末娘の沙月が嫁いで行った後に、二人きりでは寂しくなるだろうからと、亡き夫が突然連れて帰って来たのが柴犬のリツだった。知り合いのブリーダーのところで安く譲って貰ったと言ってはいたが、実際のところ幾らを払って来たのかは分からない。
「黒柴はな、この眉毛の模様があるのがいいんだ。それにほら、この子は全部の脚に白足袋を履いてるんだぞ。足袋の長さもちゃんと揃っているのがいいんだ」
柴犬といえば茶毛のイメージしかなかった秋江には、黒犬の額にある楕円形の茶色い眉毛模様が百人一首などで見る平安貴族の麿眉にしか見えなかった。そのとぼけた眉毛を持つ雌犬は、一緒に生まれた五匹の兄弟では唯一の黒毛だったのだという。
夫自慢の毛色を持った黒犬は、生まれつき右目に少しばかりの濁りがあった。それがリツが兄弟犬の中でただ一匹だけ売れ残っていた理由なのだろう。「犬は耳と鼻が利くから、片目が見えなくても平気だ」夫はそういって笑っていたが、もし彼が引き取って来なければ、リツは殺処分されていたかもしれない。
秋江とリツが長い散歩から帰宅して、のんびりと昼食を食べ、テレビのワイドショーを流し見している時、自宅前の市道に引っ越し業者のトラックが横付けされた。
「あら、もう来たみたいねぇ」
座卓の横に置かれた専用の座布団の上で寝ころびながら、黒柴は耳だけを動かして様子を伺っている。急に賑やかになった玄関前を気にしつつ、それでも吠えたりはしない。大人しいと言えば聞こえはいいが、子犬の頃からリツに番犬は向いていなかった。
沙月の指示で次々と二階へと運ばれてくる荷物。一人と一匹だけの生活では使うことが無かった二階は、離婚を決めた後に何度かやって来た沙月によって掃除も片付けも済んでいる。空いている三部屋のうち二室を母子それぞれの私室として使い、もう一室はとりあえずの荷物置き場にするのだという。
「持って来られる物、全部持って来た。売れそうな物は後でリサイクルショップに持って行くわ」
余裕のない家計を長く強いられていたせいか、末子だからと甘やかして育てたことを案じていた娘は、別人のように逞しくなっている。
母親とは反対に、来て早々、自分に宛がわれた部屋に上がったまま降りて来ない孫の和樹。引っ越したことで中学は転校してくるのかと思っていたが、越境という形で今まで通りに同じ学校へ通い続けるのだという。確かに中三の一学期途中で学校が変わるのも嫌だろう。
「こっちはもう修学旅行は終わったらしいのよ。今転校したら、中学の修学旅行はどっちも行けないのは可哀そうじゃない?」
「それもそうねぇ」
引っ越しトラックを玄関前で見送って戻って来た沙月は、以前よりも少しやつれたように見えた。離婚の手続きと引っ越し作業を全て一人でこなしたらしく、ようやく全部終わったと疲れたように笑っている。
「しばらくはゆっくりするといいわ。仕事もこっちで探し直すんでしょう?」
「うん、家から遠くなるし、今までのパートは辞めてきちゃったしね。駅前の商店街でどっか無いかなぁ」
「最近入ってたチラシは一応取ってあるのよ。いいのがあるかは分からないけど」
新聞に折り込んであった求人チラシの束を壁面の引き出しから取り出して来ると、ダイニングで緑茶を啜っていた沙月へと渡す。秋江がしてあげられるのは、これくらいしか思いつかなかった。
「家賃は無理だけど、食費と光熱費はちゃんと入れるつもりだから。家事も出来るだけするし、母さんこそゆっくりしてよ。今までずっと一人でやって来たんだから」
「あら、嬉しい。でも家のことは任せてくれていいのよ。りっちゃんのお散歩だけ代わって貰えれば、随分と楽になるんだから」
「犬の散歩くらい、和樹にさせるわよ」
家にいてもどうせロクに勉強もしないんだから、と天井に視線を向ける。二階から一度も降りて来ない一人息子は、放っておけば一日中スマホで動画を観ているか寝ているだけだ。受験勉強をする気は全く無い。
夜中まで起きているかと思うと、学校から帰ってきたらすぐに寝てしまう。夕飯の時刻にのっそりと起きてきて、その後はまたひたすら動画三昧だ。朝起こしに行くと、イヤフォンを着けたまま寝ていることが何度もあったから、夜中は部屋の電気も点けずに暗がりの中でスマホを観ているのだろう。
受験生としての自覚を説く前に、まともな生活リズムへ戻すことの方が先かもしれない。
――あの子、散歩の時間に起きられるのかしら……。
沙月が心配していた通り、翌朝に普段よりもかなり早い時間に叩き起こされた和樹は、朝から若干キレ気味だった。「リツの散歩に行ってきなさい」と言われても、不貞腐れながら「今日は日曜だろ……」と布団をかぶり直す始末。
学校が遠くなっただけでも迷惑なのに、犬の世話まで押し付けられるなんてと、反抗期真っただ中の和樹には納得できないことばかりだ。必死で布団の中で抵抗を試みるが、最初が肝心とばかりになかなか引き下がろうとしない母親。
「ほら、リツも早く連れてって鳴いてるわよ」
一階からは、くーんくーんと散歩をねだる犬の声が聞こえてくる。その鳴き声があまりにも寂し気に思え、和樹は渋々とベッドから起き上がる。あんな声で鳴かれたら、意地も張りにくい。
「……ほら、行くぞ」
玄関で黒柴にリードを付け直し、祖母から手渡された散歩グッズの入ったリュックを渋々と背負う。中に何が入っているのか知らないが、意外と重い。老犬は黒いフサフサの尻尾を全力で振って歩き出した。
「黒柴はな、この眉毛の模様があるのがいいんだ。それにほら、この子は全部の脚に白足袋を履いてるんだぞ。足袋の長さもちゃんと揃っているのがいいんだ」
柴犬といえば茶毛のイメージしかなかった秋江には、黒犬の額にある楕円形の茶色い眉毛模様が百人一首などで見る平安貴族の麿眉にしか見えなかった。そのとぼけた眉毛を持つ雌犬は、一緒に生まれた五匹の兄弟では唯一の黒毛だったのだという。
夫自慢の毛色を持った黒犬は、生まれつき右目に少しばかりの濁りがあった。それがリツが兄弟犬の中でただ一匹だけ売れ残っていた理由なのだろう。「犬は耳と鼻が利くから、片目が見えなくても平気だ」夫はそういって笑っていたが、もし彼が引き取って来なければ、リツは殺処分されていたかもしれない。
秋江とリツが長い散歩から帰宅して、のんびりと昼食を食べ、テレビのワイドショーを流し見している時、自宅前の市道に引っ越し業者のトラックが横付けされた。
「あら、もう来たみたいねぇ」
座卓の横に置かれた専用の座布団の上で寝ころびながら、黒柴は耳だけを動かして様子を伺っている。急に賑やかになった玄関前を気にしつつ、それでも吠えたりはしない。大人しいと言えば聞こえはいいが、子犬の頃からリツに番犬は向いていなかった。
沙月の指示で次々と二階へと運ばれてくる荷物。一人と一匹だけの生活では使うことが無かった二階は、離婚を決めた後に何度かやって来た沙月によって掃除も片付けも済んでいる。空いている三部屋のうち二室を母子それぞれの私室として使い、もう一室はとりあえずの荷物置き場にするのだという。
「持って来られる物、全部持って来た。売れそうな物は後でリサイクルショップに持って行くわ」
余裕のない家計を長く強いられていたせいか、末子だからと甘やかして育てたことを案じていた娘は、別人のように逞しくなっている。
母親とは反対に、来て早々、自分に宛がわれた部屋に上がったまま降りて来ない孫の和樹。引っ越したことで中学は転校してくるのかと思っていたが、越境という形で今まで通りに同じ学校へ通い続けるのだという。確かに中三の一学期途中で学校が変わるのも嫌だろう。
「こっちはもう修学旅行は終わったらしいのよ。今転校したら、中学の修学旅行はどっちも行けないのは可哀そうじゃない?」
「それもそうねぇ」
引っ越しトラックを玄関前で見送って戻って来た沙月は、以前よりも少しやつれたように見えた。離婚の手続きと引っ越し作業を全て一人でこなしたらしく、ようやく全部終わったと疲れたように笑っている。
「しばらくはゆっくりするといいわ。仕事もこっちで探し直すんでしょう?」
「うん、家から遠くなるし、今までのパートは辞めてきちゃったしね。駅前の商店街でどっか無いかなぁ」
「最近入ってたチラシは一応取ってあるのよ。いいのがあるかは分からないけど」
新聞に折り込んであった求人チラシの束を壁面の引き出しから取り出して来ると、ダイニングで緑茶を啜っていた沙月へと渡す。秋江がしてあげられるのは、これくらいしか思いつかなかった。
「家賃は無理だけど、食費と光熱費はちゃんと入れるつもりだから。家事も出来るだけするし、母さんこそゆっくりしてよ。今までずっと一人でやって来たんだから」
「あら、嬉しい。でも家のことは任せてくれていいのよ。りっちゃんのお散歩だけ代わって貰えれば、随分と楽になるんだから」
「犬の散歩くらい、和樹にさせるわよ」
家にいてもどうせロクに勉強もしないんだから、と天井に視線を向ける。二階から一度も降りて来ない一人息子は、放っておけば一日中スマホで動画を観ているか寝ているだけだ。受験勉強をする気は全く無い。
夜中まで起きているかと思うと、学校から帰ってきたらすぐに寝てしまう。夕飯の時刻にのっそりと起きてきて、その後はまたひたすら動画三昧だ。朝起こしに行くと、イヤフォンを着けたまま寝ていることが何度もあったから、夜中は部屋の電気も点けずに暗がりの中でスマホを観ているのだろう。
受験生としての自覚を説く前に、まともな生活リズムへ戻すことの方が先かもしれない。
――あの子、散歩の時間に起きられるのかしら……。
沙月が心配していた通り、翌朝に普段よりもかなり早い時間に叩き起こされた和樹は、朝から若干キレ気味だった。「リツの散歩に行ってきなさい」と言われても、不貞腐れながら「今日は日曜だろ……」と布団をかぶり直す始末。
学校が遠くなっただけでも迷惑なのに、犬の世話まで押し付けられるなんてと、反抗期真っただ中の和樹には納得できないことばかりだ。必死で布団の中で抵抗を試みるが、最初が肝心とばかりになかなか引き下がろうとしない母親。
「ほら、リツも早く連れてって鳴いてるわよ」
一階からは、くーんくーんと散歩をねだる犬の声が聞こえてくる。その鳴き声があまりにも寂し気に思え、和樹は渋々とベッドから起き上がる。あんな声で鳴かれたら、意地も張りにくい。
「……ほら、行くぞ」
玄関で黒柴にリードを付け直し、祖母から手渡された散歩グッズの入ったリュックを渋々と背負う。中に何が入っているのか知らないが、意外と重い。老犬は黒いフサフサの尻尾を全力で振って歩き出した。