家を出る前まで考えていたのとはまるで違う状況に、和樹は苦笑を漏らす。犬の散歩と言えば、リードを引っ張られて走り回されるイメージでいたが、これはどう考えても逆だ。早朝から走るのは嫌だなと思っていたけれど、これはこれで違う意味でキツイ。

「リツ、もうちょっと早く歩けない?」

 自分の後ろを付いて歩く黒柴は、不思議そうに和樹の顔を見上げている。急に立ち止まって引っ張り戻されることはあっても、犬の方から先を急かされることはない。のそのそと少しだけ歩いては、電柱や生垣などの匂いを嗅ぐ為に立ち止まり、またゆっくりと歩き出す。
 老犬のペースに合わせていると、いつまで経っても家には帰れない気がしてきた。

 まだたいして距離を進んでない内から、舌を出してハッハッと荒く息しながら、柴犬は毎日繰り返してきた散歩コースを忠実に歩いていく。その途中には和樹が初めて通るような細道もあり、中には市道ではなく私道なんじゃないかと通過するのを躊躇うところもあった。

 勝手に通ったら怒られるんじゃないかとドキドキしながら他所の家の間を抜けて行き、ようやくまともな車道に出たかと思うと、今度は陽の光が当たらない森のような坂道を登っていく。

「……ここって、神社?」

 和樹が森だと思っていたのは、神社へと続く参道だったようで、坂が終わったと同時に急に開けた明るい場所に出た。小さな社と社務所だけの、こじんまりとした神社には幼い頃に母達に連れられて来た記憶がある。あれは年末年始を祖母の家で過ごした時だったから、初詣とかだと思う。

 ――ああ、あれってここだったんだ……。

 たった一度来ただけだから、道順なんて覚えてもいなかった。年に数回だけ連れられて来る母親の実家の近所なんて、全く馴染みがない。ほとんど知らない土地だし、リツが一緒じゃなかったら、この後もまともに帰れる自信もなかった。

 相変わらず息の荒い黒柴は、社務所の前に設置されたベンチの横で座り込む。そして何か言いたげに、和樹の顔をじっと見つめている。

「えっと……あ、水かな? リツ、水飲む?」

 休憩する時には水を飲ませてあげてね、と祖母から言われていたことを思い出し、背負っていたリュックをベンチに下ろして中を確認する。水の入ったペットボトルと犬用の水皿。それらを取り出してから、リツへと与える。

 リュックの中には和樹が飲む為の水筒まで入っていたので、それを立ったまま一気に飲み干す。起床してから何も口にしてなかったから、キンキンに冷えた麦茶は胃の奥底まで沁みいる。
 まだ寝ぼけていた頭が今になってようやく覚めた気がする。

「リツは……まだ飲んでんの?」

 ゆっくり飲み続けている犬の様子に、少し諦め気味に溜息を付くと、和樹はベンチへと腰を下ろした。リツの素振りから、祖母がいつもこのベンチで犬と一緒に休憩していたのが安易に想像できる。

 日曜の朝に、こんなに早くから外に出たのは久しぶりだ。徹夜明けという訳ではないけれど、昨日も深夜までネット配信を視聴していた。こうやって散歩を理由に叩き起こされなければ、今日も昼過ぎまで寝ているはずだった……。

 別にどうしても観たい物がある訳じゃない。ただ何となく、ぼーっと見続けていたらいつの間にか朝になっているだけで。

 いつも夜遅くか、明け方に帰ってきていた父親。和樹がまだ起きているとは知らず、酔っぱらって玄関でイビキをかいて寝ていることが何回もあった。始発に乗って帰ってくるならまだいい方で、朝起きても父親が帰って来ていない日も珍しくなかった。「お父さんは?」と聞いても、「連絡ないから知らない」と答えてくる母親。子供心にどうしようもない男だなと呆れていた。
 だから、顔を合わせたら言い合いするばかりの両親が、離婚すると言い出した時も、やっぱりなと思った。結構耐えてた方だなと母親のことを感心していたくらいだ。

 転校は免れたけれど、引っ越しして慣れない土地と、これまでは滅多に会わなかった祖母との同居。急に押し付けられた老犬の散歩。なんで急にこんな目に、という思いは強い。

 ようやく水を飲み終えた後、ベンチの横で黒柴は完全に伏せってしまい、まだ散歩を再開しそうにない。

「そろそろ、お腹空いてきたんだけど……」

 お茶を飲んだことで動き始めた胃がグルグルと鳴り始める。早く帰って朝ご飯が食べたいと、リツのリードを軽く引いて促す。
 仕方ないなと言いたげに、のっそりと立ち上がった黒柴は耳をピクリと動かした。

「ん、どうした?」

 犬が気にしている方向に和樹も視線を向ける。坂になった参道を一匹の三毛猫がこちらに向かって歩いて来るのが目に入った。
 咄嗟に、和樹は手に握っているリードを短く持ち直す。犬と猫が遭遇すれば、喧嘩になると思ったのだ。リツが怒って猫に飛び掛からないよう、ギュッとリードを握りしめた。

「ナァー」

 けれど、和樹の心配をよそに、猫は警戒した素振りもなく、自分からリツへと近付いてきて、黒犬の脚にするりと擦り寄っている。ピンと伸びた白い尻尾がリツの顔の前を擦った時はさすがに噛みつくんじゃないかと焦ったが、そんなことは一切無い。

「あ、リツの友達って、この猫のこと?」

 散歩に出る前に祖母が言っていた。「りっちゃんのお友達に会ったら、よろしくね」と。まさか猫のことだとは思ってもみなかったが。