駅からの帰宅ルートを変更して、少しだけ遠回りすれば、高さが1メートルちょっとある生垣に囲まれた家の前を通る。周りの家よりも少し広い屋敷にはこの辺りの地主だった老夫婦が住んでいるらしい。よく手入れされた生垣は全て金木犀の木で、見つけた時はテンションが上がった。それが今はちょうど満開の時期にきていて、橙色の壁がぐるりと敷地を包囲している様子は、遠目から見ても色鮮やかだ。
普段はあまり通ることのない道だけれど、梓は雨の日以外は、今の時期だけはこの道を通るようにしていた。学校で何か落ち込むようなことがあったとしても、この橙色の生垣の前を通過すると、不思議なことにどうでもよくなってくる。くどい程の甘い香りが気持ちを和らげてくれるのだ。
鼻で大きく息を吸い込んで、大好きな香りを身体の中に取り入れる。もし一年中この花が咲く国があったなら、是非とも移住したいくらい。毎日幸せな気分で生きていける気がする。
香りを堪能しながらゆっくりペースで歩いていると、すぐ足元からカサカサと枝や葉が動く音が聞こえてきた。何かの生き物の気配。音のする生垣の根元に視線を送り、丸く光っている黄色の二つの瞳と目が合って、思わず小さく飛び上がりそうになる。
――び、びっくりしたぁ……。
生垣の隙間から顔を出したのは、見覚えのある三毛の猫。木の下を潜り抜けて、道路へと出てきたらしい。驚いて立ち止まっている梓のことを、不思議そうに見上げている。
「ナァー」
挨拶のつもりか、梓に向かって一鳴きしてくる。至近距離で見たのは今日が初めてだったが、思っていた以上に毛並みがとてもキレイな猫だ。外を出歩いている割に脚と長い尻尾は先まで真っ白だ。白以外の茶と黒の模様は控え目で、かなり白が多い毛色。今は背中に枯葉が一枚乗っかってはいるが、完全な外猫という訳ではなさそう。
「君、ここの家の子なの?」
ここに住んでいるという老夫婦に飼われている猫だろうか。だとしたら、梓の家までは結構な距離がある。犬ほどは動き回らないイメージがあったが、猫の行動範囲は思っていたよりも広いのかもしれない。
「じゃあね」と猫に声を掛けて歩き出した梓だったが、しばらく進んでから何となく気になって途中で後ろを振り向いてみる。と、5メートルほど離れたところをさっきの三毛猫が軽快に歩いているのが目に飛び込んできた。
――ん?
たまたま同じ方向に行くつもりなのか? それとも梓に付いて来ているのか? 道端に目に付くものがあれば匂いを嗅いだり、擦り寄ったりと寄り道ばかりしてはいるが、三毛猫は梓と同じ道をずっと歩いて来ているようだった。
この様子を知らない人が目撃したら、飼い主に付いて回る飼い猫にしか見えないだろう。勿論、一人と一匹は完全なる無関係だったが。
偶然に猫の散歩コースと被ってしまっただけだろうと、梓はそれ以上を気にするのはやめた。他所の猫に関わっても、別に何の得にもならない。そこまで猫に興味はない。
自宅に着き、鉄製の門扉を開いて中へと入ろうとして、梓は途中でその動きを止める。三上家の敷地を囲むフェンスを飛び越えて、猫が軽々と庭へ侵入しているのが視界に入ったからだ。庭の植木を除けながら、奥にある洋館の方へと歩いて行く猫を、梓は慌てて追いかける。
――やっぱり、うちに来るつもりだったんだっ。
同じ猫が何度も遊びに来るのは、お爺ちゃんが餌をあげていたからなんじゃないかと、伯母の圭子は言っていた。亡くなってから随分経つけれど、動物はちゃんと覚えているものだと。
猫に言ったところで通じるとは思わない。けれど、梓は三毛猫へちゃんと伝えてあげたいと思った。離れの石畳の上で尻尾を伸ばして歩いている猫に向かって声を掛ける。走って近付いてくる少女に気付いたのか、猫は立ち止まってこちらを見ている。よっぽど人馴れしているのか、逃げようともしない。
「お爺ちゃん、死んじゃったから、もう居ないよ。この家ももう誰も住んでないし、もうすぐ解体されることになってるから」
駐車場になってしまえば、車の出入りもあるし猫がウロウロしているのは危険だ。家の前で事故にあったタマの話を大叔母から聞いた後だし、特に心配になってくる。
もう二年は経っているのに、改めて言葉にしてみると、少し胸がつまされる。大好きだった祖父はもう居ない。想い出の詰まった洋館もその内に壊されてしまう。猫に言い聞かせているつもりだったが、梓自身がしゅんと落ち込んでしまう。
「ナァー」
玄関扉を見上げながら、三毛猫が鳴き始める。祖父が住んでいた時には、いつもそうやって鳴いて中へ入れて貰ってたんだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってて。鍵持ってくるから」
どうせもう壊すだけの建物だ。荷物も全部運び出してあるし、他所の猫を入れてあげても、誰も怒りはしないだろう。梓は自宅へと向かい、玄関のシューズクローゼットから離れの鍵を取りに走った。
普段はあまり通ることのない道だけれど、梓は雨の日以外は、今の時期だけはこの道を通るようにしていた。学校で何か落ち込むようなことがあったとしても、この橙色の生垣の前を通過すると、不思議なことにどうでもよくなってくる。くどい程の甘い香りが気持ちを和らげてくれるのだ。
鼻で大きく息を吸い込んで、大好きな香りを身体の中に取り入れる。もし一年中この花が咲く国があったなら、是非とも移住したいくらい。毎日幸せな気分で生きていける気がする。
香りを堪能しながらゆっくりペースで歩いていると、すぐ足元からカサカサと枝や葉が動く音が聞こえてきた。何かの生き物の気配。音のする生垣の根元に視線を送り、丸く光っている黄色の二つの瞳と目が合って、思わず小さく飛び上がりそうになる。
――び、びっくりしたぁ……。
生垣の隙間から顔を出したのは、見覚えのある三毛の猫。木の下を潜り抜けて、道路へと出てきたらしい。驚いて立ち止まっている梓のことを、不思議そうに見上げている。
「ナァー」
挨拶のつもりか、梓に向かって一鳴きしてくる。至近距離で見たのは今日が初めてだったが、思っていた以上に毛並みがとてもキレイな猫だ。外を出歩いている割に脚と長い尻尾は先まで真っ白だ。白以外の茶と黒の模様は控え目で、かなり白が多い毛色。今は背中に枯葉が一枚乗っかってはいるが、完全な外猫という訳ではなさそう。
「君、ここの家の子なの?」
ここに住んでいるという老夫婦に飼われている猫だろうか。だとしたら、梓の家までは結構な距離がある。犬ほどは動き回らないイメージがあったが、猫の行動範囲は思っていたよりも広いのかもしれない。
「じゃあね」と猫に声を掛けて歩き出した梓だったが、しばらく進んでから何となく気になって途中で後ろを振り向いてみる。と、5メートルほど離れたところをさっきの三毛猫が軽快に歩いているのが目に飛び込んできた。
――ん?
たまたま同じ方向に行くつもりなのか? それとも梓に付いて来ているのか? 道端に目に付くものがあれば匂いを嗅いだり、擦り寄ったりと寄り道ばかりしてはいるが、三毛猫は梓と同じ道をずっと歩いて来ているようだった。
この様子を知らない人が目撃したら、飼い主に付いて回る飼い猫にしか見えないだろう。勿論、一人と一匹は完全なる無関係だったが。
偶然に猫の散歩コースと被ってしまっただけだろうと、梓はそれ以上を気にするのはやめた。他所の猫に関わっても、別に何の得にもならない。そこまで猫に興味はない。
自宅に着き、鉄製の門扉を開いて中へと入ろうとして、梓は途中でその動きを止める。三上家の敷地を囲むフェンスを飛び越えて、猫が軽々と庭へ侵入しているのが視界に入ったからだ。庭の植木を除けながら、奥にある洋館の方へと歩いて行く猫を、梓は慌てて追いかける。
――やっぱり、うちに来るつもりだったんだっ。
同じ猫が何度も遊びに来るのは、お爺ちゃんが餌をあげていたからなんじゃないかと、伯母の圭子は言っていた。亡くなってから随分経つけれど、動物はちゃんと覚えているものだと。
猫に言ったところで通じるとは思わない。けれど、梓は三毛猫へちゃんと伝えてあげたいと思った。離れの石畳の上で尻尾を伸ばして歩いている猫に向かって声を掛ける。走って近付いてくる少女に気付いたのか、猫は立ち止まってこちらを見ている。よっぽど人馴れしているのか、逃げようともしない。
「お爺ちゃん、死んじゃったから、もう居ないよ。この家ももう誰も住んでないし、もうすぐ解体されることになってるから」
駐車場になってしまえば、車の出入りもあるし猫がウロウロしているのは危険だ。家の前で事故にあったタマの話を大叔母から聞いた後だし、特に心配になってくる。
もう二年は経っているのに、改めて言葉にしてみると、少し胸がつまされる。大好きだった祖父はもう居ない。想い出の詰まった洋館もその内に壊されてしまう。猫に言い聞かせているつもりだったが、梓自身がしゅんと落ち込んでしまう。
「ナァー」
玄関扉を見上げながら、三毛猫が鳴き始める。祖父が住んでいた時には、いつもそうやって鳴いて中へ入れて貰ってたんだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってて。鍵持ってくるから」
どうせもう壊すだけの建物だ。荷物も全部運び出してあるし、他所の猫を入れてあげても、誰も怒りはしないだろう。梓は自宅へと向かい、玄関のシューズクローゼットから離れの鍵を取りに走った。