猫は、扉の隙間からするりと入り込むと、当たり前のように家の中へと進んでいく。

 離れに再び住民ができると、三毛猫は頻繁に遊びに来るようになった。毎日というほどではないが、ふらりとやって来て、しばらく寛いだ後にまたふらりと帰って行く。マイペースな訪問に振り回されるのも、それほど悪い気はしない。かつての祖父も、この気まぐれを楽しんでいたのだろうか。